蔦、絡まる

 父に呼びつけられたゼルテニア城で見たディリータは最悪に機嫌が悪かった。
 意味もなくデルタを怒鳴ったり小突いたり、子供の癇癪を見ているようだ。デルタを側に呼んでどうしたんだと聞いても歯切れが悪い。少なくとも彼の責任ではないようだが、何らかの納得をしてディリータの八つ当たりを受けているという風情だった。
 大して長い期間ではない、ほんの数週間姿を見なかっただけだが、ディリータは奇妙な具合にやつれたようだ。父から任された異端者の粛清や、オヴェリア姫に関する雑事で多忙だったからだろうか。これだけは変わらない、何もかもに辟易しているような態度で俺を見て、ふん、と小馬鹿にしてどこかに行ってしまった。
 周囲の者がぴりぴり反応している。俺は、といえば、父の態度もこういう感じで日々変わるので大して気にはしていないからのんきなものだ。まだ誰にでも分かるような呆れた態度であるだけ、マシかもしれないとすら思う。
 俺はさっさと父のところに向かう。気は進まないが後になればなる程足が動かなくなる。ともかく行ってみる。父の居る執務室はオヴェリア姫の居室に程近い場所で、城の構造から言えば良い場所にある部屋だった。静まった部屋をノックし、返事を聞いて入る。
「早かったな」
 遅くなるよりいい。
「急ぎの仕事がありませんでしたので」
「そうか」
 手招きに従う。大きくて繊細で強靭でとても嫌な手だと思う。俺を滅茶苦茶にする手。
「イズルード」
 ほんの一月なのに、どうしてそんな万感せまる声を出すんだろう。
「……父上」
 抱き寄せる手を抑制しようと試みる。いつも通りに失敗する。
「イズルード」
 こんな昼日中から。
 上着を脱がされシャツの前を開けられて俺は諦める。犯されるしかないのだ。他の誰にも分かりはしないが父は激怒している。理由など知りたくも無いし教えてくれるとも思わないがともかくも、激怒しているから俺が宥めるしかないのだろう。
「鍵を閉めておいで」
「はい」
 だらしない格好のままドアに行く。最悪だな、と手を伸ばしたところで素早いノックとほぼ同時にドアが開いた。息が止まった。一瞬意識が遠くなる。つま先が地獄の底ほどに遠くて感覚が無い。

「おい」
 腕を掴まれて、自分が斜めに倒れかけていたことに気が付いた。ディリータだった。途端に呼吸が戻る。彼ならば、構わない。
「どこででもやるのか。呆れたものだな」
 俺に、かと思ったら彼の顔は父に向いていた。
「俺で助かったな。ドラクロワだったなら最終的に首が飛ぶぜ」
「余計なことはいい。何の用だ」
 俺はまだふかふかする足元を叱咤しながら真っ直ぐ立つ。
「ボタンを閉めるか奥に行ってろよ」
 ディリータは父を無視して俺を見て、突き飛ばすように腕を離した。指先も足元も危ういので俺は特に反応しなかった。ふん、と鼻を鳴らしてディリータは父に向かう。
「急ぐと思ったからな。粛清したドルガーの弟がラーグに訴状を出した。無実だと書かれている。途中で俺が回収したからまだ上の連中は知らない」
「弟? そんな者がいたのか?」
「ツィゴリス地方の寒村に蟄居している変わり者だと。明朝に確認しに行く。適当な場所で適当な事故に合わせるから後の処理を頼みたい」
「分かった。任せる」
 突っ立っている俺をやはりいつもの馬鹿にした顔で見て、ディリータは頭も下げずに出て行った。
「あれは役に立つな」
 父の怒りは持続しているがどこか楽しげな雰囲気になっている。
「礼儀だけはまるで話にならんが」
 父はぼんやりしている俺に近づき、背中に手を回した。空いている手で鍵を閉める。
「元気だったか、イズルード」
 優しい目が俺を見る。ドアの真横で服を脱がされ口を吸われながら、俺は父が慌てなかった理由を考えていた。

