紅の陰影 13

「カカシ」
 カカシよ、と揺すぶられて目を開けた。
 いや、目は開いていた。何も見ていなかっただけだった。
「止めなさい。後は我々がやっておく」
「でも」
「いいんじゃ」
 手から何かを奪われる。
「だめ」
 取り戻そうとしたものは、ひどく濡れて滑った。
「カカシ」
 声と一緒に頬に衝撃がきた。なに、なに、と繰り返してカカシは手から去っていくものを追おうとした。また一つ頬を叩かれ、瞬いたその視界に、見知った者を見つける。
「三代目」
 形容のできない表情のその人は、カカシを凝視していた。
「三代目?」
「そうだ」
 頷く彼は、かすかに笑った。それに笑い返し、カカシは手元を探った。そうだ、拭かなければ、この紅いものを。
「俺、掃除を」
「カカシ、もういい」
「だって、父さんの部屋がこんなに汚れてる」
「カカシ」
 不意に引き寄せられた。顔から突っ込んだ懐は存外に頼りない薄さであったが、気が遠くなるほど暖かかった。思わずしがみ付くと染みるように彼の温度が伝わり、カカシはくらりと眩暈を感じた。
「三代目……」
「おうおう、ここにいようぞ。カカシ」
 背中を撫でる骨ばった指ばかりが感覚となり、また落下の衝撃がぐらりとカカシを襲った。


「カカシよ」
 ぽんと放り出されるように意識が浮上し、カカシは何度か瞬いた。
「カカシ、わかるか?」
 現実の声を聞き、カカシは問われるまま頷いた。白い天井と、上から覗き込む顔が見える。
「三代目……?」
「そうだ、わしじゃ」
 幻想の続きのように、しかしそれよりも老いた人がいた。
「ようやく戻ってきおったな」
「俺は……」
「一昼夜、意識を失っておったよ」
「意識?」
「術は放たれた。もう心配ない」
「何、何です……」
 起き上がろうとして、カカシはうっと呻いた。こめかみがずきずきと脈打つように締め付けられる。
「無理をするな。深い術だったのだ」
 笠を上げた指先を伸ばし、火影はカカシの肩に手を置いた。
「術……」
「すまなかったカカシ」
 ぽんぽんとあやすように肩を叩かれ、カカシはのろのろと顔を上げた。
「おまえを長く苦しめてしまったな」
 わからない、と見つめていると火影は表情を曇らせた。
「覚えておらんか? 記憶も開放されたはずだがの」
「……何を思い出せばいいのかもわかりませんよ」
 カカシは肺の底から息を吐き出して自分の手を見つめ、そこではっと火影を見上げた。
「ナルト、ナルトは無事ですか!」
「心配いらぬ。入院したのはおまえだけだ」
「そう、ですか」
 投げ出された自分の両手には、まだナルトの暖かい首筋の感触が残っているような気がする。二つの拳を作り、カカシは低く言った。
「俺の処分は決まりましたか」
「何のことだ?」
「俺はナルトを殺そうとしていました。それは覚えています。三代目は術と言われましたが、何にせよ俺には処罰が必要でしょう」
「おまえに処罰が下るなら、わしにも相応のものが必要になるのう」
 両手を腰の後ろで組み、火影は穏やかに言う。
「しかし、」
「何もかも、わかったのだよ、カカシ」
 皺深い微笑みを見つめ、カカシは一つ大きく息を吸った。






