火影は言葉を失ったように沈黙している。
 イルカもまた、何も言わない。
 つぷり、と最後の針がイルカの肌から抜けた。氷室のように冷えた地下室の中、長老は油皿を持ち上げ針の描いた文様を慎重に確認する。炎を先端に置いた太い糸が、じじ、と虫が鳴くように震えた。
「すまぬ」
 低く反響する声に、イルカは微笑むことで応えた。
 火影の手がイルカの腕、右肩より手のひら一つ分下がった場所を撫でる。皺の目立つ手の下で、真っ赤な文様がちいっと煙を立てて色を失った。
「痛むか」
「いいえ」
 灯りを掲げる三代目に背を向けたまま衣服を整え、イルカは立ち上がった。
「では」
 目を閉じ軽く頭を下げ、イルカはするりと闇に紛れるように消えた。紺色の寒気の中、絶望とも安堵ともつかない老人の溜息が霧のように流れた。

紅の陰影 1

 夕闇が迫る時刻、イルカは大小の影を見つけて目を細めた。背の高い痩せた男がイルカに気付いて片手を上げる。その周りで跳ねるように落ち着き無く動く小さな影がぴたっと動きを止めた。
「イルカ先生!」
 駆けて来る子供の足取りは軽い。呆れたように腰に手を当てるサクラと、関心なさげにそっぽを向いたサスケが黄色い髪に隠れて次の瞬間、イルカは両腕でナルトを受け止めた。
「おっと……」
 重くなった体にイルカは半歩よろめき、下げた左足にぐっと力を入れた。
「久しぶりだってばよ!」
 イルカの上半身に齧り付くように抱きついたナルトは弾む声で言った。
「小さい子みたいだぞ、ナルト。おまえ、もう下忍になったんだろ?」
「いいじゃん、すっげー久しぶりなんだから!」
 ぎゅっと背中に回る手を感じながらナルトの尻の下に腕を回す。
「ったく……」
「こんばんは」
 近付いて来たカカシが苦笑の顔を傾けて言った。
「そのまま持ってっていいですよ。今日は鍛錬だけで報告はありませんから」
「いやあ……。すみません」
 ナルトの髪がイルカの視界の端で濃いオレンジ色に染まっている。揺すり上げるように抱き直し、イルカはカカシと並んだ。
「元気か、サクラ、サスケ」
 はあい、とサクラが首を反らしてイルカに笑った。サスケは無言だったが小さく頷いた。
「お疲れ様でした、カカシさん」
「イエイエ」
「俺にも俺にも!」
 イルカの肩に手を突っ張りナルトが強請る。
「……こっから降りて、忍らしくしたらな」
 むう、とナルトは難しい顔をして少し考えてから、手ぇ離してイルカ先生、と言った。言う通りにしてやるとぽんと地面に降りて両腕を組んで仁王立ちになった。
「帰って来たってばよ!」
「……」
「バカね……」
 子供達の冷たい視線をものともせずに受け止め、ナルトは大いばりでイルカを見上げる。カカシを窺えば、どうぞと肩を上げている。若干目を据わらせて見下ろしたイルカは、一つ溜息を吐いて右手を伸ばした。
「お疲れ様、ナルト」
 頭の天辺を混ぜるように撫でてやる。
「ぜんっぜん、へっちゃらだってばよ!」
 へへっと笑うナルトにつられてイルカも微笑んだ。