 最後に、あって無いような理由でしばらくの逗留を言いつけられた。犯された後はいつも頭が働かないから頷いてしまう。父は慣れた様子で俺の身支度を手伝い、肩を抱いてドアまで送った。俺は、自分の部屋に向かってふらふら歩く。痙攣がきた。左足が動かない。しばらく壁にもたれて待つ。待つしかないから待つ。割合と早くに落ち着いたから残りの道程を痙攣の予感を抱えながら辿った。
 行き着いた部屋の真中に倒れる。長椅子にはたどり着けなかった。勝手に涙が出る。特に反応しない。別段、何を思っている訳でもないから放っておく。目を閉じる。体が、だるい。


 そのまま眠ってしまったようだった。目を開け、天井の文様を見る。緑色の複雑な模様で、こんな部屋に長くいたら気がおかしくなってしまうだろうなと思う。寝起きの頭でしばらくのびていた。
 ふと気付く。この部屋じゃ、ない。でも大した問題はなさそうだ。誰も起こさなかったのだからきっと誰の部屋でもないか、主は留守なのだろう。
 考えていても仕方が無いから起き上がる。犬が昼寝から起きるように、ただ目が覚めたから起き上がる。ぐらぐらする。側の椅子に縋り、足を叱って立たせる。頭を振り、両手で支える。この眩暈。何かが俺を押しつぶそうとする。以前はそれが何なのか分かっていたような気がするが、今はその感覚を忘れて漠然と嫌な感じがするだけだ。父と寝るとこうなる。この眩暈の名前を俺は知らない。立ってしまえば案外楽になると知っているから、無理やり足の裏を絨毯につける。
 成功した。部屋を見回す。意外と良い部屋だ。天井を除けば、だが。家具は落ち着いた黒木、絨毯は淡い灰緑。調度品は金色の雨が降っている池の絵が一つと蔦が絡まった蛇を模したランプの架台だけ。天井さえもう少しまばらな模様か、このままでも彩色が無かったならばよかっただろうな。カーテンはまだ夏物の日の透ける更紗、その前には大きな机に書類が積み上がっていて、革張りの黒い椅子に沈むようにディリータが眠っていた。

 何をしているんだろう、というのが正直なところだ。俺が入ってきて床に倒れるのに気が付かなかったのだろうか。それは無いだろう。例え眠っていてもディリータなら確実に気が付く。それならばその時部屋にいなかったのか。……いや、俺を跨がなければここには座れない。それで目に入らない訳が無い。結論としては、この部屋に俺がノックも無しに侵入して、ばたりと倒れて眠るのをディリータは放置していた、ということだ。その上で仕事に疲れて自分も眠ってしまったということか。
 なんてのんきな事だろう。俺は眠っているディリータを見下ろした。脱力して眠っている姿は妙に華奢に見える。「子供みたいな顔」という使い古された言い回しが似合う寝顔。組んだ足先に触らないように近づく。
 カーテンから透ける光が照らす髪は、中々興味深い色をしていた。何色か混合しているようだ。近づいて髪を摘もうとしたら
「触るな」
と、うなった。犬みたいだな、と思いながらそのまま手を伸ばす。
 やはり、三色だ。一番多いのは濃い茶色、その中に彼の目の色と同じ、木の実色の髪が混じる。そして、全体の色を調合するような光る茶色が少々。これは俺の髪の色と似ている。そんなことを考えていたら、非常に憤慨したディリータに腕を引っ張られて膝の上にうつ伏せに乗せられてしまった。片手で俺の両手首を掴み、残った手は当たり前のように俺のベルトを外してくる。
「大した度胸だな。勝手に部屋に入って来て眠り始め、挙句に触ってくる。親父並の図太さだ」
 足が浮いているから抵抗がままならない。あまりその気もない。
「おい、子供じゃないぜ、尻を叩いても謝らないぞ」
「もっと良い事をしてやるよ」
 ああ、嫌だな。
 剥いた尻を撫で、すぐに指を入れてきた。痛くなかったので、緩くなってきたのかとがっかりする。
「色々残ってるな……奴の出したものと、後はオイルか」
 溜息を吐く。どうしたものかと思う。どうにもなりそうにないので目を閉じた。父のやり方と比べてみる。変わらない。所詮、鶏姦は鶏姦だ。
「くだらないものを見るな。いい加減に離せよ」
 ディリータは膝を下げて手を離した。俺は素直に床に転がる。
「もう少し抵抗しろよ。これじゃ親父に叱られるぜ」
 大きい机の下に押し込められてシャツを脱がされる。俺は抵抗することには慣れていないからそのまま放っておく。
「つまらんな」
 そう言いながらディリータは圧し掛かり衣服を全部剥がした。
「おい、可哀想だ、止めておけよ」
「は、おまえがか?」
「デルタだよ」
 ディリータは目を細めて俺を見る。足を広げてその間に入ってきた。片膝を曲げられる。丸見えなんだろうな、と思うが何もかも面倒くさい。
「それなら嫌がって見せろよ。これじゃやる気の無い男娼だぜ」
 唇の端を曲げているディリータは笑っているらしい。酷く気分を害しているくせに。
「おまえこそ、誰かの代わりを探してやりまくってるあばずれだ」