 長く降った雨でぬかるんだ道が途切れ、広く開けた場所へとカカシは足を踏み入れた。遠く、小さな人影を認めて目を細める。軽く右足に力を入れ、カカシは跳躍した。

「ここでしたか」
 素早く顔を上げる人を見つめ、微笑む。
「カカシさん……」
 イルカはぐっと唇を噛んだようだった。口布を下ろしながらだらりとした歩調で側に寄り、彼が見つめていたものをカカシも見下ろす。慰霊碑は、雨の名残で色を変えている。
「もう、いいんですか」
「ええ」
 退院するまでの数日間、イルカは顔を見せなかった。だが、意識の無い間に見舞いに来て泣いていた人がいると看護師が教えてくれた。
「会いたかった」
 ぽつりと零すとイルカは顔を背けた。
「すみません、俺は……」
「いいんです」
 背を向けようとする腕を掴み、カカシは距離を詰める。
「イルカ先生」
 逃げる肩を抱き、じっと堪えた。イルカはもがき、溜息を聞かせ、そして諦めたようにしんと静まった。
「ありがとう、イルカ先生」
 何かを言われる前にカカシは呟いた。
「俺を守ってくれてありがとう」
「……監視していたのに?」
 力を緩めて顔を見合わせると、イルカはわずかに視線を逸らせた。
「あなたのこと、全部、ずっと、三代目に報告していたんですよ」
「好きだからでしょ」
 カカシはイルカの視線をすくい上げるように上目で見つめた。
「俺のこと、好きだからでしょ、ねえ」
 意固地に視線を逸らすイルカに強く視線を当てる。
「言ってよ、イルカ先生」
 イルカが大きく震えた。う、とくぐもった声が漏れ、くしゃりと顔を歪ませる。
「そんなの、きまってます」
「うん」
 好きです、と掠れた声が肩の上を滑り背中に腕が回った。きつく抱き合い頬を摺り寄せ、カカシはもう一度囁いた。
「ありがとう」
 ゆるゆると頭を振ってイルカは顔を上げた。
「すみませんでした、長い間騙していて」
「そんな風には思ってないから」
 すん、と鼻を鳴らしてイルカは涙を袖で拭った。そして困ったような表情にかすかに笑みを混ぜる。
「もう、平気なんですか、カカシさん」
「うん、全部終わったよ。ナルトにも謝ってきた。ちょっと泣かれたけどね」
「なんて説明したんです」
「個人任務で幻術にかけられたって嘘ついた」
 そうですか、と動く唇に小さくキスを贈ればイルカは濡れた目を瞬いて微笑み、ようやく二人の視線は絡んだ。
「でも、イルカ先生にはちゃんと話したい」
 イルカの手を握り、カカシは言った。
「俺の先生が何をしたのかを」
 すっと表情をひきしめ頷く人を一度強く見つめ、カカシは握った手を引き歩き出した。
「三代目が真実を引き出したんだ。俺の意識が無い間に、本当に術が解けたのかを探った時にね」
 先生は、とカカシは顎を上げた。
「父の術を、持って行ってしまった」
「え」
 イルカが立ち止まり、カカシはそれに並ぶ。
「それは……どういうことですか」
「俺も詳しくは知らないんだけどね、そういう術があるんだって。術そのものを吸い取る、とイメージしたらいい。父が俺にかけた術を、先生は自分のものにしてしまったんだ」
「自分のもの、に?」
「そうしたじゃない、四代目は」
 首を傾げかけたイルカがはっと顔を上げる。
「九尾の……」
「そう。先生は、自分で自分を殺した」
 イルカは一瞬息を止め、でも、と口を押さえた。それに頷き、カカシは握った手に力をこめる。
「うん、どうしても疑問は残るよね。先生は四代目を継いで半年も経っていたし、九尾を封じる他の方法があったとも思えない」
 カカシは遠く広がる地平を見つめた。燃え始めた太陽が、あの夜赤く輝いた月に重なる。生きなさいと、最期の言葉を聞いた背が消えた、月に。
「三代目にもその辺りは不明瞭だったみたいでね。父の術を移し取る時になんらかの歪みが生じて、結局呪は果たされなかったのかもしれないと言っていた。でも俺には……」
 握り返す手の強さに縋り、カカシはイルカに向き直った。
「先生は、父に殺されたと、思えるんだ」
 ――それじゃ、困るんだよ、カカシ。君と俺が殺し合うのは困るんだ、とても、俺が、困るんだ。
 あの時、ほんの一瞬本当の笑みを見た。彼の頬から落ちた一滴の光のように、瞬く間のことだったけれど。
「少なくとも、先生はそうしたかったんだと思う。俺に火影を殺させたくなかった、そしてそれ以上に、父に殺されたかったんだと……俺は信じている……」
「そう……ですか」
 重く呟くイルカが何を思っているのかはカカシにはわからない。それと同じように、彼の人の真意もわからないままなのだろう。じっと見つめていると、イルカは今度は本当に首を傾げた。
