「今更何なのよ!」
投げ付けられる食器を避けながら、サクモは手に持った花を机に置いた。即座にそれを握った白い指が、花びらを毟ってサクモに投げ返す。
「こんなもの!」
ばっと舞った紅い花弁を、畳の上に寝かされた赤子が目で追う。
「気にいらなかったか」
「馬鹿じゃないの!」
興奮しきっているようでいて、女の目は冷静だった。その冴え冴えとした光を見つめながらサクモは終わりを確信した。生まれて一年に満たない子は、二人の緊張を余所にあどけない声を上げながら花びらを掴もうと畳を這っている。それを感情のない目で一瞥し、サクモの妻であるはずの女は言った。
「それ、あんたの子で良かったわ」
その言葉の意味をサクモは良く知っている。妻は、結婚当初から他に何人も男を作っていた。
「血統を残せて満足?」
いつかははたけの血を残さねばならないとわかっていたが、元々サクモは人間に対する関心が薄かった。自分で相手を見つけるなど、どんな新技を開発するよりも困難だと信じていた。そういう質であったから、二十五歳になって間もなく里長によってこの女に引き合わされた時、里のための婚姻だと知りながらサクモは感謝すらした。しかし当の女は、始めからサクモを、正確には『はたけの血』を嫌っていた。理由は未だに知れない。彼女が惚れる男は決まって能力も血筋も平凡以下の者であったから、自らを縛ってきた『血統主義』そのものへの嫌悪と抵抗故だったのかもしれない。
「おまえの血も引いている」
妻もまた、名門の一族の出だった。里の上層部が彼女とサクモと娶わせることを決定した時、彼女は泣き叫んで嫌がったという。幼くして両親と死に別れた彼女は結局、自分を育てた里への恩返しのために何もかもに目を瞑ってサクモとの婚姻を承諾した。それが今から約二年前のことだ。
「そうね。凄まじい血統ね」
自嘲しながら吐き捨て、女は既に纏めてあった荷物を片手に持った。
「これでお役御免にしていただくわ」
「カカシはどうする」
足元に座って花びらで遊んでいる子供を、母親は顔を顰めて見下ろした。
「こんなもの……。あんたそのものじゃないの! 見るのも嫌だわ!」
誰の種かわからぬままの出産だったが、彼女は生んだ直後から子供の父親がサクモであると確信していた。我ながら無駄な母性本能だと、祝いに訪れた友人に零したらしいとサクモは人づてに聞いた。産婆に叱りつけられた女は地獄を見るような顔つきで数日間初乳を飲ませた後は生んだ子に指一本触れようとせず、任務と外泊でほとんど家に帰らなくなった。そのまま一年近くが過ぎ、二人の関係、なによりも赤ん坊の状態を心配したそれぞれの友人の努力で、形ばかりの夫婦は今夜久しぶりに顔を合わせることになったのだ。
「連れて行かないんだな」
「いくらあたしでも、こんな小さいのを山に埋めるのは寝覚めが悪いわよ」
「そうか」
「さよなら」
背を向ける女に赤子が手を伸ばす。サクモは身を屈めてその手を握り、抱き上げた。
「おまえ、これからどうするんだ」
返事など返らないだろうと思いながらそう聞いた。サクモは、気性の激しいこの女を忍らしく頼もしい妻と思い、長く伸ばした栗色の髪を美しいと思っていた。感情が抜け落ちがちな自分には、こういう女が必要なのかもしれないと思っていた。今夜、彼女が好きな花を贈って関係を修復し、来月やってくる息子の初めての誕生日を二人で祝いたいと思っていた。本当にそう、心から思っていた。だから、彼女の行く末を案じてそう聞いた。
「あたしはこれから、くだらない男とくだらない子供を作るの。そして二人とも抱き潰すくらい可愛がるのよ。邪魔する奴は誰だって殺してやる」
振り向きもせず答えて、女は玄関に向かって真っ直ぐ歩いて行った。
それが、サクモの短い結婚生活の終わりであった。