 殴られるのを覚悟で言った。しかし、ディリータは何も言わなかった。つまらなさそうに俺を見て、足の間から退く。そのまま座って更紗越しの陽光を見ている。
「デルタが嫌がらなくなった。こんなことなら殺してしまえば良かったな」
 ぽつりと言う。
「腕を上げてどこにでも付いて行こうとする。面倒だ。前線に送ってしまおうと思う」
 俺も身を起こし、ディリータの隣に座る。
「送らないさ、おまえは。八つ当たりの相手に真っ先に選ぶくらい、デルタを可愛がっているからな」
「まさか」
 窓はどこかが僅かに開いているようで、薄いカーテンがほのかな風に揺れている。地模様が淡い色の絨毯に映ってちらちらと瞬く。
 ディリータはふっと振り返り、俺を見た。彼の顔にも更紗の文様が落ち、また俺の顔にもそれが映っているのだろう。
「ヴォルマルフをどうにかしてやろうか」
 無表情にディリータは言った。今度は穏やかに俺の肩に手を伸べ、髪を触ってそれをじっと見ている。
「あの人は神殿騎士団に必要な人だ。何かしたら許さない」
「そうか」
 ディリータは言って俺の耳の側に顔を寄せた。怒ったか、と聞くから別に、と答える。寝ようぜ、と言うからああ、と答える。

 扉を叩く音。
 なぜか溜息を吐いて、ディリータは立ち上がった。身づくろいをして扉に向かう。
「なんだ」
 相手が分かっていたようにディリータは開く前にぞんざいに言った。
「お仕事中失礼します、ハイラル団長。イズルードさんをご存じないですか? お知らせすることがあるのですが」
「さあな。俺が知るはずないだろう。奴の部屋に伝言を書いて置いておけ」
「あ、はい。……失礼しました」
 デルタが背を向ける気配。机の中の空間で俺はそれを知る。
「おい」
「はい?」
「今夜、部屋に来い」
 言い捨ててディリータは扉を閉めた。締まる音と共に、デルタが嬉しさを消しきれない声で返事をしたのがかすかに聞こえた。俺は苦笑し、退散しようと服に手を伸ばした。が、鍵の閉まる音を耳が拾った。
「寝室はこっちだ」
 ディリータの声に机の上に伸び上がって顔を出す。
「夜、デルタが来るんだろう?」
「まだ、昼だ」
「さすが、あばずれだな」
 拾いかけた服を放って俺は全裸で立ち上がる。ディリータは腕を組み、扉の横に背を持せかけて俺を見た。また、目を細めている。そういう癖があるとは知らなかった。
「来いよ」
 首をしゃくって奥を示す。俺は肩をすくめ、ゆっくりと歩く。俺を鑑賞しているディリータの視線が心地よい。父はいつも、他の者に体を見せるな、と強く念を押す。だから、誰かに見せてみたかった。相手を殺す、と言うから諦めていたが、この男なら。
 目の前に立ち止まり、一歩近づいてみる。無感動なディリータの目は枯葉の色。
「傷一つ無いな」
「あの人が全部消すから」
「ふん」
 伸びた手が首に回る。
「ここに一つ残っている」
 抱き寄せられて唇が耳の下に触れる。そういえば、さっき父にも同じような場所で抱き寄せられ、同じ場所を吸われた。
「止めろよ、バレる」
「後で消すさ」
「ここでするのか?」
「いけないか」
「立ったままじゃ疲れる」
「おまえは全く張り合いの無い奴だな」
 また潜り込む指を抜かせ、俺は奥の寝室に入った。ディリータは大人しく付いて来る。可笑しい。俺が、ディリータを誘惑しているみたいだ。