「聞いてもいいですか、カカシさん」
「うん」
「では、封印は何のためだったんですか? 四代目が持っていってしまったのなら、カカシさんには呪は残っていないはずでしょう?」
「ああ、それ」
 それね、とカカシは頭を掻いた。
「俺、術にはかかっていたんですよ。まともな形とは言えない未熟なものだったんですが」
「え、それじゃあまだ他に、カカシさんに術をかけた者がいたということですか?」
「俺です」
 ぽかりとイルカが口を開け、カカシは唇を緩ませた。
「俺が自分でやったんですよ。三代目とこの話をしている時に思い出したんだけどね、先生が術を持って行ってしまって一人になって、俺は目の前で見た父の術をもう一度自分にかけたんです。笑っちゃうくらいに不完全に、でも、なんとか術の形にして、ね。あれでよく三代目を誤魔化せたもんだ」
「……どうしてそんなことを」
「寂しくて」
 さみしくて、と繰り返すイルカにカカシはもう一度笑いかけようとした。
「せっかく父さんからもらったのに、先生が盗ってしまったから」
 彼もまた、寂しかったのだ。どんなものでもいいから欲しかったのだ。今はそれが胸を締め上げるほどよくわかる。
「あの戦いから帰って、俺、ずっと父さんの側にいたのに、父さんはもう先生のことで頭が一杯で、先生のことしか考えてなくて……やっと俺を思い出してくれたのに、それも先生が盗っていったから、寂しくて」
「カカシさん……」
 自分が笑っていないことは、イルカの顔を見てわかった。しかしカカシは言葉を終えることが出来なかった。
「先生を初めて憎いと思ったんだ。憎くて、絶対に父さんの願いを叶えてあげるんだって、戌、丑、巳、虎、もう全然覚えてない、写輪眼があったら良かったのに、父さんが最期に俺にくれた術……俺だけの……」
 急に手を引かれ、イルカの胸に抱き込まれた。途端に目の前のベストの上に雫が零れ、カカシは泣いていることに気づいた。
「カカシさん」
 ただ名前を呼ぶイルカの声はひどく暖かい。カカシは目を閉じ、体重を預けた。
「カカシさん……」
 愛しい人の声に被り、たくさんの声がカカシの名を呼びながら脳裏を過ぎていく。懐かしい音、苦しい音、見送ってきたたくさんの音。
「イルカ先生」
「ここにいます」
 最後に残った一つきりの、たった一つの暖かい音に抱き留められカカシは深く呼吸をした。眩しいような匂いが胸に満ちる。
「うん」
 顔を上げ、視線を合わせたイルカは泣いてはいなかった。カカシが一目で落ちてしまった、あの迎え入れる笑顔がそこにあった。
「俺は、ずっとあなたの側にいます」
「うん、イルカ先生」
 小さく笑い返してカカシは背を伸ばした。夕日は既に糸のように細く、輝きだけを地平に残している。そこから放たれる圧倒するような紅が、空の頂点で夜と混じり合って虹のような色の帯を描いて広がっていた。二人は同じ姿勢でそれを眺め、顔を見合わせて微笑んだ。
「いい夕焼けですね」
「そうだーね」
 歩き出し、イルカはカカシの手を強く揺すった。
「もう一つ、聞きたいです」
「いいよ、もうなんでも」
「ナルトです。どうしてあの子を襲うことになったんです?」
「うーん」
 伸びをするように背を伸ばし、カカシはあの夕焼けを思い出した。全身に血を浴びて立ち尽くすかのような己の姿が刹那に頭を過ぎり、心臓の真上辺りに鋭く痛みが走る。それは雄雄しい印象とはまた別に、、自ら望んだ死に向かう父の姿そのものだったのだ。
「あの時硝子に映った自分を見て、あんまり父に似ていたからかな、術をかけられた記憶が一気に戻ったんです。父と先生と、両方の術の記憶が。ちょうどそこに、先生と同じ金髪のナルトがいた、ということだと思います。俺は、どうしても父の願いを叶えたかったんでしょう」
「……そんなに、似ているんですね、あなたとサクモさんは。そして四代目とナルトも」
「まあね」
 まるで恋のように、否応なく突き動かされる二つの面影。それが心の底に本当に沈んでしまうまでには時間がかかるだろう。もしかすると、胸に走るこの痛みが癒える日は来ないのかもしれない。
「でも、あなたがいてくれれば、もう間違えない」
 癒える日は来なくとも、この暖かい手が導いてくれる。
 そう信じられることが嬉しい。頑ななまでに真摯な黒い目が自分を、自分だけを見つめていることがたまらなく誇らしい。それをどう伝えたらいいのかわからずイルカを見つめると、彼はにっと笑ってカカシの頬に口付けた。
「間違えてもいいですよ」
 その目は力強く澄んでいる。
「俺が側にいますから」
「……はい」

