明滅するように光を放つ水晶が、虫の呟きのように小さく鳴った。
長く閉じていた目を細く開き、木の葉の頂点に立つ老人はホムラの肩から手を離す。
「猿飛よ。術の解法を、おまえはまだ探しておるのだな」
そうだ、と答えながら三代目火影は笠を深く被り直した。身に染み付いた音を立てぬ足さばきで水晶に近付く。
「猿飛」
ホムラも視線を下げた。火影の心中そのもののように、水晶の中、ぼうと再び銀が浮かぶ。昏く沈む森に尾を引いていく白銀の影は瞬いては消え、また枝の間に現れる。
「長く疑問に思っていたことがある」
「なんだ」
「なぜカカシの術は解けんのだ? おまえの腕が悪い訳では決してないだろう。サクモほどの手だれが命と引き換えに成した術とはいえ、二十年近くの時を経た。そろそろ術そのものが風化し始めてもおかしくはないはずだ」
「おまえがそう思うのも無理もない」
火影は噛み砕くようにゆっくりと呟き、視線を外した。それに向くホムラの目の光は強い。
「……何を、隠している?」
「……」
沈黙が答えとばかり、ホムラは一歩火影に近付いた。
「猿飛」
長老はゆっくりと机を迂回し、椅子に腰を下ろした。
「……そうだな。カカシの封印が緩んだ今、おまえにも話すべきだろう」
煙管を片手に取り、火影は一息深く吐き出した。
「わしがおまえ達に伝えたことは真実ではない」
「何の話だ」
「サクモが禁術でもってカカシに命じたことだ」
「『火影を殺せ』、そうではないのか? サクモは精神を病み、里の頂点を害することを望んで死んでいったのではないのか?」
「違うのだ。わしがカカシの深層意識を探って突き止めた術の内容は、『ミナトが四代目火影になった場合に殺害せよ』というものだった」
「……ふむ、なぜ嘘を?」
「聞いてくれ、ホムラ」
火影はきつく眉を寄せ、水晶を睨む。
「わしがそのような誤魔化しをしたのは、異様なことだと思ったからなのだ。サクモが精神を病んでいたのだとしても、なぜ『ミナト』なのだ? わしでよいではないか。なぜサクモはミナトを火影にしたくなかった? 自らが死してもそれを止めたかったのはなぜだ。一体あの二人に何があったのか、わしは気になったのだ」
続けろ、とホムラは頷く。
「サクモの葬儀が終わってまもなく、わしはこの部屋にミナトを呼んだ。難儀するかと思っておったがの、簡単に白状したよ、ミナトは。サクモが殺したいほど自分を恨んだ理由は『悪戯』のせいだろう、とな」
「悪戯?」
「あの雨の潜入任務の直前、ミナトはサクモの術をほとんど封じたらしい。敵方から偶然入手した巻物に記されていた術を、上忍相手に試してみたかったそうだ。まさかサクモが己の変化に気づかぬまま大きな任務に行くことになろうとは思ってもいなかったと、笑っておったわ」
「なんと……なんということだ……!」
ほとんど硬直してホムラは火影を凝視する。
「ミナトのやったことは、里への攻撃に等しいぞ、猿飛!」
「そうだ」
「ミナトはともかく、なぜサクモは言わなかった、それを我々に訴えなかったのだ!」
「それはわしにもわからんよ。だが、考えてみるといい。『木の葉の白い牙』とまで呼ばれた男が、深刻な術を知らずかけられてしまう、そんな無防備な状況を、な」
「……そういえば、あの二人が同衾しているという噂を聞いたことがあるが」
「そういうことだろう。サクモのことだ、そのような事態に陥ったことを恥じて黙したのだろうと思う。あの二人にどういういきさつがあったのか、わしは知らぬ。だが、サクモが簡単に結論を出したとは思えない。どれほど悩み狂った末にあのような最期を迎えたか……。それを思うと、奴の代わりにわしがミナトに懲罰を、それも相当に重いものを与えねばならぬと一時は心に決めた……」