 寝台は綺麗に整えられていて、俺が座るとシーツに皺が寄った。それを増やしながらディリータが被さる。
「予備のシーツはあるのか?」
「なんだ?」
「デルタが来る時までに代えてやれよ」
「ここでする、とは言ってない」
「酷いな、おまえは」
 後始末はしたとはいえ、まだ父の唾液や俺の精液が残っているだろう体にディリータは舌を伸ばす。臍に舌を入れ、更に父が散々しゃぶった俺の性器を口に入れた。そうしながら後ろに指が入る。あまり感じなかったが、すぐに俺の性感を探り当てて引っ掻いてきた。体が跳ねて声が漏れる。俺は一気に興奮して、ディリータの髪を握った。
「さすがにここは感じるか」
 顔を上げてディリータは唇の一端をゆがめた。荒っぽく服を脱いでいくその姿は、意外と色気があるな、と思う。鍛えられた体は傷だらけで、無頓着な性格そのままだが。
「感じやすい方がいいんだろう?」
「別に」
 俺の口真似をして答え、ディリータは俺をうつ伏せにする。すぐに猛った性器の感触がした。
「待てよ。そのままじゃ痛い」
「オイルが残ってるぜ」
「慎重にしろって。いつあの人に呼ばれるか分からない」
「じゃあ、舐めろよ」
 頭を落として俺はがっかりする。仕方ない。起き上がり、膝立ちのディリータの前に蹲ってペニスを握って口を開けた。
「……親父にやってやるみたいに上手にしろよ」
 少しいらついているようだ。デルタはもっと上手にやるのだろう。
「濡らすだけでいいんだろう?」
「それじゃつまらん」
「おまえはさっきから、つまるのつまらないのばかりだな」
「寝るか寝ないかなぞ、その程度のことだ」
 さっぱり雰囲気が出なくて俺は笑う。こんなにさばさばとしたセックスをしてもいいんだろうか。泣きながら抱かれることに慣れすぎてしまったからかな。
「笑うな。真面目にやれ」
「笑うさ。真面目にやってる。舐めるのは初めてなんだ」
 いきなり髪を掴んで引き上げられた。
「痛い! 無茶するな!」
「初めて? なんだそれは」
「おまえはしゃぶってばかりだろうけど、俺はさせられた事はない」
 腕を殴って離させる。俺を見ているディリータに笑う。
「あの人の部屋から出てくるおまえはよく唇を舐めてたな。実は、あの人も俺のをやった後はそうするんだ。性格が似ていると癖も似るんだな」
 言ってやった、と俺は晴れ晴れとディリータを眺める。先刻、シャツを乱した俺をディリータに見られて父が慌てなかった訳、それが、これだ。
「ふうん」
 感慨なく俺を見返し、ディリータはあぐらをかいた。手を伸ばしてサイドテーブルを引き摺って寝台に寄せ、上の引き出しからオイルを出した。
「なんだ、あるんじゃないか」
 色々なことに呆れて俺は言った。張り合いが無いのはディリータの方だ。
「あるさ。俺だって何時奴のはけ口にされるか分からん。デルタもこれがある方がいいらしい」
「黒羊騎士団団長の乱れた性生活か。いくらで売れるだろうな」
「神殿騎士団団長親子の歪んだ関係と、どちらに高値がつくか、やってみるか?」
 笑いながらオイルの容器を俺に投げてくる。蓋の開け方が分からず少してこずってから、俺は中身を手の平に出して擦り合わせた。
「もしかして、これも初めてか?」
「俺はいつも伸びてるだけだから」
 とにかく塗ればよかろうと、適当に握ってぬめりつける。事務的で何の艶もない俺の「作業」に、くく、と声を出してディリータは笑った。
「笑うなよ。これでいいだろう?」
「はは、上出来だ」
 機嫌よく俺をまた裏返しにしてディリータは圧し掛かった。何の合図もなく、ただ押し付けられるペニスを俺は力を抜いて飲み込む。こっちは上手いはずだが、存外に大きいので少し痛む。楽になるように腰を上げながら、無意識に父と比べていることに気付く。全然違うものなんだな、と感心する。

