眠る人(ザナルカンド編)

 散々に吹き荒れた嵐が過ぎ去ったゴミだらけの町並みの中、まだ残る突風に赤い裾が翻った。転がってきた空き缶が、割れて電飾が剥き出しになった看板に当たって乾いた音を立てて跳ね返り、彼の爪先を掠めて行く。湿ったコンクリートを踏み締めるとぎちぎちと音が鳴った。
「ある、な」
 港に繋いだと言っていた彼の養い子の船は、太い鎖と舫い綱で港の端に引き止められていた。壊れている様子は無い。そちらに体を向けて潮だまりの残る埠頭を進む。早い時間だったが既に港は嵐の後片付けが始まり、威勢のいい男達の声が響いていた。
「おや、アーロン、久ぶりだね。食べていくかい?」
 馴染みになった食堂の女将が、店先からひょいと顔を出した。浅黒く焼けた肌に綺麗な白い歯を見せ、やはり真白いほっかむりをしっかり結びながら陽気な笑顔を向けてくる。
「営業するつもりか?」
「まさか。今日は仕事にならないよ。後片付けの若衆におごるのさ、お前さんも入って行きなよ」
「あれを見に行ってやらんとな」
「あはは、嵐に泣いてるとでも思ったかい? 夜通し若衆に混じって漁船の見回りなんかをしてくれてたよ。まだその辺を走り回ってんじゃないかねえ」
「そうか。それならいい」
 くる、と踵を返して元来た道を引き返すアーロンに慌てて、
「こら、お待ちったら! 顔くらい見てってやんなよ、一月ぶりじゃないか」
「無事ならそれで良い」
「まったくもう、素直じゃないねえ、お前さんは」
 ほら、とアーロンの腕を叩いて女将は笑う。あっちが気がついたよ、と背中を押し出した。打ち上げられた小型のサメやクジラを引っ張っている若衆の中に、ぶんぶん手を振っているティーダが見える。雨なのか潮なのか、とにかく全身が濡れ、髪も濃い色になって頭に張り付いていた。しかし本人はいつになく楽しそうだ。
「アーローン! クジラの肉、もらった!」
 アーロンが近づくと、びし、と見事なコントロールで腕のなかに紙包みが投げ込まれる。数キロはあるだろう重い肉の塊だ。
「食えるようにしろ、ということか?」
「当たりー! 俺、もうちょっと手伝ってくから先に入っててよ」
 続いて鍵が投げられる。仕方ないな、と溜息を吐き、綺麗なループを描くマストにアーロンは体を向けた。
「うわー! まだ生きてた!」
 ざわめき、そして濡れた大きな音にアーロンが振り返ると、人一人分ほどの大きさのサメが突然息を吹き返して尾びれでコンクリートを叩いたところだった。
「避けろ! おい、ティーダッ!」
 一番近くのティーダに向かってサメは猛然と歯を剥き、大きく飛び上がった。
「わー、勘弁!」
 戦おうと拳を握りつつも頭を庇っているティーダに大きな顎が落ちる寸前、ぬっと赤い袖が突き出た。エラに指を掛けると片手で軽々と持ち上げ、ばち、と頭から地面に叩きつける。ひくひくと痙攣する白い腹を一瞥したアーロンは、一瞬の事に茫然としている若衆の間を縫い、無言でティーダの船に向かって立ち去った。若衆の一人が腰を抜かしているティーダの脇に手を入れて立たせながら、
「オヤジさん、相変わらずすげーな!」
「なんかむかつく……って、オヤジじゃないっすよ」
「ティーダがジェクトの息子だってことくれぇ皆知ってるって。でもオヤジさんみてえなもんだろ、ちっこい頃からべったりでさ」
「べっ、べったりって! なんすか!?」
「だってそうじゃんよ。いっつも、泣いてるお前がオヤジさんの裾握って歩いてさ」
「そっ、そんな事忘れたー!」
 子供の頃から付き合いのある連中だ。スフィア越しの無邪気な観客よりはずっと、ティーダの中身を見てくれる。しかしそれ故に遠慮もない。
「ティーダ、もういいから帰れよ。せっかくおとうちゃんが来たんだから甘えてこいって」
「冗談じゃないー!」
 何と言い返そうともからかわれるばかりで、間もなくディーダは逃げるように船に戻った。



 リモコンでタラップを降ろすと、ハープのような流線型のマストの先に止まって揺れていたカモメが驚いた様子で飛び立った。念のために甲板を一回りしてどこも壊れていないことを確認し、船内に入る。湿った靴を玄関先に脱ぎ散らかし、リビングに声を掛けた。
「ただいまー」
 そんな言葉を言うのは一ケ月ぶりだ。口に乗せるだけで嬉しくなり、ティーダは軽く駆けて一直線にキッチンに向かった。