だが、と言葉を置いて火影は紫煙の中で目を閉じる。
「サクモ亡き後、ミナトまでが懲罰を受け火影候補から外れることは、何としても避けねばならなかったのだ」
「ダンゾウか」
がつり、と煙管を灰皿に叩きつけ、火影は頷いた。
当時、四代目火影候補は三忍とサクモとミナト、そして当時は盛んに活動していた暗部養成部門「根」の主任であったダンゾウが推す、タカ派の忍であるアサギの六人にしぼられていた。水面下の打診で綱手と自来也は火影になる意思が無く、二人ともがサクモを推したこともあり、上層部の中ではサクモがほぼ四代目に内定していた。だからこそ、雨での失敗に対する失望が大きかったのだった。
「あの時点でわしが真実を話しておればミナトは確実に候補から落ち、ダンゾウの意のままになるアサギが四代目に内定した可能性が高かった。それだけは、避けねばならなかった。木の葉の忍を、忍の域を超えた殺戮集団に変えたがっている者どもなどに、里を牛耳られるわけにはいかなかったのだ」
「そう、か……」
「そしてわしは、サクモの術は『火影を殺せ』というものだったという嘘をおまえ達に伝え、カカシにかけられた術をカカシの記憶ごと封印し、全てに蓋をした……」
「……言葉がない」
「すまぬ」
組んだ両手に額を乗せ、火影は低く呟いた。その言葉は、ホムラだけに向けられたものではなかった。
火影に近付き、ホムラは机に手を突いた。軽く揺れる水晶は、半円を描くカカシの跳躍を捉えている。その軌跡をなぞるように、赤く血飛沫が舞う。戦闘が始まったのだ。花が散るようなその赤を見つめながら、ホムラは深く嘆息した。
「俺は今まで、サクモの自決は悲劇だが傲慢な行為だと思っていた。あの聴聞会で、サクモは己が火影候補から外れたとわかったはずだからな、その憤りと自己憐憫のあまりに精神を病んだものだと思っていたぞ。そう、人に話したことすらある」
「そう思わせたのはわしだ」
ホムラは無言で頭を何度も横に振り苦悩の表情を見せていたが、ふと動きを止めると瞠目した。
「では、今カカシに与えられているおぬしの封印は一体何のためだ? あの術が『火影になったミナトを殺すもの』であるなら、ミナトが九尾の一件で死んだ時点で失効しているはずだろう」
「わしも十二年前、そう思ったよ」
長老は遠く、過去を見透かす目を虚空に向ける。
「十二年前、ミナトが四代目になってからは常に警戒していたが、結局カカシは術の影響を現さず、四代目は九尾の件でこの世を去った。これで術は失効したものとわしも考え、改めてカカシを呼び、写輪眼の検査と偽って封印解除を試みた。だが、その時カカシを深い催眠状態に置いたことで、新たな問題が浮かび上がってきたのだ」
「新たな問題、だと?」
「サクモの術には、変更が加えられていたのだ」
どういうことだ、とホムラが向ける視線を真っ向から受け、火影は一語一語、言葉を選びながら言った。
「わしにもよくわからんのだ。暗示のかかり方や強さから見て、サクモの術の上に、それと似た術をかけ重ねたのではないかと考えてはいるが、な。そもそも、最初にカカシの深層意識を探った時にはそんなものは見えなかった。カカシの精神深くに食い込んだ根のようなものが、時の経過と共に表層に現れてきた、と考えるしかあるまい」
「また面倒な……。カカシはどうなっておるのだ」
「術はカカシの精神状態に随分と影響を受けておるようだ。わしからは、術がかかっているとしか言えん」
「……にわかには信じられんな。プロフェッサーと呼ばれるおまえにすら解明できぬ術をかけ与えることができる者、か。それほどの忍はそうそう、」
