呼べない名前

 霧雨の夜にはあのずるい人が間近にいるようで、窓から見えるきらびやかな街がうとましい。
 眠らぬ街、眠らぬ夜。
 雨に霞みもせずに屹立するうすら寒い機械仕立てから目を逸らし、浜で見つけた青い花が机の上で長い影を纏っている様を視界に入れる。
 ずるい人、あの人はいつも俺を見透かしながら知らないふりをしていた。
 そして、なんでも見えているよ、とその目で語って俺に気付かせた。
 いつも。







 その日、ジョゼには雨が降っていた。細かい霧雨で、空気は重く奇妙に暖かかった。町並みは遠くに煙り、 静かな秋の夕刻が霧と共に流れ消えようとしていた。

「ああ、綺麗な花だね」
 あの人は宿のカウンターに飾ってある花を見て俺に笑いかけた。
「覚えているかい?」
「綺麗な花ですね」
 取り澄ました顔で答えると、ジェクトはふん、と馬鹿にして俺を見た。
「やっと田舎を脱出出来たっつーのに、わざわざひなびた宿を取りやがって」
 町外れの方が宿代が安いからだ。
「誰のせいだと、」
「あーあー、俺のせい、ぜえーんぶ俺のせい」
 だよな、カタブツ、とにやにや笑うジェクトに呆れて俺は肩を落とす。
「当たり前だ……。おまえがシパーフを、」
「何度も言うな! 分かってるっつの!」
 開き直った大人は見苦しい。俺はこんな壮年には決してならないと決意を新たにした。それが分かったものか、
「辛気臭えヤロー面なんざ見てられるかっての。俺ぁお姉ちゃんと遊んでくっからよ」
と手を上げてジェクトは宿から出て行こうとした。
「ジェクト、待って」
 なんであの人はいつも止めようとするんだろう。ジェクトの腕を取るあの人の仕草に無意味に腹が立ってしまう。
「今夜は遊んでおいで。好きなところに泊まったらいいよ」
 俺は目を剥いた。あの人は残り少ないギルからかなりの額をジェクトに渡してしまった。
「冗談じゃない!」
 ジェクトの襟首を掴もうとした俺の袖を、あの人はしっかり捕らえた。
「いいからいいから」
 ジェクトは目に見えて喜び、
「オメーはイイ奴だよ!」
とあの人の背中をばんばん叩くと、霧雨の中にすっ飛んで消えた。

「なんてことを! あなたがそうやって甘やかすから、あいつはつけ上がるんです!」
 袖を振り払って俺は怒りを表明し、
「いいんだよ」
と振り払われた手をあの人はわざとらしく擦って見せる。
「いい事なんて何もありません!」
「あのね」
 あの人は俺を見上げた。
「ジェクトは寂しいんだよ。それは私が一番よく分かっているんだ」
 もちろん君だって私の寂しさくらいは分かっているよね。
 そう言わんばかりにあの人は俯いて視線を床に落とした。
「……結局はあなたの旅、でしたね。お好きになさって下さい」
 俺はいつもの戯言には耳を貸さず、正論で自分を納得させようとそう言ったが上手くいかない。あの人がじいっと俺を見ているからだろう。
「違う」
 少しだけ真剣な青い目が俺を咎める。
「君の旅だよ。私達それぞれの旅なんだよ」
 そう優しくあの人は笑って俺をひじで小突いた。
「ねえ、嫉妬したのかい?」
「まさか!」
 俺は間髪いれずに否定したが、あの人は見透かす目で笑って、部屋に行こう、と言った。俺は隠さない溜息とともに荷物を床から拾い、あの人の後に従った。


「は?」
「だから、部屋もベッドも一つなんだって」
 あの人は大きなベッドにどぼんと飛び込んで、子供みたいに転がった。
「ジェクトは絶対遊びに行くと思ったから、初めからダブルを一つだけ取ったんだ」
「ダ、ダ、」
「ダ・ブ・ル! 知らないの?」
「知ってます! それじゃ、あの、それじゃ、」
 宿の主人は俺とこの人がダブルベッドに寝るのだと知っている!
「心配しなくていいよ」
 また、見透かした目。
「哀れっぽく、負傷して治療にお金が掛かったから貧しくて、なんて言ったら、シングル料金でダブルを用意してくれたんだよ」
 ご主人ちょっと泣いてたね、あれは、とあの人は嬉しそうに、それはもう嬉しそうに言った。
「だから大丈夫!」
「何がですかー!」
「ジェクトもいないし」
 ねえ、とあの人は笑う。イヤらしい。なんてイヤらしい笑い方。
「冗談じゃない。俺は表で寝ます!」
 ここで引いたら思う壺じゃないか。俺は荷物を手早く選り分け、テントを引っ掴むと部屋を出ようとした。
「アーロン」
 何が面白いのか、あの人はくすくすと笑って俺を呼んだ。
「私と二人っきりだと緊張するのかい?」
 答えず、しかし持ったノブを回す事も出来ずに俺は固まってしまった。何かの魔術だろうか。
「ジェクトがいなけりゃ、毎回この手を使うつもりだったんだよ」
 ねえ、それよりも、とあの人は言う。
「あの花を見たね?」
 俺は答えない。
「どうしたらいいのか、君は知っているだろう?」

