紅の陰影 3

 即席の部下達の顔を思い出しながら、サクモは目を細めて夕日が沈んだ方向を眺めていた。
 眼下に広がる国境沿いの森の外れには断崖が大きく口を開き、そこに散らばった忍は、四十代前半の特別上忍が一人と若い上忍が二人である。上忍の中にはまだ十代半ばと見える若者が混じっていた。
 その若者を除いた二人は、一度は顔を合わせたことのある者だったことでサクモはわずかに安堵していた。自覚があるからこそ誰にも言ったことはないが、サクモには人見知りの気があるのだ。無機質無感動と評される彼の気質には、それが輪をかけていることを知っている者は死んだ両親と三代目くらいのものだろう。
 数時間で戻った部下達が、それぞれが与えられた仕事をこなしたことを報告してその夜は解散となった。一所に集めた小さなテントの群れにそれぞれが潜り込んだのを見届け、サクモは最初の夜警番として森へと足を向けた。


 月は煌々として夜は黒かった。
 見上げる天の眩しさと見下ろす森の翳の間を縫うように、ゆっくりと辺りの気配を探りながらサクモは枝を渡る。夜警は嫌いではない。しじまを乱さぬよう『夜』になりきり、忍ですらなくなるほど黒く沈むひと時は、サクモを緩く興奮させる。
 その、静寂が途切れた。

「出てこい」
 杉の大木から真下に降下して低く告げる。敵ではない。だがサクモはあえてくないを掲げて見せた。牽制し、茂みの一点を沈黙して見つめていると、がさりと枝を掻き分け予想通りの姿が現れた。チーム最年少の上忍、波風ミナトだ。
「なに?」
 少年と言っていい風貌の彼は、金色の髪を揺らして首を傾げた。それはひどくあどけないようで、計算し尽された仕草のようであった。サクモは彼の背後に気をこらしたが、もう一人は逃げてしまったようだ。
「なぜ逃がした」
「俺が遊んであげてたんだよ」
 思いもかけず、彼は屈託無く笑った。悪びれないというだけでは表現できない、本心からの笑みのようにも見える。にも関わらず、動かないはずのサクモの胸の中に、不快な塊がこつりと落ちた。
「相手は誰だ」
「冗談?」
 淡い色の髪をいじって彼は唇を緩ませる。
「あなたともあろう人が気配を読みそこなうはずがない」
 幼さが残る顔で笑いながら、だらしなく開いた胸元を留めつけ彼は呟いた。そしてどこかねっとりとした動きでまた髪をいじる。それで首筋に赤く残った情事の痕跡が露になり、サクモはまた胸の中に落ちてきた不快感に眉をひそめた。
「合意か」
「そうだよ。わからない?」
 悪びれない顔を見つめながら、サクモは細く溜息を吐いた。出立前に見た彼の任務実績ファイルには、年齢の欄に十五という数字が記入されていたことを思い出す。
「おまえは若い。強要されたのなら、放っておくわけにはいかない」
「違うよ。本当に俺が誘ったんだって。まさか、あの人を折檻したりしないよね? 戦場での処理なんて珍しくもないんだし」
 確かにそうだ。彼らがまさしく合意したのだとするなら咎める理由などはない。たとえ片方が子供と言っていい年齢でも、サクモが任務中の情事をひどく嫌う質であろうとも。その心情を知ってか知らずか、瑠璃を淡く滲ませたような明るい色の目が、下から覗くように近づいてくる。
「あの人を叱らないでよ。ね? 隊長」
 彼はまともに視線を合わせたまま、接近を止めない。
 サクモの顎の下、淡く透ける髪は夜に目立つものではなかった。むしろ逆に闇を吸って空気に溶けている。それに初めて気づいた時、細身の腕が首に回った。ぶら下がるほど体重を預け、体温の高い体がサクモの胸に貼りつく。
「よせ」
「あなたの髪、冬の空の色をしてるね」
 薄い色の瞳が、サクモを見てほんのりと細まった。上がったままの体温は逢引が中途で終わったことを伝え、息が混じる距離まで近寄って少年は囁いた。
「俺の好きな色だよ」
 よせ、ともう一度強く言ってサクモはまだ華奢な体を押し退けた。が、実際に何かに触ることは無く、サクモの周りには漂うような笑い声だけが残った。
「許してくれるよね、隊長」
 前方に柔らかく着地した少年は身を翻しながら、横顔でサクモを流し見た。そしてわずかに身を屈めると、その動作から予想できる距離の三倍を超えて跳躍した。そして大木に跳び上がり、宿営地の方向へと消えた。


 翌日からのサクモがいつもに増して無口だということにはすぐに皆が気が付いた。二十代始めの上忍が、決してサクモと目を合わさないことも。しかしそれで作業に支障がでるということもなく定期任務は無事終了し、彼らは里の大門で解散した。