と、言葉を止めてホムラは硬直した。
「そうだ、ホムラ」
額を触る火影は、言葉そのものが苦いかのように顔を歪めた。
「呪われたのがミナトなら、それを変更したのもミナトだ。わしはそう確信しておる。殺しのターゲットとなった者が、その術を改変した。理にかなっていると思わぬか? そして父の術と師の術、その狭間におかれたカカシの精神が抵抗と恭順の間で激しく揺れ動き、術に影響を与えていても不思議はない」
煙管を指先に、火影は深く煙を吸い込んだ。冷や汗を隠さず、ホムラは強く眼鏡を押し上げた。
「ナルトのみならず、厄介なものを残していったものだ、四代目は……。猿飛、イルカに封印を仕込むくらいでは間に合わないのではないのか? もう一度、カカシ自身を強く封じ直してはどうだ。微力だが俺も協力させてもらうぞ」
「これ以上の封印はできぬ。無理をすればカカシの精神が崩壊する恐れがある……」
むう、と腕組みをするホムラを眺め、火影はきっぱりと言葉を放った。
「イルカは不測の事態に備えた補助だ。あくまでもわしが、この命が続く間にカカシを自由にしてやらねばならん」
「……そうだな」
「今、わしにできる償いはそれだけだ」
二人はかすかに輝く水晶を、まるでその中に全ての答えがあるかのように見つめ下ろした。煙管から漏れ出る白い煙を纏うように浴びる透明な球の中、銀の髪は夜と森の中に溶けるように小さくなり消えた。
木の葉の今年の春は遅かった。三の月の末までぐずぐずと雪が降り、桜は新入生の行進を彩ってくれなかった。本格的に暖かくなったのはここ数日、誰もが少しぼんやりした様子で陽気を楽しんでいる。
そんな春。
だからといってどこででも寝ていいもんじゃない。
夕闇の中、イルカが見つけた男は川べりで丸まっていた。
昨夜、抜け忍集団が火の国へ侵入し、戦闘があったことは噂で知っている。国境を守った血と泥に塗れたままの格好で膝を抱えるように体を丸め、男は土手の斜面で眠っていた。
イルカは足を止め、男の様子を窺った。本当に熟睡しているようで、時折ぴくぴくと指先が動いている。どうしてやろうかと思って腕を組み考えていると、いきなり男はがばっと起き上がった。そしてここがどこだかわからぬように左右を確認し、それからイルカを発見した。
「あ、イルカ先生だ……」
「そうですよ」
ただでさえ眠そうな目が、半分以上閉じている。苦笑で寄っていけば、伸びをするようにカカシは立ち上がった。
「お帰りなさい、カカシさん」
「はい、ただいま」
重装備のためか、彼はいつもより背が曲がっているように見える。その首筋に雫を見つけてイルカは手を伸ばした。
「随分、汗かいてますね」
するりと撫でると、カカシはぎゅっと目を閉じ首を竦めた。
「くすぐったい」
「弱いですねえ、首筋」
「……どっちが」
流れる雲に遮られる陽光のように、ほんのわずか、二人の間を夜が通りすぎた。ちらりと視線を交わし、喉の奥で笑い合う。
「あったかいですね、里は」
「急に暖かくなったんです。今日は子供達の居眠りが多くて困りましたけど、まさか上忍までその辺に転がってるとは思いませんでしたよ」
「うーん……。眠くてねえ」
「徹夜だったんですか?」
「まあねえ」
あくびをこらえ、カカシは猫のように片目を細めた。
「で、今日はどっちですか」
二人は同時にそう言った。帰るべき家の話だった。イルカが声を上げて笑い、カカシもまた頭を掻いた。
「俺の部屋、きっと埃まみれだな。最近帰ってないから」
「掃除はしませんよ!」
「……明日自分でします。だから今夜は泊めて?」