 ベベルで。
 あの花はあの人と俺との秘密の合図だった。
 一年中咲き続ける風待草は、寒いベベルでも雪の間を探せば必ず見つかる美しい青だった。冬の晴れ間が雪の上に落ちているんだよ、と 同じ色の目であの人は言ったものだ。そして、寺院の回廊の特定の場所に風待草が置かれている日には。

「君は、知っているよね……?」
 あの人は手を差し出したようだった。
「……もう、忘れました」
 背中を向けたまま俺は答える。触れていないその手に引っ張られた気がした。
「本当に?」
「忘れました」
「忘れる訳がないよ」

 ねえ。
 あの人は囁く。
 ねえ、アーロン。

「あなたはずるい……」
「そうかい?」
「そうやって……俺を……」
「だって私は、アーロンが居なけりゃどうにもならないんだから」
 するする言葉が流れて俺の周りを取り囲んでいく。
「ねえ、アーロン」
 蔦のように長く柔らかいそれは、時に緩み時に締め上げて俺を離さない。苦しくてそして離して欲しくなくて、でもいつかは千切られる 柔らかい鎖。

「おいで」

 あの人の衣擦れが聞こえた。どさり、とテントを落とし、しかし俺は動けない。
「夕食、が」
「後でいいよ」
「閉まります、店、店が、」
「携帯食だってあるじゃないか」
「そんな、」
「私よりも食事が大事?」
 ふうっと腕を引かれた。足が床をうろつく。まるで水の中にいるようだ。俺よりもずっと軟い人が俺よりもずっと強い。
「私よりも大事?」

 ああ、ずるい。
 ずるい、ずるい、ずるい。
 外衣を脱いでそんな頼りない姿になって、あなたの光る茶色の髪がこんなにも纏わりつくなんて。

「ねえ、」
 倒れ込み引き脱がして、こんなのは俺の体じゃない。
「私に飽きたのかい?」
「ずるい」
「ジェクトに恋をした?」
「ずるい」
「君の小鳥のような黒い目が好きだよ」

 水の中で囁けば小さな泡は水面に上がってゆくだろう。でもここには水は無い。陳腐な台詞が渦巻いて渦巻いて渦巻いて、いつまでも滞留している。
「あなたはずるい人だ」
「あはは! 今ごろ気が付いても遅いよ!」
 霧雨のように笑う。目に見えない程小さいのに、あまりにも多いから息をも奪った。濃度の濃い水蒸気に溺れてしまいそうだ。
「もっと側においで」
「これ以上……」
「出来るよ」
 溺れる。縛られたままの俺は溺れてしまう。

「アーロン」

 睦言など何も知らなかった俺を、微笑んで自分の上に乗せた。
 あの時から、ずっと、あなたは。

「アーロン」

 溺れながら底まで沈み、舌で絡めて引き上げては息を吹き込んであなたは笑う、霧雨のように。

「アーロン」

 なんて、声、だろう。

「もっと、側に」
「います、ここに」
「どこ」
「呼んで下さい」
「アーロン」
「ここに、います」

 溺れ沈む水底は柔らかい泥。
 もう、助からない。
 だからあなたも沈んで下さいと、
 そう言っても、いいのですか。




 だるそうにあの人は寝返りを打ち、俺は隣で頭を抱えていた。
「辛気臭え面するんじゃありません」
 誰かの真似をしてあの人はくすくす笑った。
「辛気臭くもなります……。これじゃあ明日、歩けないでしょう……」
「おんぶして」
「……」
「君のせいだよ、おんぶしてね」
 誰かの真似じゃないけれど、
「そうですか、全部俺のせいですかっ!」
「そうだよ」
 あの人は責める。俺だけを。
「君の、せい、だよ!」

 声が滲む。
 流れる夜、髪が言葉が霧が、厭らしくどこまでも流れていった夜。
 俺だけが水底から水面を見た。

「あんたなんか大嫌いだ」
「私は愛しているけれど?」
「嘘ばかりだ」
「ああ、アーロン、ここにきて」
「あんたなんか知らない」
「もっともっと、罵倒していいんだよ」
 くすくすと霧が流れてもう水面も見えない。
「ここにきて、軽蔑して」







 この幻の体に確かなものなど何も無いと思っていたが、真夜中の無意味な覚醒の瞬間に唇が造ろうとする名前だけは、真実なのかもしれない。

「そんな遠くにいないで、名前を呼んで」

 俺がここで呼ぶことすら、あの人は見透かしていたのだろうか。

「ここにきて、名前を呼んで」



 ああ雨が、青い。






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