「先に風呂に入れ」
 アーロンは振り向きもせずに言った。切り分けた鯨肉が綺麗に小分けして包んであった。それを冷凍庫に入れると、まな板に残した肉に取り掛かる。
「……何作んの?」
 小さい頃から見続けた背中。大抵アーロンは振り向かない。いつも背中を向け、ティーダのために何かをしている。
「ステーキだ」
「朝から!?」
「文句があるなら食うな」
「う……分かったっす」
「靴も水につけておけ。潮まみれだろう」
「……了解」
 もう一度玄関に取って返し、ティーダは靴を持って浴室に入った。バケツを置いて蛇口から出る水を受けながら、じっと見詰める。
「オヤジ、かあ」
 普通そう見えるよな。微妙だけどまあ仲の良い親子。
「フケすぎなんだよ、三十五のくせにさ!」
 じゃぼん、と投げつけるようにして靴をバケツに放った。



「う……、料理の腕前、上がってる?」
 シャワーを浴びて戻ってきたティーダの眼下、リビングのテーブルの上には朝食とは少し違う、しかし中々の料理が並んでいた。ステーキは簡単に言えば香草焼きのようなもので、油がきちんと抜かれているから気を遣ってくれたのだと分かる。バランス良く、サラダと湯気を立てるポタージュスープが添えてあった。自分の食事は自分で用意するのが当たり前になって久しいだけに、うきうきとティーダは自分の椅子に向かう。
「何枚だ」
 トーストの袋を上げてアーロンが聞く。
「ニ枚!」
 二人分ある。それじゃあ、アーロンも食べるんだ。
 ティーダは勢い良く椅子に座った。
「へへっ、いただきまーす!」
「ゆっくり食え」
 アーロンはまだキッチンで何かしている。果物を剥いているらしい。ナイフを置き、皿にリンゴを盛り付けたところでタイミングよくトースターが、ちん、と鳴った。
「俺、取りに行く」
「座っていろ」
 ティーダが腰を上げる前にアーロンがさっと全てを終えた。そうして自分のトーストをやはりニ枚トースターに押し込んで席に着いた。
「一緒に食うの、久しぶりっすね」
「そうだな」

 窓からは、切れた雲間からきらきらと漏れる朝日が差し込んでいる。凪の海に浮かんだ船はほとんど揺れを感じない。ティーダが一番好きな時間になった。そして目の前にアーロンがいる。
 トースターがもう一度鳴る。アーロンは静かに立ってキッチンに向かう。一々席を立つのは面倒だからリビングに置こう、と言うのに、絶対動かさない。他の家具や電化製品も同様だった。アーロンにはそういうオキテがあった。もちろんここは今はティーダの名義になっている「家」なのだから自分の好きにできる。だが、アーロンがしないことをティーダにはする気にはなれなかった。その結果、この家は両親が健在だった頃とほとんど家具の位置が変わらない状態に保たれている。そもそもティーダの母が、アーロンをあからさまに疑って決して家具などに触らせず、また一度も泊めることをしなかった。ティーダの目には、アーロンは母の遺志を尊重しているように見えた。間際には、彼女は全幅の信頼をアーロンに置いて息子を頼んで逝ったのだが、それはティーダの知らぬことである。
「ステーキ、すげー美味いっ!」
「そうか」
「リアクション薄い……」
「料理の本通りに作ってみた。下味のタレにハーブを七種類、焼き用に更にニ種類を足し、火加減は強火三分で表面に焼き色を付けて裏返して中火ニ分、」
「そんな答え嫌だー!」
「気に入ったのなら良かった」
「……ウン。そだ、アーロン、今どこに住んでんの?」
「西だ」
「……野宿かよ!」
「サイドタウン西ブロック4350−5223」
「……今度遊びに行っていい?」
「夜はいないが」
「うん」
 アーロンがどんな仕事をして生活しているのか、ティーダは全く知らない。聞く気にもならない。気にならない訳ではないが、ふっと来てふっと帰って行く、そんな存在で構わなかった。もちろん、家を訪ねるつもりなど、はなから無い。アーロンもそれを分かっている。なぜならティーダの望みはこの家で時々、「ただいま」を言う事だからだ。
「デビュー戦、来てたんだって? 俺の送ったチケット、届いたんだ」
「正しい住所に送れば届くものだろう」
「……見てたんだろって聞いてんの! 俺、カッコよかっただろー!」
「そうだな」
「張り合いねーの!」
「後半の終了間際のシュートは、あのマークの中でよくやったと思う。来年はエースとしてマークされるようになれ」
