紅の陰影 10

 怪我を負って戻った父親を、カカシはひどく心配した。これくらい見慣れているだろうと言えばもっとうろたえる。手当てもしないまま自室に戻ろうとする袖をぎゅっと握って離さないカカシを見つめ、聡い子だとサクモは心中で呟いた。
 ――忍になど、ならせなければよかった。
「カカシ」
 掴まれた袖を与えるように腕を伸ばし、サクモは子供を見下ろした。泣くのをこらえるように唇を曲げ眉を寄せている顔を引き寄せる。
「父さん……」
「いい子だな、おまえは」
 カカシの頬に付いた己の血を拭い、サクモは微笑んだ。目を丸く見開いて見上げる子の体温は、いつまでも抱いていたいほど暖かかった。目を閉じ、サクモは小さな背を撫でた。
「まだやることが残っている。離してくれるな?」
 何度も背を撫でていると、カカシはぎこちなく頷き、それに頷き返してサクモは手を広げた。
「行きなさい」
 握った袖から手を引いて、カカシはじりじりと後退りをした。そして一旦背を見せたが廊下の端で立ち止まった。
「お父さん」
 カカシは黒い目をひたむきにサクモに向けていた。
「なんだ」
「傷の手当て、してね」
「……ああ」
 きっとだよと念を押し、カカシは軽い音を立てて走って行った。その軌跡を追ってサクモは目を細め、しかし思い切るように顎を引いて背筋を伸ばすと自室に爪先を向けた。


 静まった深夜の廊下は重く冷たい冬の空気が充満し、水の中を歩くようだった。一足ごとに息を失うようであり、逆に意識は鮮明になるようでもあり、サクモは殊更に緩慢な速度で歩き続けた。
 友人を何度か泊めたことのある部屋を過ぎ、明かりの点いていないカカシの部屋を横目にして、ふと気になった。あの子は食事をしただろうか。居間の方へと駆けていったが、ちゃんと食べただろうか。
 今更だと苦笑を一つ、角を曲がって自室の前に立った。部屋の襖は閉まりきらずにわずかに開き、そこから光が漏れている。その細い刃のような筋をしばし見つめてからサクモは襖を開けた。
 部屋は、月光に満ちて明るかった。きしりきしりと小さく畳を鳴らして部屋を斜めに渡り、縁側とを仕切る障子に手を掛けた。が、開けることはしなかった。明るすぎるのは良くないだろう。細く縦横に影がよぎるくらいが丁度いい。
 サクモは文机の前に座ると、側に置いてあるポーチを脇に寄せてベストを持ち上げ、胸ポケットを探って一本の巻物を取り出した。そして右手の血を指先に付けると印を切った。ぼん、と白い煙が立ち、現れた小型の犬を見下ろす。
「パックン。これを、頼む」
「なんだ?」
 首をかしげ、差し出された巻物を見て犬は刻まれた眉間の皺を深くした。
「八忍犬との口寄せ契約の巻物ではないか」
「カカシとの契約を」
 突き出される巻物から体を避け、パックンは低く唸った。
「わしとの契約はもう済ませておるだろう」
「他の犬とはまだだ。それをおまえに任せたい。カカシにこの巻物を渡して俺がそう言っていたと伝えてくれないか。そして契約に立会い、正しくことが運ぶようにカカシを助けてやって欲しい」
「……使役する犬にそんなことを任せるなど、聞いたこともないな」
「頼む」
 もう一度唸ってパックンはサクモを見上げた。
「自分でやれ。カカシはすぐそこにおろうが」
「俺には、もう無理だ。できないんだ」
「サクモ?」
「頼まれてくれ、おまえしかいないんだ」
「……何を考えておる」
 頼む、そう呟きサクモは巻物をパックンの目の前に置いた。そして膝に手を置き、深く頭を下げた。それを見上げ、犬は密やかに溜息を吐いた。
「わかった。引き受けよう」
「すまない」
 巻物を咥え、犬は何か言いたげにサクモを見上げた。しかし、静かに身を溶かすと畳の中に消えた。波打つ畳が静まるのを見届け、サクモは正座を整え背筋を伸ばした。
「俺には、できない……」
 明るい太陽の色、しかし深い狂気の色が脳裏に瞬く。どんな獲物を持っていたとしても、自分はあの青年を殺すことはできなかっただろう。
 自分は、忍としてはもう、死んだ。
 波風ミナトのしたことをあの聴聞会で言わなかった時に、はたけサクモは忍としては死んだのだ。あの任務の失敗の、どれだけが彼の責任であるのかを上層部に追求させなかった時点で。
 巷の噂の通りになった。色狂いで招いた失態の始末すらつけられない、それがここにいるはたけサクモなのだ。
 そして、そのつけをこんな形で置いていくしかない、無力な者なのだ。