 何か悪巧みがあるらしく、キバ達と待ち合わせがあるのだとナルトはつむじ風のように消え、サスケの背を追うサクラを見送ったイルカは自宅へと帰って来た。
「いつまでたってもアレじゃあなあ……」
 鍵を開けてそう零すと、そっと背後から手が伸びてきた。
「全くです」
 ひっそりと後に付いていたカカシがイルカの腹辺りに腕を絡めて笑う。背中にぴたりと合わさった胸の体温を感じながら振り返ると、素顔を曝したカカシが目を細めていた。
「ですよね。そろそろ俺からも卒業させないと」
「ぜひそうして下さい」
 首筋を柔い髪が撫で、ぞくりと肩を竦める。温い唇が耳の下に押し当てられた。
「でないと俺が、妬け死ぬ」
 ぱたりとドアが閉まる。鍵の回る乾いた音を聞きながら、イルカは背後の体に軽くもたれた。
「子供相手に何を」
「本当に?」
「子供ですよ」
 玄関床の狭い四角の中のもっと狭い腕の中、イルカはそっともがいてカカシを見上げた。不満そうな困っているような、少し下がった口角が近付いてきてイルカの唇の上に落ちた。つるりと潜り込んでくる舌先が歯の裏から上顎へと滑ってイルカを誘う。そうしておいて外まで逃げてしまった熱い肉を追い、イルカは黒と赤二つの光を見つめながら舌を突き出した。他のどんな場面でも見せない優しい顔をした男が、待つように同じ仕草をしている。誘われるまま交わした舌先だけのキスは痺れるような痒みを与え、二人はかすかに震えた。
「飯、食いたいですか?」
 ぺろっと頬を舐められ、イルカも目の前の耳たぶに舌を這わせて囁いた。
「食いたいですよ」
 横目で盗み見たカカシの横顔はむくれたようにわずかに唇が尖っている。イルカはその、子供っぽい顔がとても好きだと思う。
「後で、ね」
 体重を掛けて抱きつくと、やった、と小声が聞こえた。途端に背中の手が、腰から裾を引っ張り出し背中に悪戯をしかける。早く早くと急かす男に笑いながらベッドに移動し、互いに服を脱がし合った。
 見下ろす男の白い頬を両手で包み、キスをしようとしたイルカは不意に動きを止めた。
「なに、イルカ先生」
 肩透かしを食ったカカシがまた唇を尖らせる。
「これ……」
 イルカは首筋から肩へと指を滑らせ、左腕の刺青を触った。
「消さないんですか?」
「目障り?」
「そうじゃなくて……。もう暗部じゃないでしょう。消せって言われません?」
「んー、辞めた時に消すかって聞かれましたけど、せっかくなのでそのままにしてます」
「せっかく?」
「記念です」
「記念、ねえ……」
 この男の感覚は時にイルカには理解できない。たまにぽつりと漏らす言葉から、カカシにとって暗部時代はあまり良い思い出ではないとイルカは知っている。自分なら、嫌な思い出に繋がるものは消せるところまで全部消してしまいたい。だから聞いたのだが、どうしてそんなことを聞くの、と言いたげな目で見下ろされれば、なんでもないですと首を傾げるしかない。
「イルカ先生は、あんまり傷が無いね」
「そうですか?」
「背中のは大きいけど、他はキレイ」
 そうかなあと腕を持ち上げる。細いみみず腫れのような傷跡が幾つか走っている。これがキレイなのだろうかと思っているとぐいっと足を開かれ無意識に眉を顰めた。カカシとのセックスで唯一嫌な瞬間だった。行為が進めばなんともなくなるが、足を開かれることにいつまでも慣れない自分は、間違いなく男なのだ。
「足も、キレイ」
 太腿の内側から付け根へと、ねっとりと舐め上げながらカカシは嬉しそうに言っている。手を伸ばして髪を触ると、笑った目がイルカを見上げた。
「大好き」
 どきりと、イルカの心臓が跳ねた。真正面の言葉はむしろ不意打ちだ。
「またそういうことを恥ずかしげもなく……」
 無邪気なまでに恋を隠さない男。その内、ナルトを押しのけて跳び付いてくるんじゃないだろうか。
「だって、大好きなんです」
 性器の根元に息が吹きかかる。
「あなたは俺の、大事な人」
 ちゅっと小さな音で敏感な場所にキスをされ、イルカは苦笑になった。いつも、負ける。この男に勝てる日は決してこないのだろう。ただ一つの例外を除いて。
「大好き、イルカ先生」
 濡れた指が体の中へと入ってくる感触がいつもより生々しく脳を叩く。意地を張っていられる時間は終わりだ。カカシの肌を捜してさ迷う指を、少し冷えた指先が宥めるように握った。
「カカシさん……」
 慎重に、しかし大胆に指は襞を辿り、反応する場所をそろそろと煽る。汗ばむ体を曝し、イルカは与えられる内部の快感に溺れていく。
「あ!」
 ぐっと一点を突かれて顎を上げ、イルカは握った片手に力を入れた。ぬるりと指が抜かれ、もうだめとカカシの熱い息が耳元にかかった。
「イルカ、俺の、大事な……」
 言葉を途切らせるカカシが、ぐっと体重を乗せてくる。ああ、とどちらともなく溜息を漏らした。むしゃぶりつく唇に食われるように喉を反らし、イルカは目の前の体にしがみ付いた。
「俺も、あなたが」
 朦朧と見つめる顔がくしゃりと笑う。
「好き、ですから」
 好きだから。
 好きだから、許して下さい。
 胸の中で付け足す言葉にイルカの胸がじくりと痛み、その痛みは耐え切れない深さで愛しさに変わっていく。まるで痛みそのものを欲するように、イルカは何度も心の中で呟く。