「う、うっす……」
 こういう事を真顔で言うから。
 ティーダは俯いてトマトをぶつぶつフォークで刺した。
 すごく嬉しいんだ。でも、なんだか。
「おまえは嫌がるだろうが」
 この前置きは、必ずあいつの話だ。俺は拗ねる。ああ、拗ねるさ! とティーダーはトマトに留めを刺した。
「だったら言わなくていいっす!」
「そうか」
「……」
「……」
「言ってよ!」
「ジェクトもああいう風に試合をしたのかと思って見ていた」
 肩の力が抜ける。アーロンも『俺の中にオヤジを見ている』事をティーダは知っている。でも決定的に他の連中とは違うところがあることも知った。それは、アーロンはどういう訳か『ブリッツ選手ジェクト』を知らない、という事だ。ティーダを見てジェクトを想像することはしょっちゅうだが、比較して落胆したり歓喜したりは絶対にしない。平たく言えば、知らないから比較もできない、という事なのだが、比べられることに悪い意味で慣れているティーダに、それは奇妙に新鮮で救いだった。
「あんた、変わってる。オヤジのブリッツ、ホントに知らないんだもんな……」
「一度だけシュートを見たことがあるが」
「うん、聞いた。ホント、変わってるよな……」
 ここで、どんなオヤジを知ってるんだ、と聞くべきなんだろうとティーダは思う。息子なら、死んじまったオヤジの『最期の日々』を知っているらしいアーロンに、仔細を聞き出すべきなんだろうと思う。でも、アーロンは決して口を割らなかったし、ティーダも聞きたくもなかった。母には古い友人だ、と話していたらしいがそんな矛盾はどうでもいい。
「もうすぐ十七だな」
 アーロンはフォークを置いてティーダを見た。いつもアーロンは突然だ。
「何かやろう。考えておけ」
 テーブルの上に台詞を転がしたまま、アーロンは席を立つ。多分、こんな時、アーロンは照れているのだろうとティーダは想像するが、顔色一つ変わらないから推測の域を出ない。ゆっくりとした足取りのアーロンはキッチンに入り、冷蔵庫を開けてオレンジジュースを出した。グラスニつに注いで戻ってくる。ティーダに手渡すと席に戻る。
「飯」
 ティーダはぽつりと言う。
「俺の好きなもん、いっぱい作ってよ」
 アーロンはうんと昔、出会った頃は概ね力技のようなメニューが得意だった。それにどうもザナルカンドの料理とは少し違ったものが多かった。小さい頃から母親にべったりだったティーダは自然、料理をするようになっていたから、それほどアーロンの食事に頼った訳ではない。しかしティーダはアーロンの料理を食べたがったから、今では少しだけ繊細なものが出てくるようになった。ティーダが好きなグラタン、ティーダが好きなエビフライ、ティーダが好きなクリームシチュー。
「料理はおまえの方が上手いと思うが」
「自分の味なんて食べ飽きたよ」
 料理を作って一緒に食べる。二人でいてくれるってことだから。
「そうか。分かった」
 に、とティーダは歯を見せて笑った。他の物をねだったとしても、きっと料理くらい作ってくれる。でも、絶対一緒にいて欲しい。
「あー、腹いっぱい! ごちそうさま!」
「すぐ寝るな」
「分かってるって!」
 ティーダは元気よく言って、テーブルの上を片付ける。積み重ねた皿を持ってキッチンに入り、腕まくりをする。が、追って来たアーロンが頭の上から覗き込んでくるからフォークを一本取り落としてしまった。かちん、と高く澄んだ音を立ててフォークはシンクに転がり、ティーダは意味も無く焦って大きな声を出した。
「さー、洗っちまおーっと!」
「俺がやるが」
「いいって! すぐ寝るとダメなんだろ? 向こうで座っててよ」
「そうか」
 アーロンがやはりゆっくりとした足取りで去っていくのを振り返って確かめた後で、盛大にティーダは息を吐いた。
 なんでだろう。最近、側に寄り過ぎると緊張してしまう。
 違う、分かってる。
 理由なんて分かりきっているんだ。分かりきって……。
 思い切り水を出した。排水溝の真上にある蛇口から出た水は、飛沫一つ無く吸い込まれる。どれだけ勢いを増しても溢れる事はない。
 俺みたい。
 嫌な想像を首をぶんぶん振って弾き飛ばし、ティーダは蛇口の下に皿を投げ込んだ。途端、水しぶきが顔に掛かって、うわ、と目を瞑る。手探りで水を止めた。