サクモの日常は淡々とした繰り返しだった。前線を中心とした任務をこなし自宅で体力を回復する、彼の人生はそれだけと言っていい。
婚礼前も妻との冷戦中も変わらなかったその生活は、当然彼女が去った後にも変化は無かった。新しい要素であるはずの息子も、誕生直後から家政婦によって育てられていたため実質サクモの生活に強い影響を与える存在ではなかった。
しかし、サクモはカカシを手放すことはしなかった。施設に預ける手段もあったがそれを選ぶことはなく、自宅に戻れば積極的に面倒をみた。縁側で虫を追うカカシの腰と自分の腰を紐で繋ぎ、巻物を読み武器の手入れをするのがサクモの休日の常となった。縁側から落ちて宙吊りになったカカシに気付かず家政婦に叱られ、子守歌代わりに忍の心得をぼそぼそと聞かせるようなぎこちないものではあったが、彼なりに父親としての誠意を見せるサクモに息子はよく懐いた。
そうして穏やかとも言える日々は過ぎていった。
やがてカカシが三歳の誕生日を迎える頃、サクモに再婚話が持ち上がった。幼子には母親が必要だと説く三代目火影と、だからこそもういらないのですと呟くように反駁するサクモの話し合いは平行線を辿り、三度目の呼び出しも互いの溜息で終了した。
「カカシ?」
上忍待機所に戻ると、なぜか息子はゴミ箱の中に入っていた。抱き上げようと手を伸ばすとカカシはふわふわと髪を揺らして首を横に振った。
「カカシはいないの」
あどけない声に、待機当番のくのいちがソファの上でぷっと笑う。
「かくれんぼをしてるのよ」
「そうか」
気が済むまで置いておこうとゴミ箱から離れ、サクモは茶瓶の乗った机へと向かった。火影の呼び出しの間カカシを預かってくれていたもう一人のくのいちがソファの後ろを覗き、あらここにもいないわあと楽しげに言う。
「再婚話だって?」
「そうらしい」
黒髪を掻き上げる女の隣に座り、サクモは湯飲みから立ち昇る湯気を吹いた。
「そうらしい、じゃないわよ。どうするの?」
「断った。諦めてはくれなかったが」
「心配なのよ、三代目は。結婚を勧めた責任を感じてるんだろうし、ほら二番目の子、ウチと一緒でカカシの一つ上じゃない。ひとごとじゃないんでしょうよ」
「よくわからん」
「なんでよ」
「俺の結婚は俺の問題だし、俺の子は三代目の子じゃない」
「……あんたの方がわかんないわ」
ああもう見つからないわ降参よ、と鬼役の女が困った声を出している。
「不自由は無いんだ」
茶を飲むサクモを細めた目で眺め、黒髪の女は長く息を吐き出す。
「まあ、仕方ないとは思うけどね」
二年前、妻との話し合いの場を設けた友人に、サクモはただ肩を上げて見せた。その足元に、ゴミ箱から這い出たカカシが転がるように走り寄る。
「みつからなかったよ」
「良かったな」
帰るか、とカカシを抱き上げサクモは立ち上がった。友人もまた立ち上がってカカシの顔を覗き込む。
「またねカカシくん。今度、ウチの子とも遊んでやってね」
「うんいいよ」
手を振る二人の女に見送られ、親子は引いたばかりの油がきつく臭う廊下を渡って晴れた陽の下に出た。
「あるくの」
もがくカカシを下ろしてやると、螺子を巻いたばかりのような勢いで走り出す。どこで覚えたものか、足音をさせずに道端で何かを突付いていたハトに突進していく。どうなることかと見ていれば驚くほど簡単に捕まえ、両手でむんずと掴むとまた勢い良く走り戻って来た。
「はと!」
精一杯背伸びをして、カカシは灰色の生き物をサクモに差し出した。ハトは何が起こったのかわからない様子でぼんやりしている。
「そうだな」
小さい両手からハトを受け取ると、カカシはまた走って先を行く。今度の標的は猫のようだ。あれは無理だろうと思った途端、尻尾を思い切り掴んだお返しに手の甲を引っ掛かれた。
「ひっかいた!」
カカシは戻って来て赤い傷を見せた。泣いてはおらず、驚いた顔をしている。サクモは少し考えてから言った。