「……痛いのか?」
 俺の両肩を押さえつけ、ゆっくり動いているディリータがらしくない小声で言った。
「いや、別に」
 手が離れ、背中を撫でた。しばらく擦り、腰を捕まえると体を離した。
「止めるなよ……」
 我ながら情けない声を出した。投げ出されて寝台にぐったり横たわる。体の中からじんじんと快楽を求める悲鳴が上がり、それを押さえるために両肩を抱いた。父にも何度かこうやって放り出され、入れて下さい、と言わされたことがある。そう言えばいいんだろうか。
 ディリータは俺の両手を取って仰向けにした。足を開いてあっさり体を繋いでくる。ほっとして俺はディリータの背中を掴んだ。足を上げて腰に絡める。湿った音が俺の耳も犯しているが、悪くない気分だ。
「……こんなに慣れてるのに良くないか」
 不思議な事を言われて俺は目を開く。充分快感に酔っているのが分からないのだろうか。腰も振っているだろう、こうやって。
「いいよ……なんで?」
「いや、それならいい」
 不審を飲み込み、再び目を閉じると自分の内部がディリータに絡みついているのが分かる。父とは違う感触をはっきり感じ取って安心してそれを貪っている。罪科の無い相手とのセックスがこんなに単純に気持ちがいいなんて知らなかった。ディリータはとても親切で、俺の性感をきちんと突いて行かそうとしてるから、余計に快感は強まるばかりで……
「行きたい、ディリータ、行きたい……」
「好きにしろ。俺はもう少し続ける」
 好きにしろ、なんて言われてもどうしたものか分からない。困ってディリータを見る。やはり無感動なままの顔でディリータは俺の性器を握った。目眩がするほど快感が強まり、俺はそれだけで声を上げて行ってしまった。視界が定まらず、それなのにまだディリータは動いている。達したばかりの内部が酷く熱くて全部が性感になってしまったようにうねっている。
「もう、だめ、だ、ディリータ、やめ、」
「ああ、もう終わる。待ってろ」
 いい加減なことを言う。俺は掠れた声を上げ続けてディリータの背中に爪を立てる。これ以上登れないところまで追い詰められて尚、蠢く熱い塊を締め付けて悶えている。段々と意識が薄れる。快感だけは身に迫って追ってくる。どうなってしまったのか、恐怖を感じるほど自分が分からない。殺される、その言葉が一番しっくりくるこの感覚。
「いくぜ」
 低く耳元で声がする。一層強く揺さぶられ、ああ、死ぬ、と呟いたかどうか。俺は意識を手放した。
 墜落は酷く心地よく、何の悲しみもなかった。


 目が覚めると既に日は翳り、哀しい鳥の声が聞こえた。だるくもなく、疲れてもいない。俺は身を起して顔を巡らせる。ああ、ディリータと寝たんだな、と思い出した。しかし何をする気にもなれずにぼうっと寝台の上に座っていた。
「起きたか」
 何事も無かったような姿でディリータが寝室に入って来た。
「そろそろ食事の時間だ。部屋に戻れ」
 俺はのろのろと動いて寝台を降りた。ほとんど無意識に太腿を気にする。何も流れてこなかった。
「心配するな。中で出さなかった」
 ばさり、と服が投げられて俺は受け損なってまた寝台に倒れた。
「しっかりしろよ」
 苦笑し、ディリータは寝室を出て行った。
 倒れたままそれを見送り、ふう、と息を吐いて起きる。体は綺麗になっていたから散らばった服を一つ一つ着ていく。靴を履いて立ち上がる。のびをする。疲れているどころか、随分楽になっている気がした。

 居間に戻ると予想通りにディリータは仕事に埋もれていた。俺の方を見もしない。
「よく働くな」
「性分だ」
 彼の背後の更紗は陽光を失い、その文様をはっきりと見せていた。この部屋に良く似合う、蔦に覆われた古い城。ところどころが崩れ、そこに花が咲いている。
「世話を掛けた」
 一言で全てを片付け、俺は部屋を出た。





「何も、出来なかったさ」
 抱いている間中、意味も無く涙を流して浅く痙攣し続けていた者を思い出しながらディリータがそう呟いたのを、イズルードは知らない。






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