 これしか、ないんだ。
「ホント、砕けそー」
 我ながら情け無い声に笑って、ティーダはスポンジを手に取った。




 洗い物を終えてティーダがリビングに戻ると、アーロンはソファに座っていた。いやに真剣な顔つきでスフィア放送を見ていると思えば、先日のデビュー戦の特集だった。画面の右隅に、『父の死を越えて! 若きエースの戦い!』と仰々しくタイトルが張り付いている。
「あー、ソレ。やんなっちゃうよね」
「知っていたのか?」
「そりゃ、事務所通してるもん。俺のインタビューもあるよ」
「インタビュー、か」
「ま、世間様のキタイってのを裏切らない程度にやっといたっす」
 しかし、しばらくして現れた画面の中のティーダは、挑戦的な目でインタビュアーを見据え、オヤジのビデオより俺のシュートを生で見る方が面白いに決まってるよ、と言い放っている。
「緊張しているな」
 アーロンの足元にあぐらをかいたティーダは、首を竦めて見上げた。
「右耳を触っている」
 それはティーダの癖だ。嫌なことやぴりぴりした場面で必ずやってしまう。やっぱり知ってたのか、と唇を尖らせてティーダはリモコンを取るとスイッチを切った。
「まだ見ている」
「後はアイツの映像ばっか。全然俺の特集じゃないって。結局みんな、アイツが見たいんだ」
「そうとも限らん」
「……どうだか」
 あのインタビューの間、ティーダは始終落ち着かなかった。嘘を吐け、おまえなど未熟もいいところだ、と誰かが大声を上げるのではないかと視線を辺りに泳がせながら、ノリのいい若者のフリをした。ジェクトの力を一番知っているのは、間違いなく自分だから、納得してしまうと何も出来なくなってしまう。ちょっと頭が軽そうな、無謀な若者。それがティーダが安心できる、今のポジションだ。
「おまえは好きなようにすればいい」
 ほとんど口癖のようになった言葉をアーロンは呟き、ソファから立ち上がった。
「徹夜だろう、少し休め」
「……ちょっと座ってよ」
 床から見上げる視線を受け、アーロンは眉を上げる。仕方なさそうに元の位置に戻ると足の間で両手を組んだ。
「なんだ」
「……俺、好きなようにしていいんだよな」
「おまえの人生だ」
「……あんたもそうしてきた?」
「そうだな」
 アーロンは顔を上げ、窓を見た。カモメが一羽、その窓を切るようにして飛んでいった。
「俺は信じた通りに生きた。誇れるが、悔いも多い」
「よく分かんないっす……」
「そういうものかもしれん」
「人生が?」
「信じる、という事だ」
「信じて何かをやったんだろ、じゃあいーじゃんよ」
「意志と結果は別の生き物らしい」
「……わかんないっす」
「三人の人間がいた」
 アーロンはまた窓を眺めた。残った一つの目が細くなる。
「信じた思いは叶えられた。しかしニ人は結び付きながらもどこよりも遠い場所に別れ、一人は形すら無くした。誰もそんな事を望まなかった」
 初めて聞く、アーロンの昔語りだった。何の事なのかティーダには見当もつかない。それでも、その出来事が今のアーロンの全てを作ったのだろうと想像する。
「じゃあさ、何かやったって無駄ってこと?」
「そうではない。それはおまえが見つけろ」
「見つけろって……」
「帰るぞ」
 そっけなく立ち上がるアーロンの膝に思わずティーダは抱きついた。
「ま、待ってよ! 話はこっからだってー!」
「……なんだ」
 また座りなおすアーロンに、あんたは勝手過ぎるんだよ、とぶちぶちとティーダは呟く。ソファに伸び上がってアーロンの膝に手を置いた。スキンシップは久々なので、緊張して手が耳に行こうとするのを堪える。
「あのさ、俺はさ、無駄でもしないよりする方がいいって思う」
 アーロンは隻眼だから、向かい合うとティーダは若干右を向くことになる。サングラスに隠れた残るひとつの輝きを、両目で捕らえようとするからだ。互いに凝視するように見詰め合う。
「そうか」
「そんで、俺ってやっぱ、速攻派なんだよな」
「そうだったか?」
「前払い、がいいっす」
 首に手を回した。どちらも目を逸らさず、先に動いたのはティーダ。少し首を傾けて、震える口付けをした。こつん、と眉毛にサングラスが当たる。無精髭がくすぐったい。腿の上に圧し掛かり、ぶら下がるように長いキスをする。しかし。
 何も、反応がない。
 なんでだよ……!