しかたないなあとわざとらしく口を尖らせてから、イルカは肩をすり寄せてくるカカシと視線を合わせた。
「……ここじゃ、だめです」
「往来でキスなんてしませんよ」
「手! 手を繋ぐのかと思ったんです!」
「大して変わらないでしょ……」
ふざけながらの家路は早い。橙から青へと変わっていく空の下、二人は同じ歩調で慣れた道を辿って一つのドアを開けた。ドアを閉めた途端に左手に絡んできた指を笑いながら握り返し、イルカはカカシを引っ張った。
「飯、まだですよね? 作っておきますから風呂入ってきて下さい」
「そう? 悪ーいね」
残念そうに手を離すカカシが、一緒に入ろうと言い出す前に、イルカは背を向けた。案の定、視線が背をくすぐったが、気づかぬふりで台所へと入る。諦めたように風呂場へと遠ざかっていく足音を聞きながらやれやれと肩を上げ、イルカは冷蔵庫を開けた。
「買っといてよかったな」
鮭の切り身を見つめ、イルカは呟いた。考えてみれば、この半年で冷蔵庫の中身は激変している。カカシと付き合っていなければ買わないだろうものばかりが詰め込まれた中身にうんうんと頷き、イルカは腕まくりをした。
「よし、ちゃっちゃとやるか!」
両腕に材料を抱え、イルカはコンロに向かった。
鮭を焼き、味噌汁とほうれん草のおひたしを作ったところで風呂から出てきたカカシにビールを渡す。イルカも缶を片手に配膳を終え、並んだ皿をつつき始めてすぐのことだった。
さっきまで魚をほぐしていたカカシが、箸を止めてぼんやりと自分の手を見つめている。
「カカシさん?」
見る間に箸が指の間から滑り落ちる。硬直した風にも見える肩を一度二度と揺すってもカカシは顔を上げず、カカシさん、と大きく声を出した。
「あれ?」
カカシは大げさなほど目を見開いた。眉をしかめ、イルカはその顔を覗き込む。
「どうしたんですか?」
「俺、今何してたっけ……」
「飯食ってんですよ、俺達は!」
ほら、と指差すイルカと並んだ皿を交互に見つめ、カカシはああそうだ、と手を打った。
「赤ん坊じゃないんだから、食いながら寝ない!」
「いやあ……」
参ったなあ、とあぐらの上に落ちている箸を拾いながら、カカシは声とは裏腹の真剣な顔をした。
「このところ、ぼうっとすることが多くてね。昨夜の任務中にも一度あったんです」
「……危ないですね。あなたの任務状況じゃあ、疲れが溜まっても仕方ないですけど」
うーん、と思案顔でカカシは首を捻る。
「居眠りを頻発するほど疲れているような感じはしないんだけどねえ」
「汗がひどい……」
言いながらイルカはカカシの湿った背を撫でた。暖かくなったとはいえ、服を濡らすほどの汗をかくほどではない。
――意識が薄れ、理由無く汗をかくのは封印崩壊が進んでいる証だ。見逃すな、イルカよ。
昼間、三代目の居室に呼び出され念を押されたばかりの兆候に、イルカは瞬きほどの間息を止めた。それを敏感に察知し、カカシがかくりと頭を下げる。
「すみません、心配させました」
唇を噛みたい気分を振り捨て、いいえ、とイルカは無理やり笑った。
「明日は休めるんですよね。とにかく今夜、しっかり食って寝て下さい」
そうだね、と鮭に箸を入れ、カカシはちらりと上目でイルカを見つめた。
「イルカ先生もしっかり食っといて下さいよ」
「……食われる前に、ですか」
「はい正解!」
すました顔で味噌汁をすする男を一睨みしたものの、イルカは自分の耳が赤くなっていることを知っている。きっとそれもばれているんだろうなと思いながらイルカも味噌汁の椀を手に取った。