 空の紅は淡く溶けるように色を失っていく。
 その影と光を見つめながら二人は繋いだ手を互いに引き寄せ、色違いの同じ印が刻まれた肩を触れ合わせた。

 それはただ、暖かかった。










                  ◇










 最悪の戦場だった。
 赤ん坊まで殺して駆けずり回って挙句に敗走。血、血、血、もううんざり、どうして忍なんかになったんだっけ。
「誰か代わってくれないかなあ」
 昇りかけの太陽に照らされながら、ミナトは呪詛のように呟き自宅への道を辿っていた。ずきずきと痛むのは足の負傷だけではない。馬鹿な男に引っかかって前線だというのに散々嬲られた。やはり馬鹿達に昇格を妬まれて死ぬ手前まで暴行されて以来、どうでもいいと誰にでも投げ与えてきた体だったが、それでも痛いものは痛かった。
 ここまで持ち堪えた意識が家が近いと思った途端に霞みだす。あとちょっと、一つ角を曲がって大通りを突っ切って。
 深く息を吐き出し、角の電柱に手を突いた。そして顔を上げ、あれ、とミナトは瞬いた。知らない場所だ。いつ道を間違えたのだろう。
「うわあ、家にも帰れないの、俺」
 もうだめ、と肩を落とした時だった。

 ああん。
 子供の声だった。甘えるように泣く声に誘われ、すぐ右手の空き地を見る。この早朝にどうしたものか、一組の親子が草の中にいた。
 背の高い男が足元で泣く子をじっと見つめている。転んだらしい二歳ほどの子供はまた、ああんと声を上げたが、それきりで顔をこすり、父親の脚絆を握ってよろよろと立ち上がった。
「よくやった」
 そう言って父親は子供を抱き上げた。一目で類縁とわかるよく似た親子であった。二人の鈍く光る銀髪が赤々とした朝日に照らされて燃え立ち、複雑に陰影を描いて風になびく様が、ひどく美しくミナトの目に焼きついた。
 男は子を抱えてごく緩やかな歩調で空き地を横切り、道へと踵を下ろすと、不躾に視線を当てるミナトのすぐ脇を通った。そして行き過ぎるかと思えたその足は、数歩進んだところで止まった。
「悪い日ばかりじゃないさ」
 男は、短い刀を背負った背を向けたままそう呟くように言った。そして再びゆっくりとした足取りで遠ざかって行った。

 取り残されたように立ち竦み、ミナトは親子が角を曲がるまでを見送ってやっと声を出した。
「そんなの、知ってる」
 知ってるのに。
 いつの間にか頬が濡れていた。きつくまぶたを閉じ、ざわつく胸を押さえてミナトは長くそこに立っていた。

 ミナトがその男の名を知るのは、半年後のことである。


                                   (終)







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