 思い余って舌を差し入れて歯を舐めアーロンの舌を探すと、それは喉の奥に引きこもって固まっていた。そろ、と先端を併せ、やはり反応が無いのを確かめてから唇を離す。
「……びっくりしてんの?」
「当たり前だろう」
 ほっとしてぎゅっと抱き締める。アーロンは無情なほど冷静に、きつく結んだティーダの指を首の後ろで解き、そのまま吊り上げる。
「第一、何の前払いだ」
「誕生日になんかくれるって……!」
 無駄と知りながらもがいてティーダは返事をした。
「食事に決めたんじゃなかったのか」
「変更!」
「……気が済んだなら、俺は帰るぞ」
「まだっ!!!」
 ふう、と溜息を吐いてアーロンはティーダを腿から下ろした。簡単に持ち上げられてソファに座らされ、なんだかさっきのサメになったみたいだとティーダは恨めしくアーロンを睨んだ。
「まだ、何があるんだ」
「……」
「なんだ」
「あんたとヤリたい!」
 突発的に出た言葉じゃない。ずっとそうしたいと思っていたから。しかし、小憎らしいほどにアーロンは表情を変えず、ティーダを凝視した。
「少し眠って落ち着け。明日にでもよく考えろ」
「今日でも明日でも、あんたが好きなんだよ!」
 威勢が良かったのはそこまでで、ティーダは肩を落として俯いた。
「もう一生、なんかくれって言わない。だから……」
 それ以上言葉にならない。片手でアーロンの上着を掴む。じりじりくっ付くと、はっきりアーロンは拒絶した。ティーダの腕を振り払って立ち上がる、という行為で。
「アーロン!」
「頭を冷やせ」
 振り返りもしない。頭の中が真っ白に爆発したティーダは、無我夢中でその背に飛びついた。しかしアーロンは簡単に首の後ろでティーダの腕を捕まえ、背中越しに降ろすと立ち止まりもせずに玄関に向かう。一瞬ショックで棒立ちになり、しかし、はっと気付いて叫んだ。
「やだー!」
 試合でも最大のピンチにしか見せないような猛烈なタックルでティーダはアーロンにぶつかり、転がり倒して胸にしがみ付いた。
「……おい、」
「やだったら、やだー!」
「……泣くな」
 仕方無し、とアーロンは体を起してティーダの背を叩いた。胸に突っ伏していたティーダは、弾かれたように顔を上げてアーロンを見た。胸元を掴んで揺さぶる。
「あんたの好きなようにしていいから!」
「馬鹿を、」
「本気だって! ヤリたいんだ、いっぺんでいいからヤッてよ!」
 アーロンは今まで見せたことが無い、困り果てた表情をしている。もちろん、少し眉が上がっているくらいだから、ティーダにしか知れないことだ。
「……いくらでも女がいるだろうが」
「いるさ! ああ、いるね! 俺がジェクトの息子だって皆知ってるから、女なんてじゃらじゃら寄ってくるよ、ヤリ放題だよ、ちくしょー!」
「それは駄目だ」
「なんだよ!」
「おまえはおまえだろう。ちゃんと選べ」
「そんなこと言うの、あんただけだよ!」
 あんただけ、なんだ。
 ティーダの澄んだ青い目は、ゆらゆらと光を混ぜ込んで散らす。流す涙も青いのではないかと、アーロンは一筋すくって溜息を吐いた。
「そんなことはない。いつかおまえにも、」
「そのいつかが今日! あんたに決めた!」
 ぶんぶんと揺さぶられてアーロンは顎を上げた。天井には何の説得案も書いてはいなかった。いっそ今、ジェクトが迎えにくればいいのに、と思う。
「……冗談は通じないぞ」
「通じる訳ないだろ、あんた相手に!」