「……ちっ」
 一人報告に向かうサクモは舌打ちし、大きく跳躍した。しかし、付けてくる者は速度も高度も完全にサクモを真似て、いつまでもぴたりと付いてくる。滅多にしない舌打ちなどをしたことにサクモは苛立ち、隠れる必要もないというのに姿を見せない者をちらりと振り返った。すると一瞬、残像のように電柱の影に黄色い髪が見えた。
 それでまた、サクモは腹を立てた。任務中にはっきりと彼の能力は確認している。そんなミスをするはずはないのだ。敢えて自分に見せたのだとサクモは確信し、二度目の舌打ちが漏れる。だが、ここで止まって彼を叱責するつもりはなかった。これ以上、関わりたくない。いや、関わってはならないと無性に思う。この自分の勘を信じるなら、ここは無視でやりすごすのが上策だ。
 サクモは速度を上げた。報告を済ませた後まで追ってくるなら、高等忍術を使ってでも逃げるつもりだ。近付いてきたアカデミーの門を突っ込むようにくぐりながら、サクモは任務受付所への最短距離をとった。その辺りから、背後の気配は消えてしまい、サクモはようやく一人になった。

 何度か深呼吸をして歩き出す。気が荒れていたせいで、受付所をぴりぴりさせてしまった。滅多にあることではない。知り合いの上忍が、驚いた顔をしてサクモを見ていたことを思い出せば、また胸に黒い感情が沸き起こる。
「何が目的だったんだ」
 思わずそう漏らしたが、あの手の人間の考えることなどわかるはずもないということは、これまでの経験でサクモはよく知っている。妙な性格の上忍というものはあまりにも多いのだ。他人から見れば、その中にサクモも入っているのだろうが。
 ぐっと唇を引き結び、サクモは家路を辿った。自分の帰還を喜ぶ息子の顔を見れば、きっと元の穏やかさを取り戻せる。自然、足は速まった。カカシに家の目印だと教えた樫の大木を過ぎ、黄色い斑の入ったマサキの生垣を回って玄関の前に立ち、鍵を探してポケットに指先を入れた。

「へえ。隊長の家、ここだったんだ」

 総毛立った。不覚にも。
 振り返れば、淡く輝く髪を今は太陽に透かし大気に溶かしている少年が笑っていた。
「古い家だけどよく手入れされてるから、どんな人が住んでるんだろうって思ってた」
 確かに途中で気配は消えた。ここに帰る道のりでも何度も背後を気にしたが、全く気付くことはなかった。
「……ふざけているのか」
「ん?」
「知っていたんだろう、ここが俺の家だと。それで先回りしたんだろう」
「んーん、知らないよ」
 歌うように言った彼は、サクモの緊張などそ知らぬふりでのんきそうに近寄ってくる。
「帰れ」
「ちょっとだけ、庭見せて欲しいな」
「何がちょっとだ」
 むかむかと動悸が胸から腹へと下りて行く。怒声を漏らさぬようにサクモは腹をしっかりと片手で押さえ、さっきまで部下だった少年に向き直った。
「なんのつもりだ。俺に何の用がある」
「用がなきゃ、来ちゃだめ?」
「当り前だ」
「どうして?」
「黙って後を付けるような者に答える義務はない」
「じゃあ今度は一緒に帰ろうよ」
「……」
 言葉を無くしてサクモはまじまじと黄色い頭を見下ろした。何、と首を傾げる姿に本格的に話にならない人物だと判定を下し、サクモは彼を完全に無視して背を向けた。
「お茶くらい、でない?」
 軽い足取りが、じゃれるように追ってくる。
「帰れ」
 振り返り無感情を装って一喝すると、彼は俯きしかし、変わらずに薄く笑んで上目でサクモを見た。
「どうしても、俺が嫌い?」
 数歩後退るように離れた相手ににべも無く告げる。
「好き嫌いの問題じゃない」
 言い捨て、玄関の鍵を開けた。背後の気配は徐々に遠くなっていく。ほっと息を吐き、そしてサクモは気付いた。もしかすると自分は、特別変わった人間に付きまとわれたせいでひどい人見知りをしていたのではないか。そう考えると少しばかり、訳のわからぬほどささくれた気分がほぐれた。
 がらりと開けた引き戸の向こうでは、息子がちんまりと上がり縁に腰掛けていた。サクモの様子に何かを感じているのか、両足をぶらぶらと振りながら瞬きを繰り返すばかりで、いつものように抱きついてこない。
「帰ったぞ、カカシ」
 頭に手を置いてやるが、カカシはくすぐったそうに身を捩った。そして立ち上がるとぱたぱたと音を立てて奥へと駆けて行ってしまった。
「……怖がらせたか」
 いずれもっと深刻な戦いの時には、怯えさせるなどというレベルではなくなるだろうから、こういった経験も必要だとサクモは思っている。だが、今でなくてもいい。また、あの少年への不快が小さな塊となって腹の底に溜まったようで、サクモは乱暴にサンダルを脱ぎ捨て、額当てを毟り取った。その、ぎしりと廊下を鳴らして歩き始めた足元に小さな影が差し掛かる。
「こわくないよ」
 カカシが柱の脇から顔だけを出していた。
「おかえりなさい、おとうさん」
 サクモはその白い頭を見下ろした。それは自分と似ているのか真似ているのか表情に乏しい顔だったが、黒々とした目は全ての感情を集めたようにきらきらと光り、じいっとサクモを見上げていた。
「ああ。ただいま」
 小さな手が差し出され、サクモが屈むとぺたりと張り付くようにカカシは抱きついてきた。
「腹は減ってるか?」
「うん」
「じゃあ何か作ろう。……ああ、それは食えないぞ」
 額当てを齧る息子を揺すり上げ、サクモはゆっくりと台所へと入って行った。
 もう、腹に溜まったはずの不快感はどこにも残っていなかった。







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