食後、後片付けは俺がやりますと、カカシは新聞を置いて立ち上がった。水音が聞こえ始めた辺りでイルカは居間に鎮座する仕事机の引き出しを開け、小さな箱を取り出した。蓋を開けると十字の形をした紙が束になって入っている。その一枚を取り、チャクラをこめた指先で何度か撫でると、紙はくるりとねじれてから一羽の鳥に変わった。
「意識の喪失、発汗を確認。慎重に観察を続けます」
そう鳥に話しかけ、イルカは窓を開けた。ぬるくもあり冷たくもある春風がするりと部屋を回り、鳥はそれに乗って夜の空へと羽ばたいた。白く小さなその姿は一呼吸の間に闇に溶け、イルカは鳥が去った方向を見つめて胸に手を当てた。
「とうとう、か……」
初めてこの式を飛ばした時、罪悪感にひどく心が痛んだ。その痛みは何度繰り返しても薄まることは無い。これほどに痛むからこそ決断したあの、半年前の火影の言葉を思い出してイルカは目を閉じた。
「はたけカカシを知っているな?」
そう切り出されたのは、アカデミーで保管している古文書を届けて欲しいと言われ、訪れた火影の居室でのことだった。
「はたけカカシ?」
広い部屋に置かれた机の前、イルカは頼まれたものを差し出しながら、おっとりと言葉を返した。
「ああ、七班の上忍師の方ですね」
「おまえの家に頻繁に通っておるようだな」
「……全てお調べ済みという訳ですか」
「そう怖い顔をするでない」
煙を細く吐き、火影はにやりと笑った。その顔を一睨みし、イルカは溜息を吐く。
「何か問題でも?」
「深い付き合いと思って良いな?」
「わかっているんでしょう、三代目」
肩を竦めるイルカを見上げ、火影は思案する様子で椅子から立ち上がった。
「いつからじゃ」
「長くはありません。ナルトを通じてですから」
簡潔に答えるイルカに近寄り、火影は煙管を口に運んだ。
「おまえに頼みがあるのだが」
けぶる火影を見下ろし、イルカは澄まし顔を作った。
「いやです。別れませんからね」
「まだ何も言っとりゃせん。なぜそう思う」
「はたけの血を残さなきゃならないんでしょう」
付き合いだしてすぐ、いつか女をあてがわれるかもしれないとカカシから聞いていた。父親もそうだったと痛みをこらえる顔で言う男を見つめたイルカはその時、わかりましたとだけ言った。
「カカシさんから聞いています。子供が作りたきゃ適当にやってもらって結構です。でも俺は別れません。それだけです」
では、とイルカは背を向けようとしたが、ベストをぐいっと引っ張られて仰け反った。
「……なんですか、三代目」
「落ち着いて聞け、イルカ」
「はいはい、どうぞ」
「頼みがあるのだ。おまえにしか出来ないことを頼みたい」
声色が変わったことを知り、イルカは眉を寄せてもう一度火影に向き直った。
「お聞きしましょう」
「あれの父親のことは、少しは知っているようだな」
「ええまあ……。カカシさんからというよりも、有名な方ですから噂は色々と」
「自害したことは?」
「……そうであった、ということくらいは知っています」
そうかと火影は煙管を吸い、イルカは言葉を待った。
「サクモは死の間際、カカシに呪をかけた」
「……は?」
「聞いてくれ、わしの愚かしい話を」
三代目の話は長かった。彼の悔恨と懺悔のようにも聞こえるそれを全て聞き終えたイルカは、凍ったようにその場に立ち竦むしかなかった。
「四代目の真実を話すのは、おまえが初めてじゃ。ご意見番の二人でさえ、術の詳細は知らぬ。今よりも状況が変われば話さざるを得ないがな……」
背中を向けた火影は小さく見えた。秘密を共有できる相手をやっと見つけて安堵したようにも感じられ、イルカは静かに言葉を紡いだ。
「……なぜ、俺にその話を」