 ひとしきり暴れたティーダは荒く息を吐き、アーロンは無言でその顔を見る。ともかく、と引き上げて立たせ、太陽の色をした旋毛に手を当てたとたん、魚のようにぴちり、と跳ねてティーダはアーロンの首にかじりついた。抵抗も出来たが、アーロンはキスを許した。言ったような事が本当にあったのだろう、ティーダは慣れていて、アーロンはやや暗澹たる気持ちを抱いた。
「……どうなっても知らんぞ。俺はそれほど経験はない」
「ヤル気になった!? やったー! ほら、行こう!」
 素直にティーダは大喜びし、一瞬で涙を消して笑顔でアーロンの腕を引っ張った。寝室の方に向かっていると分かるとアーロンは反射的に抵抗してしまう。
「なんだよ、今更!」
「……いや、なんでもない」
 アーロンの反応を気にかけないことにしたティーダはドアを開け、アーロンを先に押し込む。ばたん、と大きな音で閉まった扉に背を預けてティーダはアーロンを見つめた。

「逃げられないよ?」
「……分かっている」
 所在なげにティーダの部屋の真ん中に突っ立っているアーロンは、明後日の方向を見たままだ。
「上着くらい脱いだらどう?」
 挑戦的な視線を感じながら、アーロンはしぶしぶと腰帯を外して上着を取った。
「へー、そんな風になってんだ」
 言いながらティーダはゆっくりとアーロンに近づく。覚悟を決めたように、アーロンはティーダに向き直った。
「どうするんだ」
「……マジで言ってんの?」
「経験が少ないと言っただろう。からかうな」
「本気に決まってんだろ、イイ年して何が経験だよ」
 アーロンが何かを言おうとするのを止めるように、ティーダもシャツを脱いだ。勢いがついたのか、気前良く全部脱いでしまうとベッドに移動する。
 その後姿にしみじみとアーロンは思う。大人になったものだなと。父親の気分、というのはこんなものだろうか、ジェクト。
「アーロン! こっち来なって。何してんだよ……」
 ベッドに上がったティーダは呆れたようにアーロンを呼んだ。
「放っておく気かよ……ったく」
 いつまでも困ってはいられないようだ。アーロンはいつものようにゆっくりと歩くが、何秒もせずにベッドにたどり着いてしまい、じっと見上げられてともかくももう一度宣言することにした。
「知らんぞ、どうなっても」
「さっき聞いたよ、どうでもいいって!」
「しかし、」
「ごちゃごちゃ言ってると、俺がヤルけどいいの!?」
「……その方がましかもしれん」
「ばっかじゃないの!」
 ティーダは叫んだ。涙声に聞こえたのでアーロンはベッドに腰を降ろしてティーダを見つめた。毛布を被って膝を立てているその体は、随分と痩せっぽちだった。
「……のかよ」
「なんだ?」
「あんた、なんも感じない!? この俺が、裸でベッドに座ってんのに!」
 難解な問いだった。答えられないアーロンに諦めたように、ティーダは膝の上に頭を乗せ、腕で抱えてしまった。
「ティーダ」
「いいよもう、帰れば……」
「ティーダ」
「帰りなって、」
 言葉を塞がれた。びっくりしてティーダはアーロンの顔を見ていた。彼は特に表情を変えるでもなく、どこかぎこちないキスを仕掛けている。助けるように舌を突き出しながら首に縋ると、軽い動きでベッドに寝かされた。
「大人しくしていろ」
「……強姦じゃないんだからさ」
 外しなよ、とサングラスを取れば、アーロンは少し照れた目をしていた。それで安心し、ティーダは緊張を解いて自分の上で服を脱いでいくアーロンを眺めた。