 許して下さい。
命をかけてあなたを守るから、どうか……。

   目の端で、揺れる刺青の色は群青。役目を終えたが故の鮮やかさでイルカの心に染み付く。
 同じ形の見えない赤を刻まれたイルカの肩を、カカシが強く握った。彼を縛るための刻印を埋め込んだ肌を。その皮肉に歪んだ笑みを浮かべてイルカの背が反った。

 あとはただ、熱を取り込み吐き散らす呼吸だけが、部屋を満たした。






 ――カカシ。

 深く、どこかとてつもなく遠い底から響く声がこだまする。耳の中に粘着質な液体を注がれているような、不快を通り越した恐怖が脳を浸す。

 ――忘れるな、カカシ。私の言葉を決して忘れてはならない。

 誰も整える者がいないまま、長くなった前髪がふわりふわりと揺れる。ただ頷くだけの少年の視界に映るのは、白く梳ける己の髪と形にならない黒い影だった。

 ――見逃すな、誤るな、そして必ず果たすのだ、私の言葉の通りに。

 はい、と掠れる音はまるで知らない人間のもののようだった。はい忘れません、そう繰り返して少年は頷き続ける。目の前の、空間にぽかりと開いた穴のような影に向かって。

 ――……は……になってはならない者だ。もしそうなる日がきたならば。
 全身に鳥肌を立て、少年は震えながら言葉を繰り返す。そうなる日がきたならば、必ず。



「必ず……」
 自分の声が聞こえたのと同時に意識が浮上した。は、と息を止めてカカシは辺りを見回す。他の気配は感じない。たるんでいるな、と額を押さえればひどく汗をかいていた。

 国境沿いの警備の最中だった。情報はまだないが、敵が攻め入ってくるのはそれほど先のことではないと三代目の水晶が告げたため、上忍を中心としたチームが交代で詰めている場所だ。
 頭上に皓皓と照る月を見上げ、カカシは両手で頬を叩いた。ぴたりと小さい音が立ち、そこが濡れていることを知らせる。詰まった息を吐くために汗で湿った面布を下げ、ほっと溜息を流して胸ポケットを探る。眠気覚ましの丸薬を奥歯に挟んでぎゅっと噛み締め、痺れるほどの苦さに眉を寄せながら背中の大木に体重をかけた。
「また、か」
 随分と長い年月、同じ夢にカカシはつきまとわれていた。熟睡している時には現れず隙間のような眠りに限ってやってくるそれは、起きてしまえばほとんど形として残らず、不快な汗だけを置いて去っていく。しかし、今夜はどこかいつもと違っていたように感じる。カカシは苦い丸薬をきつく噛み、自分が呟いた言葉を反芻した。
「必ず……なんなんだ? 何を必ずするって?」
 思い出そうとしても、灰色に紅が混じったぼんやりとした風景しか出てこない。だが、それよりも今は、こんな仕事の真っ最中にうたた寝をしたことに憤るべきだろう。苦い唾液を飲み込んでカカシは短くつんだ爪を睨んだ。
 それほど自分は怠慢に慣れてしまったのだろうか。上忍師を引き受け里に居ついて数年、自分の性格上避けられないと思っていた通りに心を与える相手を作ってしまった。空いた時間の全てを彼に捧げ、浴びるほどに安寧を得て、何もかもが鈍ってしまったのかもしれない。
 細く息を吐き出して、カカシは面布を上げる。
 手離せないものを作るなど、少し前ならば望んでも有り得なかった。しかし、カカシは手にしてしまった。照る月の眩しさに目を細めながら、愛しい黒髪を思う。その色は、月の背後に広がる雲の無い暗い空に似ていた。昨夜も口付けたその色に思わず手を伸ばしかけ、苦笑する。
 ――誰に対しても恥じるもののない忍であらねば。
 里の未来そのものである子供達を守りながら自分を待つ人を胸の奥に抱いて、カカシは表情を引き締め見るべき国境線へと視線をやった。



