ノックに返事をしたが扉が開かない。溜息と苦笑、ブラスカは彼のために扉に向かった。
「どうしたんだい、ジェクト」
扉の横に持たれてジェクトは拗ねた顔をしている。
「ブラスカぁ」
「情けない声を出すんじゃないよ、どうしました?」
「ウチにかえりてぇ。」
「……そう。そうだね」
「ウチに帰りてぇよーブラスカぁ」
「うん。帰ろう、連れて行くよ」
ジェクトはこくこくと頷く。
ナギ平原。遠く昔から、ナギ節を生む風逆巻く草海。
シンとの戦いは常にこの平原で行われる。それがどういうことなのか、旅を始めるまではブラスカには分からなかった。必ずシンがここに現れる理由が分からなかった。でも今は知っている。シンは、還ってくるのだ。このなつかしく哀しい場所を忘れられず、また呼ばれるのではないかというかすかな期待を胸に、還ってくるのだ。
「ブラスカ様」
アーロンが微笑して傍らに立った。
「一週間になりますね。そろそろでしょうか」
「早く来て欲しいね」
「……もう少し、ゆっくりするのもいいでしょう。長く旅をしましたから」
「ふふ、余裕だね」
「まさか」
ブラスカはアーロンの熾した火に向かう。ぱちぱちとはぜる枝、青い草が焼ける臭い、ここには静寂だけがあった。
「私は早く済ませたいと思っているんだ」
ブラスカは腰を降ろしながら静かに言う。
「もう、限界だ。これ以上保たない」
「ブラスカ様……」
ブラスカは笑い、アーロンを振り返る。赤い火に照らされたアーロンの顔は、野営のためではない疲労が濃い。
「この数年、シンのことだけを思って生きてきた。失ったものが多すぎて、いっそ忘れてしまえるのじゃないかと思うくらいだよ……」
ブラスカの横顔は儚い。幸せを感じたことがないような者に見えた。側で見守ってきたアーロンには、それが自分の妄想であると知れていて、同時にある種真実であると知っていた。
「忘れましょう、ブラスカ様」
「アーロン」
「分かってくれます、ここで止めても許してくれます」
「私を除くスピラ中が、かい?」
「……」
「私だけは許さない。永遠に自分を責める。そういう人生は、辛そうだとは思わないかい?」
「……申し訳ありません」
「いいんだ」
ブラスカの顔は熾き火の瞬きで笑っているようにも泣いているようにも見えた。
「君は、生きて行くんだよ。そしていつか復活するシンを倒して欲しい」
「また違う召喚士様を犠牲にして、ですか?」
「犠牲を出さなくてもやれるよ、君なら」
「自信がありません、一人では……」
「<無限の可能性>っていうのを信じてみようよ。私もがんばってみる。きっとジェクトもがんばる。だから君も信じて戦うんだ。今も、何年経ってもね」
「ブラスカ様……」
「それに」
ブラスカは強い風に煽られ、舞い上がった火の粉を見上げる。うっとりと立ち上がって、虚空を彷徨う赤いきらめきを追う。
「私は今、とても幸せなんだ」
「そんな」
「本当だよ。きっと、これまでこうしてシンを待った召喚士は、すべからずこんな風に幸せだったのではないかとさえ思う」
ざあっと風が渡ってブラスカの解き放った髪を弄る。金糸は焔のように巻き上がり、アーロンは足元を見る。そこは柔らかく暖かい草原の上。ゆらゆらと揺れる運命の舟の上。
「ブラスカ様は信じる通りに。俺は従うだけです」
「いい子だね」
「からかわないで下さい、俺は、」
「真面目に言ってるんです! かい?」
くすくす笑ってブラスカはアーロンを覗き込んだ。
「いい風だね。こちらに向かっているシンのしっぽが送る風かな」
「いいえ、ここは風が強い場所です」
「そんなに時間が欲しいかい?」
「もう少しだけ」
「ジェクトに会いたいくせに」
アーロンは下を向き、ブラスカは天を仰ぐ。
「会いたいです」
アーロンの、感情を殺し切れない震えた声。
「素直だねえ」
「ええ」
ブラスカは二歩、歩いてアーロンの隣に立った。
「でも、もう少し、もう少し先でいいんです」
真摯な目。黒い、黒い瞳。揺れている。
「かわいそうに。今すぐにでも抱きしめられたいと思っているんだろうに、言えないんだね」
「いいえ、いいえ。」
それはブラスカの死を望む事。
「いいんだよ。早く死んでくれ、と私に言っても」
「ブラスカ様!」
「そうだろう、そう思っているだろう。彼をあっさり祈り子にした私を責めているよねえ」
「まさか、まさかブラスカ様、」
他にどんな選択があっただろう。三人が三人とも、己の半分づつを諦め、捨てた。そしてこれからこの人は、残る半分をも、捨てる。
「いいんだよ。だってもう、ジェクトは私のものだもの」
アーロンは遠くを見た。瞬く幻光虫。
今、なんて?