「おまえが、カカシにとって新しい縁であるからだ。あれが、ようやく見つけた縁であるからだ」
火影は煙管を灰皿にことりと置いた。
「カカシの封印は長い。時間の経過と共に緩まっている。だが、これ以上カカシを強く封じることはあれの精神を破壊するやもしれぬ。今後はわしが出来る限りカカシを監視する。しかし、それだけでは足りぬと感じるのじゃよ。それ故、おぬしに封印となってもらいたいのだ。側でカカシに共鳴しその暴走を止めるため、それもカカシには何も知らせずに、だ」
「封印……何も知らせずに……」
「カカシには術をかけられた記憶そのものが無い。心に深く食い込んだ出来事を封じるためには、記憶ごと奪うしかなかったのだ。思い出させることで封印が緩むことは避けねばならん」
「彼を騙すことになりますね」
「そうだ」
きっぱりと言い切る火影を見てイルカの胸に鋭く痛みが走った。カカシの過去を無断で覗いた上、知らぬふりで監視することになる。恋にただ純粋な人に、していいことじゃない。しかし、これが出来るのはイルカだけだと火影は言う。
「俺は……」
「これは、任務ではない」
その時、老いてもなお鋭い眼光が、春の日差しのように和らいでいた。そしてひどく優しい顔で、火影はイルカの腕を触った。
「この無力な老人の願いじゃ。どうか頼む、カカシを守ってやってくれ」
全ての感情を越えて微笑む里長に、イルカはいつしか頷いていた。
「イルカ先生」
暖かい体がぺたりと背後から被さり、イルカはぴくりと顔を上げた。
「ぼーっとしてましたね」
頬に唇が触れ、イルカは目を閉じたまま口角を上げた。
「思い出していたんですよ」
「何を?」
「あなたと初めて会った時のこと」
「へえ。聞かせて? 俺はイイ男だった?」
するりと腰周りに腕が絡み、それに手を添えてイルカはカカシの顔を振り返った。
「いい人でしたよ。七班の初任務が終わって四人で受付所に来て。あなたは俺に跳び付こうとするナルトを片手で抱きとめてました。あの頃はナルトに触ろうなんて人、俺と三代目くらいなものだったんですよ……。そうやってあなたは報告書を俺に差し出したんですけど、こう、右目が笑っててね、いい人だなあって思いました」
「……それ、初めてじゃないでしょ」
「はあ?」
「もっと前から会ってるでしょ!」
「?」
「だから! 受付所で、俺の個人任務で何度もやり取りしてたでしょ!」
「ああ……。でも、その頃は、うちはじゃないのに写輪眼の人ってくらいしか、俺、知らなくて」
「!」
「高ランクばっかりで大変だなあって」
あああ、と絶望的な声を出し、カカシはしゃがみ込んだ。
「ど、どうしたんですか!」
慌てて隣にしゃがみ、イルカはカカシの顔を覗き込む。
「お、俺は二年も前からイルカ先生のこと、いいなって思ってたのに!」
「は!」
「おかえりなさいって言うの、イルカ先生だけだって自覚あります? イルカ先生だけなの、お疲れ様です、おかえりなさいって言ってくれるの! 里が待っててくれてたみたいで、すごく俺、イヤサレてたの!」
「そ、そうでしたか、気づきませんでした……」
「もう! おかえりなさいは禁止です!」
「いやあ、なんか癖になっちゃって」
「ダメです!」
ぬっと両手を出し、カカシはイルカの肩を掴んだ。
「俺だけにして。おかえりって言うのは」
真剣な顔を作っているらしいが、どこか間の抜けた表情に笑いをこらえながら、イルカはカカシの頭を撫でた。
「わかりました、気をつけます」
「ダメダメ、他の人には絶対ダメ!」
「はいはい、カカシさんだけ、ね」
途端にどしっと体当たりされ、二人して畳に転がった。首筋に冷たい鼻先を押し付けられ、ぞくりとイルカは身を強張らせる。
