紅の陰影 12

「ただいまだってばよ!」
 がらりとドアが開き、予想通りの姿が飛び込んできた。
「イッルカせんせー!」
「ちょい待ち」
「うわ、なんだよ!」
 ナルトの襟首を掴んでぶら下げ、カカシは呆れ顔で受付所の面々に頭を掻いて見せた。
「すみませんね、毎度騒がしくて」
「離せよー!」
 宙に足を浮かせて暴れるナルトを見上げ、サスケが大げさに肩を落とす。
「大人しくしてろ、ウスラトンカチ」
「そーよ、恥ずかしいったら」
 追随するサクラの声にしゅんとしたところを床に下ろされ、ナルトは唇を尖らした。
「だってさ、今日はすっげー上手くいったじゃんか。早くイルカ先生に報告したくってさ……」
「わかったわかった、後で聞いてやる。ともかくみんなお疲れさま。カカシさんも」
 と言いかけて見上げると、カカシはイルカを見下ろしながら、左の眉をきゅっと上げた。
「お帰りなさい」
「はい、ただいま」
 にこにこと差し出される任務報告書を受け取りながら、子供ばかりの班だなと内心でイルカは笑う。そして心から安堵した。今日も大丈夫だった。あの夜以来、半月を経て沈黙を続けている肩の封印辺りにちらりと視線をやってからDランクの報告書に集中する。
「なあなあ、イルカ先生」
 机に手を突き身を乗り出したナルトがにやっと笑う。
「今夜辺り、一杯どうだってばよ?」
「……どこで覚えたんだ、そんなの」
 イルカは時計を見上げた。勤務終了まで後少しだ。
「そうだなあ。久しぶりだからいいか。おまえ、十五分待てるか?」
「待てる待てる!」
「じゃあアカデミーの門の前で待ってろ」
「やったー!」
「サクラもサスケも来いよ。先生が薄給でおごってやるぞ?」
 え、と困ったふりでサクラがちらちらとサスケを見る。当のサスケはもったいぶった仕草で考える風だったが、小さく頷いた。
「よし、じゃあみんな後でな」
「えーと、俺もいいですかね」
 どこか遠慮がちに言うカカシが可笑しく、イルカはサスケを真似てちょっと顎に指を置いた。
「ま、いいでしょう。自分の分は払って下さいよ?」
「もちろん」
 半分持ちますよ、と目配せをしてカカシは背を向け、子供達もそれに習ってまた騒がしく出て行った。


 そろそろ長くなったと実感できる陽が最後の光を投げる校庭を横切り、イルカは四人の影が長く伸びる校門に向かって駆けた。
「すまん、待たせた!」
「遅いってばよー。遅刻はカカシ先生だけで充分だって」
 頭の後ろで両手を組んだナルトが顔を顰めて見せる。言うね、とカカシがぼやき、イルカは跳ねる鞄を押さえてナルトの頭に手を置いた。
「悪い悪い、今日までの書類の提出を忘れててな」
「イルカ先生、そういうこと多そうだわー」
「なんだとーいつもじゃないぞ、いつもじゃ!」
 指を立ててサクラを見下ろしてから、イルカは先頭に立った。
「じゃあ行くか」
 五人は商店街に向かって歩き出した。しんがりのカカシの影がイルカの足先に伸び、それに被るようにナルトが跳ねながら嬉々として今日の報告を始める。
「でさ、そこで俺がカレイに影分身って感じでさ!」
「そこまでだ、ナルト。いくらDランクだからって、任務内容は関係者以外には口外しちゃだめだーよ」
「だってカカシ先生、こっからがいいとこなんだってば!」
「ダーメ」
 ケチ、とぶつぶつ言いながら下を向いたナルトのつむじを見下ろし、そうだぞとイルカは笑った。
「ねえカカシ先生、今日の依頼主って元忍の人よね」
 ピンクの髪を濃く夕日で縁取り、サクラが振り返る。
「先生の知り合いだったの?」
「ん? そうだけど、なんでわかった?」
「一度だけだけど、先生のこと隊長って呼んだのよ。みんな気づかなかった?」
「へえ、そんな人が依頼をしてきたのか」
 イルカも振り返った。振り返り、一瞬息を止めた。カカシは輪郭をきらきらとオレンジに染め、まるでチャクラを燃え立たせているようだったのだ。
「それ、カッコイイってばよ」
 両手を広げ、ナルトは後ろ向きに歩く。
「俺、これからそう呼ぼっかな、カカシ先生のこと」
「調子いいわね、あんたは!」
「任務っぽくてカッコイイじゃん! よっ、隊長!」
「やめなさいよ……」
 存外に困った声にイルカははっと気を取り戻して足を止めた。カカシの足音も止まる。
「カカシさん?」
「どうしたんだってばよ、隊長!」
 何かを小声で言うカカシはイルカに顔を向けているようだった。だがその視線はイルカを通り越し、その背後を凝視していた。五人の姿をはっきりと映し取る、大きく硝子の入った蕎麦屋の表戸を。