「これ、逃がしていいか」
手の中で暴れ始めたハトを示す。
「うん」
ハトを飛び立たせ、サクモはカカシの手首を取った。小さい傷から血が玉のように滲んでいる。その場に屈み、サクモは盛り上がった引っ掻き傷をそっと舐めた。
「猫は痛いから、捕まえない方がいい」
いたくないよ、とカカシはぱちぱち瞬きした。また走り出しそうな気配がして抱き上げる。
「いぬはつかまえていい?」
「だめだ。猫より痛い」
「ぶたは?」
「豚? どこにいるのか知らんがまあいいだろう。でも小さいのにしておけよ」
じゃあぶたにする、と言いながらカカシは胸ポケットをいじり出した。
「これなに?」
「兵糧丸だ。まずい」
「たべるの?」
「できれば避けたい」
黒い丸薬の入った透明な筒をからからと振りながら空に掲げて透かし見て、カカシはぷしりとくしゃみをした。
「おくすりのにおいがする」
「鼻がいいな、おまえは」
ずぼ、と元の場所に筒を差し込み、カカシはその隣にきっちりと詰まった小さな巻物と格闘を始めた。その間に家に帰り着き、胸ポケットから離れようとしないカカシに白紙の巻物を与えてサクモは一人庭に出た。
父母から受け継いだ庭木を一本一本触り、長い枝を滝のように垂らした萩の前に立つ。赤紫と白の二株が絡まり境を曖昧にしている茂みは、サクモの母が一番の気に入りとして大切にしていたものだ。柔らかい楕円を描く葉を撫でながらサクモは植物の青い匂いを嗅いだ。そろそろ庭師を呼ぶ頃合だ。
「おてがみかいた!」
小さな足が縁側から飛び降り、裸足のまま駆けて来た。手の先からはひらひらと巻物が舞っている。
「手紙、か」
よれた巻物を受け取ると、ところどころはみ出しながらの曲線が並んでいた。座敷がひどいことになっているのは確実な、黒々とした墨汁が流れた跡を見ながらサクモは萩の前に巻物を広げて置いた。
「誰への手紙だ?」
「わるいひと」
「うん?」
「おとうさんとけんかするの」
「ああ」
のたくる文字らしきものは判別不可能だ。二人並んでしゃがみ、明るい太陽の光を受けて乾いていく紙を見下ろしてサクモは言った。
「読んでみろ」
しゃがんだまま、カカシがにじにじと前に出る。
「おうちにかえってね。ばいばい」
小さく手を振りながらカカシは言った。そして巻物をずるずる引きずり、その端をサクモの膝に乗せた。
「わたしてね」
じっと見上げてくる黒い目を見返し、サクモはふむと頷いた。柔らかい髪を撫でてやると、カカシは首を竦めてから萩の下に潜って行った。
翌日、サクモは定期任務の一つである国境視察へと向かうため、早朝に起き出した。情勢不安を抱える当時の里ならではの、数ヶ月に一度は必ずまわってくる任務であった。今回は経験の浅い上忍が多いとの通達があったため、通常よりもやや重い装備で私室を出て隣を覗くと、布団に小さな盛り上がりが見えた。カカシには、日が昇れば家政婦がやってくるからそれまで大人しくしているように昨夜の内に言い含めてある。静かに障子を閉めるとサクモは玄関に回り、底を特に丈夫に作ってあるサンダルを引っ張り出した。
家々の間から、薄く太陽の光が見えていた。赤く光る町並みを見渡し跳躍するために身を縮めた時、小さな足音が聞こえた。
「おとうさん」
振り返るとカカシが玄関の戸を引き開け、片目を見せた。パジャマから突き出した細い足は、子供特有の柔らかさで緩く曲がっている。焦れているように左右に揺れる息子を見つめ、サクモは胸ポケットから墨汁で汚れた巻物をちらりと引き出して見せた。
「鍵をかけて寝ていなさい」
カカシは頬を膨らませるようにして笑い、大きく頷くとがたがたと戸を閉めた。それを見届け、サクモは朝霧にけむる地平へと身を翻した。
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