 文机の引き出しから古い一本の巻物を取り出して広げる。そこに緻密に書かれた図形のような印を丁寧に目に映しながらサクモは左腕で机の脇を探った。固い感触を指に探り当て、その冷たさを愛でるように撫でる。
「忍の心得 第六十三項」
 握ったチャクラ刀を目の高さまで上げる。丸い鞘から引き出す刀身は、即座にサクモのチャクラに反応して青白く発光し、柄が手のひらに吸い付くように馴染む。
「私闘を禁ず。忍に私は無く、その身は里、引いては国のものと心得よ」
 こつり、と硬い音で鞘を机に置く。刃先から冷気のように伝わる己のチャクラを頬の近くに置き、小さな炎を作ると広げた巻物に移した。
「忍の心得 第六十四項」
 家のどこかでカカシが感情を乱したのがわかった。
「私闘により里を同じくする忍を害してはならない。それは火影に刃を向けることと同意である」
 遠く、足音が近付いてくる。サクモはいざって座布団を外し畳に座った。
「忍の心得 第七項。『火影』に害なす者は死をもってその罪を償うべし」
 目の前の炎を映す輝きを見つめる。

 それから数秒、襖が開いた。




「父さん」
 カカシはぼんやりしているように見えた。開いた襖の前で両手を宙に浮かせた姿は、叱られることがわかっていない小さな子供のようだった。
「もう、少し、そこにいろ……」
 荒い呼吸に紛れたそれは、音になったかどうかサクモにはわからない。しかしカカシはこくりと頷いた。それを認めて数秒、左脇腹を深く抉ったチャクラ刀をサクモはぐっと上に引き上げた。己の血の臭いを溺れるように肺一杯に吸い込み、遠くびちゃびちゃと畳を叩く飛沫の音を聞く。
「おとうさん」
 まだ、カカシは遠い景色を見る目をしている。
「いい、ぞ、来い」
「やだ」
 いつか、どこかで聞いた、幼い声だった。
「ならば、そこで、いい」
 脳髄の底から地響きが沸いてくるのを感じながらサクモは笑った。音に色があることを始めて知った。それは、サクモの精神を緩く高ぶらせるあの、闇の黒だった。
「カカ、シ」
 黒は侵食する。全てを穏やかに、激しく。
「はい」
 仕方のない子だ、と思う。どうしてこの子は己のような者を妙なる調べを聞くように見るのだろう。
「カカシ、覚えて、おくんだ……」
 もう視界は狭い。それがどういう意味かはよく知っている、よく知っているから、急いでこの刀から指を離さなければ。
「忘れるな、カカシ……」
 強張る指を伸ばす、縮める、組む。
「俺の言葉を決して忘れてはならない」
「はい、父さん」
 低くなった目線の先、カカシの足は逃げようとし、同時に前に進もうとしていた。その狭間で、子供にしかできない緩やかな曲線を描いている。
「見逃すな、誤るな、あれは、危険だ」
「何」
「見なさい、カカシ」
 最後の印を組む。血で滑る、爪を立てる組む伸ばす縮める印を印を印を印を、組むのだ。
「必ず果たすのだ、俺の言葉の通りに」
 間に合わない、間に合わせる、間に合わなければいい、どうしてこんなことになった、俺は、俺の、ただ一つの安らぎにどうしてこんな印を。
「波、風ミナト、を、火影に、し、てはなら、ない」
 組んだ、ああ組めた、印を、組んで、しまった。
「あれは、危険……、するな、火影に」
「おとうさん」
「なっては、ならない、者……もし、そう、なる日、がきたならば」
 遠くはない未来。その日のため俺は、この命を置いていく。
「おまえ、が、ころ、せ」

 言えたか。おまえは聞いたか。

「はい、父さん」
 サクモが最後に聞いたのは、呪を締めくくる泣き声と同時に自分が血溜まりに突っ伏す湿った音だった。







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