 足が勝手に止まった。
「カカシさん?」
 誰かの声が聞こえた。
 そちらを向き、カカシは目を見張った。
 そこには、懐かしい姿があった。
 橙色の光を纏った銀色の髪。全身にチャクラを燃え立たせるように揺らめく姿。
 遠い日に見たその人は草原に立っていた。太陽を背負って戦いの臭いを染み付かせ、わずかに背を丸めて自分を見下ろした、それだけで涙が出るほどに憧れたあの人は。
「父、さん」
 自分の声が他人のもののようだ。幾重にもこだまするように頭に響き、カカシはくらりと揺れた。側で誰かが呼んでいる気がする。それに縋ろうとして伸ばした手は何も掴まず、そして突如はっきりとした声が鼓膜を突き刺した。
「どうしたんだってばよ、隊長!」
 隊長、と呟き返したカカシの視界一杯に金色が映った。隊長、隊長と呼ばわる声が深く甘く歪む。
 誰の声だ、知っている、隊長、その声は。
 がくりと膝を突いた。
 金色の中を手探ればそこに墨を落とすように黒が混じる。
 眩暈のように歪む世界はゆっくりと幕が下りるように漆黒へと色を変え、やがて上下もわからなくなった。探り続ける手指に触れるものは無く、カカシは無我夢中で腕を伸ばした。
 何でもいい、触れられるものはないのか。

「その人、どうしたの」

 突然目の前に影が立った。
「カカシ」
 現れた影は幾重にもぶれ、カカシは大きく頭を振った。泳ぐように腕を振り回しても消える気配は無いそれが、一体何であるかがわからずカカシは周りを見渡した。だが、見えるものは目の前の影だけだった。
「どうしたの、ねえ、カカシ」
 近付いてくる姿は自分と同じ任務服を着ていた。いきなり眩しい月光が差し、金色の髪が生きているように風にそよぎ輝いた。
「起こして、カカシ。俺じゃだめなんだよ」
 懐かしく苦しい影に、カカシは諦めたようにうっそりと目を当てる。
「……先生」
「早く、カカシ。君の言うことならサクモさんは聞くんだ」
 みしりと足元が鳴る。畳だ、なぜこんなところに?
「先生」
 カカシは何度も頭を振った。昇る月、古い柱、染みの浮いた土壁、冷酒の入った徳利、畳を切り刻む障子の影、胸に迫る濃厚な鉄錆の臭い、粘度の高い液体の色。唐突にカカシはそこがかつて住んだ家だと悟った。悟った刹那に叫んでいた。
「父さんは死んでる!」
「嘘。起こして、カカシ」
「先生ならわかる、こんなに血が」
「カカシ、サクモさんを起こすんだ」
 低く、命じる口調に頭を振り回す。
「父さんは死んだ!」
「どうして」
「知らない、知らない、知らない!」
「どうして」
 知らない、裏返る声でそう言ってカカシは膝から崩れて手を突いた。そのほんの手前で赤い液体は固まって流れを止めている。ああ、こんなに汚れている、父さんの部屋が。
「どうして、サクモさんが、隊長が、死ぬの」
 顔を上げると、貼り付けたような笑みがあった。
「ねえ、隊長」
 血溜まりに平然と入った足がにちゃりと嫌な音を立てる。
「隊長、起きて」
 固まったものから引き剥がすように遺体を抱え上げる腕が、見る間に汚れていく。
「隊長」
 赤く染まった顔は目が閉じていなかった。金髪がそれを覗き込み、耳を澄ますような素振りをした。
「カカシ、起こして」
 充分に確かめ上がった顔にはやはり、笑う表情がこびりついている。
「起こして」
「父さんは」
「カカシ、隊長を」
 赤く染まった遺体がミナトの腕からずるりと滑った。それが畳に落ちる重い振動に弾かれたように、カカシは声を限りに叫び散らした。
「死んだんだ、父さんは死んでる、チャクラ刀で自分を突いて死んだ、死んだんだよ!」
「嘘だ」
 きっぱりとその人は言った。任務の最中に出すものと同じに、責任と強さに溢れた声だった。そのあまりの正常さに、逆にカカシはぶるりと震えた。
「嘘だよ、カカシ。だって隊長は強い人だよ?」
 せんせい、と言葉になったかどうか。カカシは震えながら目の前の人を見上げた。
 夜が朝に塗り替えられていく時間、影から抜け出しながら目の前の両手がゆっくりと伸びる。それは美しく迷い無く、連なる印を組んでいく。カカシにはその連なりは幻術の解呪に見えた。だが何事かが起こることもなく、印を組み終えた両手はだらりと下がった。
「隊長」
「せんせい、とうさんは」
「嘘だ!」
 ぎらり、と青い視線が焼き貫くようにカカシを見た。
「嘘だ。嘘だよ、カカシ。だって隊長はこんな風に死んでいい人じゃない。そうだろう、木の葉の白い牙と呼ばれる人が、畳の上で自害して果てる? 意味がわからない、俺にはわからない。ねえ、ねえ隊長、説明してよ。長く、とても長く一緒にいたでしょ、俺達は。あなたが俺を嫌いだってことは知ってる、知ってるけどこれくらい説明してくれてもいいはずだ。隊長、俺に言ったよね、おまえを殺さなければならないって言ったよね? いいよ、今殺していい、殺されてあげるから、隊長、隊長、隊長、どうして? カカシ、起こして、この人を起こして、頼むから起こしてよ。まだ言い足りないんだ、ずっとずっといつまでも恨み言を言い続けたいんだ。だってこの人、俺を投げたんだよ。縁側から庭に、服も着てなかったのに、あれだけ気持ち良さそうだったのに、ちょっとからかっただけで、カカシが可愛いって言っただけだったのに俺を投げたんだよ。あれだけ俺が好きだと言ったのに、この人はいつまでも俺が嫌いだった。誘えばいつだって抱いたくせに、この人は俺だけが嫌いだった。そうだよ、キス、キスだ、まだしてない、一度もしてない、六年、俺は全部を上げたのにキス一つこの人はくれなかった、心のかけらすらくれなかった、どうしてかな? あんなに好きだと言ったのに、一度もそれを聞いてくれなかったのはどうして? 他の男と寝るなって何度も言っておいて、でも束縛する気はさらさらなくて、第一俺のこと嫌いなのにどうしてこの人は、俺がこの人が足りなくて、足りなくて足りなくて足りなくて心臓に穴が開きっぱなしになっているからそれを埋めているだけのことを気にしてたのかな、カカシ、ねえカカシ、君から聞いて、隊長に聞いて、君の言葉なら隊長は聞くよ、どうして始めから俺を嫌いなのか隊長に聞いてよ。カカシ、頼むから、お願いだから、聞いて、隊長に聞いてよ!」
 一気にそう言い終えると、彼はがくりと首を垂れた。その頬がかすかに光って雫が落ち、それで思い出したように、カカシの目も熱く潤んだ。だが、それは瞬きの間に乾いて見開かれた。
「呪をもらったんだね、カカシ」
 顔を上げた人は、カカシの知らないものになっていた。一歩後退りすると同じだけ近寄ってくる人は、笑みを失って空洞のように暗く開いた目をカカシに向け、唇を震わせている。
「最期まで、君がもらうんだね」
「せ、んせ、い」
「わかるよ、何をもらったのか。俺と君が殺しあう術だ。いいよ、とてもあの人らしいね」
「知らない、し、らない……」
「でもそれじゃあ困る。困るんだ、カカシ……」
 しん、と音の絶えた部屋の中、再び美しく迷いない印の連なりがカカシの眼前で描かれる。最後の虎の印が開いて白い手が近付き、逃げようとしたカカシは血を踏んでよろめいた。その片腕をきつく捻り上げるようにして彼はカカシを抱え、額に手のひらを押し付けた。
「先生!」
「これで、大丈夫」
「あ、何……」
 ぱちん、と爆ぜた音がした。それを合図に脳が白く霞み思考が緩慢になり、足元から畳の感触が無くなった。
「せんせ……い」
 手を伸ばした。何も触れない。どこまでも落ちていく、どこまでも。