「やっぱり良い体してるっすね」
「よせ」
 あくまでも照れを隠してアーロンは普段の表情を崩さない。それを笑ってティーダは手を伸ばした。
「痛くしていいよ。一週間オフだからさ」
 そうしたくは無いが、と心持ち小声が聞こえ、ティーダに体重が掛かった。



 初めてのセックスの時でもこんなに恥ずかしいとは思わなかった。ただキスをするだけなのに、恥ずかしくて目眩がするほど嬉しい。柔らかくなった舌を見つけて誘い、思い切り吸って味わう。まだアーロンは大して興奮していない。早くその気になって欲しい、俺を、欲しがって。
 半ば朦朧としながらアーロンの唇を開放する。つる、と唾液が伝って首筋に落ちた。密着した二人の体の間で、ティーダだけが猛っている。分かって欲しくてティーダは一層きつくアーロンを抱き締めた。厚みのある体、力を入れる程に腕が痺れてむしろ剥がれてしまいそうだった。
「経験が、あるのか?」
 ぽつり、と。アーロンの眉間にはいつも通りの皺。
「言っただろ、いっくらでも相手はいるって」
「女の話じゃない」
「ヤラせなくてもヤレたから」
 やれやれ、といった風情でアーロンはティーダを持ち上げる。あっさり裏返されてティーダは少し震えた。女も、初めてヤル時にはこんな感じで怖いんだろうかと思う。
「顔が見えないとヤダ」
 丁寧に背中をさすられて黙る。尻まで撫で降ろして、アーロンは動きを止めた。
「……何か……」
「?」
「何も無しでは無理だろう。何か潤滑剤が要る」
「あんた、ムードもなんもないな!」
 堪らずに起き上がってティーダは言った。
「大事な事だ」
「ばしっと入れたらいいって! だいじょーぶ!」
「無理だ」
「ヤレるって!」
 すると、アーロンは何を思いだしたのか、ふっと笑った。
「一生忘れられない強姦になるが、いいのか?」
 無性に腹が立った。ティーダは跳び起きるとサイドテーブルの引き出しを開けて床にひっくり返した。小さな袋を一つ摘み上げてアーロンに突き出す。
「じゃあコレ使ったら? こないだ、あんまり濡れないって言う女が持ってきて忘れて帰ったんだ」
 どうだ、と言わんばかりに腰に手を当てて見下ろすティーダに苦笑して、アーロンはそれを受け取った。
「早く寝ろ。その格好ではしまりがないぞ」
 どーせ俺だけ勃ってるっすよ、と拗ねながらティーダは寝転がった。
「うつぶせはヤダからね!」
「分かった」
 アーロンは妙に覚悟を決めた顔つきでティーダに被さり、真面目なキスをしてきた。そうしながら彼にしては器用にティーダの性器を撫でている。
「……なんか……分かんないっす、アーロンって……」
「そうか?」
 誰かを思い出しているのだろうか。そんな風に勘ぐってしまう。そういえば食事の時、夜は家にいないと言っていた。恋人の所に行っているのかもしれない。いや、そんなタイプじゃない、でも。
「あ、」
 ぬるっとした冷たい感触と一緒に指先が体に入る。ティーダは考えるのを止めた。指は戸惑いを伝えながらゆっくりと内部を探る。異物感が強くて身を捩れば、アーロンは動きを止める。
「ばしっとヤっていいって!」
 最後の強がりで言ってティーダは目を閉じた。が、手の代わりに舌の生暖かい感覚が性器に纏わりついて跳ねるように上体を起こした。
「うわ、そんなっ……」
 なんだ、という目でアーロンが見上げた。寝ろ、という手付きで胸を押さえられてティーダはがっくり体を落とす。
 キスよりもそっちが上手いなんてアリ……?