「ブラスカ様?」
「君には返してあげない。もう彼は、私だけのジェクトだから」
「ブラスカ、様?」
ゆうらりと立つブラスカは笑っていた。アーロンを、嘲笑っていた。
「君には召喚士と召喚獣の絆は理解できない、体験できない。魂が結ばれている、この感覚を知ることはない。ジェクトは召喚獣となったその瞬間から、私に呼ばれることだけを夢見てたゆたっている。私がジェクト、と手を開いて呼ぶ声だけを待っている」
ブラスカはアーロンの正面に立った。柔らかく腕を組み、少し傾げる首の角度はいつもと同じ。
「どうして究極召喚獣がシンになってしまうのか、教えてあげよう。それは、呼んだ召喚士が死ぬからだ」
ブラスカはひた、と視線をアーロンに固定し、彼の狼狽を楽しんでいるようだった。
「呼ばれっぱなしで放り出されて、とても寂しいんだよ。だから<よりまし>を求める。そしてシンは、あの巨大な体の中か、遠いどこかに<よりまし>を持っているんだろうね。体が霧散した後、その<よりまし>は新たな形を求めて呼び、寂しい究極召喚獣がそれに惹き寄せられるんだよ」
ブラスカは満足そうにアーロンを見つめ、唇を笑みの形に曲げる。
「ま、そんな風に私達は心中するんだ。ジェクトはその存在で私を殺し、私は死ぬ事で人としてのジェクトを殺す。羨ましいだろう?」
言葉を亡くしてアーロンはブラスカを見ている。
「もう、ジェクトは君を見ないよ。一瞥もしない。私に呼ばれて私を殺し、またいつか私に呼ばれることを夢見てスピラを彷徨う。可哀想だから、早めにジェクトを殺してやっておくれ。頼んだからね」
「止めて下さい!」
アーロンは蒼白の面に火の粉を映して叫んだ。
「そんな風に言わなくても、俺は必ずまたここに戻って来てシンを倒します! 必ず、俺はやり遂げますから!」
「馬鹿だね、君は」
一言で切り捨てる。ブラスカの背後、星の瞬く真っ黒な空は、風の渡る草原の喪服。
「君は何回ジェクトと寝た?」
ブラスカの青い目は、スピラの真夏の海のようにきらきらと輝き、見開いてアーロンを捕らえた。
「十回? 百回? 同じ数だけ愛していると言ってもらった?」
ぞっとしてアーロンは、彼の大切な召喚士から身を引いた。
「いいなあ、羨ましいなあ。私なんて三回ぽっち寝ただけだ。それに彼はザナルカンドに帰りたくて帰りたくて、私に助けを求めていて、愛だのなんだの、そういうんじゃなかったんだ」
ブラスカはとても嬉しそうにしゃべっている。言葉が、止まらない。
「私が最初にジェクトと寝たんだよ。私なんだ、彼を慰めたのは。君達は顔を合わせばケンカばかりで。彼は私の腕の中で安らいだよ、ひと時だけ二人でザナルカンドの夢を見た。彼がどんな風に私に触り私を揺らして気持ちよくなったのか、瞬き分も逃さず覚えているよ。彼の舌の味も精液の味も、今口の中にあるように思い出せる。彼の体の傷の数、その長さや色、筋肉の太さや黒子の位置も、私が作ったものであるかのように覚えているんだ。君はどれだけ覚えている? 君はこれからも生きてゆくけれど、例えば十年後にどれだけジェクトの愛撫を覚えていられるかな。例えば彼は乳首を舐める時やペニスをしゃぶる時に、少し引っ張るようにするよねえ、そういう事を、だよ。私はすぐに死ぬから、もう決して忘れることはない。忘れないんだ。生きていく君はどうだろう。ねえ、君は若くて綺麗だ。綺麗で若い君が彼を掻っ攫って行って私の隣で堪らない目で彼を見つめて彼が妻の話をしないようになってそれを私は頬杖をついてくすくす笑って見ていて野営の時には私はいつもあっちで体を洗ってくるからとか言って君たちが抱き合う時間をあげていつも長く水につかって指先がふやけてしまって戻ってくると君の頬はいつも赤かった」