「緩んでおるな……」
 身を縮めて大木へと跳び上がり、地平を眺めるカカシを覗き下ろしながら低く声が落ちる。痩せた腕が水晶に翳されると、銀の光を引く姿は小さく歪んで消えた。
「例の国境か。指揮系に問題が?」
 背後からの馴染みの声に長老は重そうに頭を上げた。
「そうではないよ」
 皺の目立った頬を緊張させる里長の隣に立ち、ホムラは眼鏡をずり上げる。
「どうも、封印が綻んでおるようだ。やっかいだの……」
「崩壊は早いか」
「わからぬが、遠いとは言えんな。先ほどは意識を奪われておった。こんなことは初めてじゃ」
「……なぜ、イルカに任せた? おまえの水晶ならば、継続して見張ることもできるだろうに」
「四六時中監視する訳にもいかん。イルカはカカシにとって深い縁がある者だからの。わしにできんことをやってくれるやもしれん」
「そんな見込み判断で済むようなものではないだろうが」
「そんなあやふやなものにしか縋ることしかできないとも言えまいか?」
「……そうかもしれんが」
 眉間を指で揉みながら、ホムラは窓辺に寄った。里をぼんやりと浮かび上がらせる白い月の光を見上げ、彼は枯れた溜息を吐いた。
「猿飛よ」
 こつりと踵を鳴らし、ホムラは戦友に向き直った。
「『あれ』の恨みが晴れる日はくるか。おまえは、そんな日がくると思っているか」
 ゆるゆると頭を振り、里長は机上の水晶を撫でた。
「我らには、それを望むことすら許されてはいまい」
 深海から回りながら昇ってくる水母のように、里を治める男の強い記憶が水晶の中に揺らめいた。白く荒れた画面の中央、紅に染った畳を手拭いで擦り続ける子供の姿が滲む。
「わしに永遠の命があればの……。いずれ訪れる死の間際、わしが悔いるのは若い者にこれを残していくことだけじゃろう」 「それは俺とて同じだ……」
 里を長く見つめてきた二人の男はふと、互いの姿を目にして同じことを考えた。成し遂げたあらゆることどもは、里を安寧にと思えばこそ。己を捨てて生きた人生が今になってこれほど色褪せて思えるのは、老いたからなのだろうかと。目の前の友の、忍としての盛りをとうに過ぎた姿に強く心が締め付けられる。
「まだできることはある、猿飛。俺達にできることはまだあるはずだ」
 水晶の中で回る紅い記憶を瞬きもせずに見つめながら、ホムラはいつものように眼鏡を鼻頭に押し上げる。
「……そうだの。諦めて大人しく死ねるほど、わしらは賢くない」
 頷くホムラの肩に骨ばった手を乗せ、長老は何かを堪えるように目を閉じた。二十年以上も時を経て今だ生々しい金と銀の幻影が、その脳裏に鮮やかに瞬いた。

 彼の記憶と共に、時は二十五年を遡る。






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