「わかってないよ、イルカ先生は……」
シャツの下に入ってくる手も冷え始めている。
「ん……。わかってますよ」
「わかってない。あなたが想像する三倍は、俺は独占欲が強いんです」
「そりゃ大変……、あ」
そっと潜り込む指先が足の間をまさぐっていく。カカシの指には毒か術かが染みこんでいるかのようだ。いつも翻弄されるだけされて気づけば陥落している。でも今は快感よりもその冷たさが気になって、イルカはその手を押さえた。
「待って、カカシさん」
「ダメ。今する」
「湯冷めしますから、あ、窓、閉め……」
「わーかりました」
かばっと抱き上げられ、イルカはわあと声を出した。
「このままイルカ先生、閉めて」
抱き上げられたまま、腕だけを伸ばして窓をスライドさせる。これで問題ないですね、と笑う男を見上げてイルカは腕の中で肩を竦めた。
「……ないですよ」
「よし、ベッド直行!」
イルカを腕に、しゅっぱーつと楽しげにカカシは宣言する。
「子供じゃないんだから!」
「そうでーすよ。だからベッドなんじゃない」
鼻歌でも歌いそうな顔を見上げ、イルカは白旗を揚げるように口元を緩めた。
「仕方のない人だなあ……」
「なんとでも!」
遠く、鳥が消えた方角を視線の端に映し、イルカは強い腕に連れ去られて行った。
抱き合って眠った深夜、イルカは突然目を覚ました。
何かが聞こえる。
イルカは身悶えし、体を縮めた。
「つ、う……」
ああ、と呻いて目を開ける。聞こえていたのは自分の声だった。どこかが痛い。
「痛……」
意識が鮮明になるにつれ、痛みの発生源もくっきりと現れた。右肩だ。
「く…う、」
痛み以上に熱で焼かれる感触が強い。封印術の刺青を施された右肩を押さえながら、イルカはベッドを抜け出ようとして気がついた。カカシもまた、軽い震えを見せて体を丸めている。
「まさか……」
痛みを堪えて汗に濡れた背を揺する。しかし、深く眠っているカカシは反応を見せなかった。
イルカは動きたくないと縮まる己を叱咤し、力ずくで起き上がった。寝室の窓辺に寄り、カーテンから漏れる細い月明かりに肩を晒す。そこには、カカシに染み付いたものと同じ形の印が、色だけを違えて赤く浮き上がっていた。
こんなことは初めてだった。三代目に印を打たれた時以来の緩やかな曲線を描く紅い刺青を見つめてから、イルカはカカシを凝視した。
「カカシさん……堪えて……」
ぐったりとベッドに沈んだ体はわずかに震え、唇が何かを形作っている。はい、父さん、そう読めた次の瞬間、カカシはびくりと体を揺らした。
「ああっ!」
同時に突き刺さるような激痛が肩に走ってイルカは背を反らした。だが、そこまでだった。それを最後に痛みは治まり、波が引くように消えていく。ふらつく足を踏みしめ直して窓枠に掴まり振り返ると、カカシ自身もゆるやかな呼吸を取り戻していた。
「よかった……」
ほっとした途端に足から力が抜け、イルカはずるずると窓の下に座り込んだ。どっと汗がうなじを伝うのを感じながら、イルカは言葉とは裏腹にきつく肩の印を睨んだ。指の下で、赤く浮かび上がる刺青は溶けるように元の肌の色へと戻っていく。
「俺が、守る……」
ぎり、と腕に爪を立て、イルカは立ち上がった。
「必ず」
イルカはマットに座ると灰色に沈む髪に指を這わせ、汗を感じさせる髪を何度も梳いた。
遠い空で明けの烏が鳴き、イルカはカカシを起こさぬようにそっとベッドに潜り込んだ。そして白い体に腕を回すと、きつく目を閉じた。
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