ブラスカは瞬きもせず。
「でもね。今ジェクトは私のものなんだ」
風が止み、ブラスカの金糸が雪のように肩に戻ってくる。止んだ風を追うように彼は再び虚空に目を向けた。そこに、愛しいものの姿を見たのか。
「召喚の時」
ゆっくりと囁く。
「召喚士と召喚獣は体を繋ぐんだ。毛穴まで共有するように綿密に、完璧に」
喉の存在を忘れたかのようにアーロンはただブラスカを見ている。
「素晴らしい時間だよ。君は知らないね、恍惚に浸って私達が地上に存在する時間を」
ああ、とブラスカは息を漏らす。堪え切れない悦楽を思って胸を押さえる。
「ジェクトはまっすぐ落ちてくる。私のところに。私はそれを受け止める。君は、それを、見ていたらいい。そして生きていくんだ」
いつの間にか熾き火は消えていた。辺りは星が浮かぶ深黒の闇。
「生きていきなさい。アーロン」
その刹那、ブラスカは笑っていた。幸せそうに、くすぐったそうに笑って手を広げた。予言の通り、矢のように黒い影がブラスカを目指し、一心に落ちてきた。どれほどこの時を待ったろう、ブラスカは快感に悶えるように背を反らす。影は大きな異形の男、角と剣と怒りで出来ている。それは自身より数倍巨大なシンをたった二太刀で仕留め、草原の空には溢れるシンの幻光虫の群れ。
あっけない。なんてあっけないんだ。
アーロンは壮絶に美しい景色の中、浮かぶその異形の男をただ見つめる。その視線の中で異形の男は収縮し、全身に黒い刺青を纏ったジェクトになって降りてきた。髪と目は白い。
かくて予言は全て成就した。
かすかな命を零しながら召喚士は手を差し出した。
獣はしっかりと主人を抱いた。
腕の中で最後の息を奪われて幸せな召喚士は死んだ。
その白い面をそっと草の上に横たえて獣は吠えた。
絶叫して、忽然と消えた。
傍らで魂を失って泣く男には視線一つも与えぬまま。
どんどんと荒っぽいノックが響く。
「はい? どうぞ」
ブラスカはノックに返事をしたが扉が開かない。こんな訪れ方をするのはジェクトしかいない。ブラスカの可愛いガードだ。溜息と苦笑、ブラスカは彼のために扉に向かった。
「どうしたんだい、ジェクト」
扉の横に持たれてジェクトは拗ねた顔をしている。この顔を見るのは三回目だ。
「ブラスカよお」
どしん、とぶつかってくるジェクトは扉の中にブラスカを押しやり、力一杯抱きしめてくる。
「痛いよ、痛いって」
「ブラスカぁ」
「情けない声を出すんじゃないよ、どうしました?」
どうもこうもない。ベッドに運ばれているのだから。
「ウチにかえりてぇ」
ブラスカの鎖骨の上にジェクトの額が当たる。
「……そう。そうだね」
既にもう、返したくはないけれど。
「ウチに帰りてぇよーブラスカぁ」
髪を撫でる。ブリッツ選手独特のその髪の固さ。
「うん。帰ろう、連れて行くよ」
身を寄せ合い、囁く言葉の不安。唇を貪りあってもそれが消えることはない。
「大丈夫。良くしてあげるから」
ジェクトはこくこくと頷く。頼れるものは腕の中の金糸、かそけき光。「大丈夫」その言葉がただ一つの慰め。本当はもう、帰れないとどこかで知っている。
だからもう、抱かない。これで最後。これ以上縋ったら生きていけなくなる。腕の甘さが伝える愛情と焦燥。これ以上抱いたら狂ってしまう、それくらいには愛している。だから最後。若く縋る者を側におけば正気を保てるはず。おまえを守るためにだけ。
ただ、終わりの時には刹那の迷いもなくおまえを連れて行くと誓う。
それまで、恨め。
「生きていきなさい。アーロン」
かくて予言は、成就する。
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