 肩に足を抱えられ、体を探る音と舐める音が大きくなる。与えられる刺激が強すぎて熱を出しそうになりながらティーダは小さく叫んだ。
「も、もういいっ……!出る……っ」
「構わん」
「や、ヤダ、よっ……!」
 一旦引き抜かれた指がニ本になって戻り、奇妙な感覚のする場所をやんわり引っかかれた瞬間、何の抵抗も出来ずにティーダはアーロンの口に吐精した。強烈な快感が去って慌てて頭を引き剥がした時には、全て飲まれてしまっていた。
「……ヤダって言った、のにっ……」
「何が嫌なのか分からんが」
 ティーダの方が分からない。まだ艶めいている指はそのままに、アーロンは伸び上がってティーダを覗いた。
「なんだよ……っ! 初心者みたいな事言ってさ!」
 一人上がった息が恥ずかしく、ティーダはそっぽを向いた。
「そんな事は言ってないが」
「言った、う、」
 指が出て行ってティーダは一つ大きな溜息を吐いた。アーロンはティーダの髪を撫でながら苦笑している。その優しげに細められた目を憎らしく睨みつけるが、アーロンは動じない。
「舐めるのは上手い、とでも言っておいた方が良かったか」
「はあ……ホントにあんた、分かんない……」
「俺にも若い時代があったという事だ」
 ふと。
 聞いてみたくなった。最近なんとなく、そんな疑問があった。聞いたからといってどうとなるものでもないけれど。
「アーロン、てさ」
「なんだ」
 答えながら、アーロンは再び指を潜り込ませた。腫れたようにかすかな痛みと痺れを感じる後口は、まだ快感らしいものは生まれていない。気持ちイイところがあるって聞いたのにな、とティーダは自分の感覚を精一杯その部分に集中した。
「もしかして、アイツとヤッた?」
 確かにアーロンは狼狽した。
「マジで!?」
「待て、俺は何も言っていない」
「だって今、指がびくってしたもん、びくって!」
「驚いただけだ。ジェクトとは寝なかった」
「ウソだー!」
「俺は、言わない事はあっても嘘は吐かん」
 う、と詰まってティーダはアーロンを見た。彼は真剣な表情でティーダの体を探っている。真面目さにかけてはこの男以上の者を見た事はない。
「……まあ、どっちでもいいけどさ」
「いいのか」
「……」
「……」
「どっちだよ!」
「際どい事はあったが、至らなかった」
 い、至るって、至らないって!?
 アーロンは困ってはいるようだったが、どこか楽しげでもあった。忌まわしい記憶では無いようだ。それはそれでティーダには気に障る。
「……おっさん同士で絡んで楽しいっすかあ?」
 精々毒付く。が、
「当時俺は色っぽいと言われる程度には若かったんだ」
 肌も綺麗だと言われた、と付け加えるアーロンは笑っている。ティーダは完敗の意を示して両手を上げた。
「……うう、想像したくないっす……」
 失礼だな、と苦笑するアーロンの顔が近い。さっきからずっと笑っているアーロンが嬉しくて、ティーダは背中に手を回してぎゅっと抱いた。
「アーロンが機嫌良いのってすごい珍しいっす……」
「悪い事も少ないが?」
「そうじゃなくてさ」
 頬を擦り付けると間違いなく男の感覚がする。ふわふわした女達とは違う、圧倒的な存在感。
「すごく、好きだ」
「ティーダ」
「あんたが好きだよ」
 アーロンの返事は無かった。その代わりに熱いものが押し当てられてティーダは目を閉じた。

 キスを交わしながら、ティーダの反応を細心の注意を払って伺っている。そんな気配がアーロンの舌から伝わる。熱さと目眩に翻弄されながらティーダは重い体を抱き締め続けた。開いているだけでも辛い足を、何度も大きな手の平が撫でて慰める。
 アーロンはあまり動かずに時間を掛けずに達した。彼の手の中にティーダが零すと、快感は少なく苦痛が先に立つセックスはあっけなく終わった。




 眠るティーダを腕に抱え、アーロンは長くその寝顔を見ていた。アーロンが離さないのではなく、ティーダがしがみ付いて離れない。しかし、もし剥がせたとしてもアーロンはそうしないだろう。
 この腕の中の愛しい子は養い子。
 アーロンはその意味を考えている。目覚めたティーダに何を言えるのか、それを考えている。
 一人寝かせて置いては帰れない。それだけが今のアーロンに分かっていることで、それは、ねだられてセックスを与える事よりも深い感情に基づいているらしい。

 その先は見えない。
 畏れているのだろう、そう知りながらも彼はただ、ブリッツ選手らしく固くなり始めた太陽の髪を撫でる。かすかに微笑む唇に小さくキスをした。




 日の昇りきった時刻、かすかな揺れが船を穏やかに支配している。
 ゆりかごの中にはまだ迷っている男と、腹を括った少年が眠っている。






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