「カカ……さん!」
 がつんと殴られたような衝撃と共に、カカシは何かに引っ張られた。がんがんと内側から側頭部が痛む。
「カカシさん、しっかりして!」
 必死の声に頭を上げる。黒く霞んでいる視界に、誰かの歪む顔が映る。
「イルカ、」
「手を離して、離して!」
 ばちり、と何かが光った。それを合図に暗い視界が飛び散るようにばっと開けた。
「何……」
 怯えた顔が眼下にあった。黄色い髪が土に塗れている。その首に絡んでいる指が自分のものだとわかるまで数秒かかり、しかしわかっても全く動けない。
「カカシさん!」
「俺は、どう、なって……」
「先生、やめてえ!」
「カカシ、やめろカカシ!」
「離れなさい、サクラ、サスケ!」
 イルカと子供達の声が入り乱れて鼓膜を叩く。手首にナルトの指がかかって爪が食い込む。それでも手は離れない。
「カカシさ、あ、う!」
 また光が放たれた。凄まじい光線に反射的にまぶたが落ちる。その瞬間、指先が緩んだ。
「痛、う、カカシさん……!」
 苦痛に呻く声と共にまた光が点滅する。光が放たれる度に手から力が抜け、やがて完全に指は開いた。開いたよ、と顔を上げた先にイルカの顔が見えた。
「カカ、」
 蒼白の頬でイルカは目を見開いていた。その顔と裏腹に指は凄まじい速さで印を組む。
「封呪光!」
 そう叫ぶイルカの黒い目を見つめながらカカシの意識は今度は輝くような白の中に弾け、消えていった。







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