通勤電車

「見えてきたね」
 ブラスカの声に、ジェクトは一度自分の尻を確認した。右側に垂らしていた布を後ろに回し、くまちゃんには遠慮いただいている。
「一雨くる前に着けましたね」
 暗く佇むジョゼ寺院を仰ぐアーロンがほっとしたように言う。寺院の前にはぽつぽつとまばらな人影、その足元にはサルらしき動物の姿がある。すばしっこいその生き物は、ブラスカ達を見つけた途端に走って寄ってきた。
「ん? 似てるね」
 ぴらり、と布をめくってブラスカがジェクトの尻を眺めた。
「やめんかー!」
 布を奪い返して可愛らしいモノをきっちり隠し、ジェクトは大股で歩いて行った。それを追おうとしたブラスカは、妙な具合の小声に前傾姿勢で立ち止まった。
「お、おい、なんだおまえら」
 アーロンが頭の上までサルにたかられ、慌てている。
「気に入られてるね。うらやましいよ」
「いえあの、これは一体、」
「まだ少し時間がある。遊んでいるといい」
 弱り顔のアーロンを放ってブラスカは湿った地面を踏んだが、ジェクトの背中まであと一歩というところでふっと顔を上げた。
「おお!」
 前方で一人の老人が声を上げ、エボン礼を捧げる。
「あのお方が祈り子様の信を得られたようじゃ」
「ああ、あれが……」
「ありがたいことだ」
 寺院の上では奇岩が割れるように開きつつあった。寺院の中から人々が駆け出し、上空を指さしてはざわめく。
「なんだ、こいつらは! わらわら出てきやがって」
 肩をぶつけ合うほど込み合い始めた中で、ジェクトが呆れた顔で振り返っている。
「ありゃなんなんだ」
 顎で空を示す男にブラスカは小さく笑う。
「ここの名物だよ。召喚士と祈り子様が交感を果たすと、ああして岩が開くんだ。これを目当てに長期で滞在する旅人もいるそうだよ」
 まーたイノリゴか、とつまらなさそうに言いながらも、ジェクトは人々と同じように奇妙な光景を感心した顔で見上げる。
「おめえと一緒に入っちまったら見れないままだったな。ついてるぜ」
 そうだねと抑揚なく答えるブラスカを横目で窺い、ジェクトは何度か瞬きをした。これまでに何度か、厳しい局面で真剣な顔つきを見せたブラスカだったが、今見せている表情は全く別種のものだった。軽口を探し、しかし、ジェクトは僅かに顔を俯けた。
「ち、サルまで集まってきやがった」
 足元からよじ登ってくる軽い生き物を毟り取っては地面に戻す。
「何、緊張してやがる」
「いや、緊張はしていない」
 不自然なほど即答するブラスカの目は、ジェクトが慣れ親しんだザナルカンドの海のようだった。トレーニングに倦み、岩だらけの海底に四肢を広げ沈んで見上げる海面の色。陽ざしをきらめかして遠く揺れるそれは、いつも一瞬だけもう戻れない場所であるような気にさせた。
「なら、おっかねえ顔すんな。てめえらしくねえ」
 吐き捨てる声に、反射的な動きでブラスカの眉が寄る。こいつ失敗しやがった、そうジェクトは思った。
「……私らしい、か」
 駆け登ってちんまりと肩に座ったサルの尻尾をいじりながら、ブラスカは無理矢理のように唇を引き上げる。
「ここが済めば、半分が終わることになる」
「なんだ?」
「言ったろう、私の趣味。召喚獣集めだよ」
「ああ、んなこと言ってたか。そういやまだ見てねえ」
 初めて顔を合わせた地下牢を思い出し、ジェクトの腹の底がすうっと冷えた。ほんの微かなものだが、ブラスカの中で何かが変わってきている。それは小さな感情の発露だったり物を取り落としたりという他愛の無いものだが、ジェクトには『失敗』だと感じるもの。アーロンがこれを察しているのかどうかは知らない。
「その内嫌でも見ることになる。この先は、出さずには越えられない難所がいくつも控えているから」
「難所か」
「ガガゼトが手強いね。常に吹雪いている山を越えながら、魔物と戦わねばならない」
「ふん、何のために俺様がいるか分かってんのか? オメーは雪だるまでも作ってりゃいいんだよ」
「……ありがとう」
 すっと視線を合わせるブラスカにいかにも嫌そうに顔を顰めて見せ、気持ち悪ィ、とジェクトは呟いた。そして両手を広げ、背筋を伸ばした。
「テメーら道開けろ!」
 大声に、ブラスカの肩からサルが飛び降りて逃げていく。
「次の召喚士が退屈し始めてんだよ、ちょっと待ってろ、またすぐこいつがショーを開くぜ!」
 驚きながらジェクトを振り返った人々は、ブラスカのいでたちを認めて大人しく両側へと退いて行く。アーロンが丁寧に洗って形だけ繕った召喚服だが、その効果はあらたかだ。
「ありがたや、一日にお二人も召喚士様がおいでになられるとは」
 側の老婆が、そっとブラスカの長い袖を触った。
「どうぞスピラをお助け下さいまし」
 老人特有、という理由だけではない、輝いた目をブラスカに向ける老婆にブラスカは大きく頷いた。
「良きナギ節を迎えられるよう、全力を尽くすとお約束します」
 周囲の者が次々とエボン礼をブラスカに向ける。それに答えて礼を返し、ブラスカはジェクトを振り返った。
「行こう。試練の間はガードが頼りだ」
「おう」
 ブラスカの後に従うジェクトにも人々から礼が捧げられる。召喚士様をお守り下さいとかかる声に片手を上げる男の傷だらけの背を追って、もう一人のガードも駆けていく。






FF10 100のお題