トランキライザー

 ブラスカにとって妻は『絶対』である。彼女に代わる者はどこにもいない。彼女はブラスカに愛とは広がるものだと教えてくれた。彼女をたっぷりと愛しながら生まれてくれた娘にも同じだけの愛を注いだ。やがて妻がいなくなると、ブラスカは身の内から溢れるものを持て余すようになった。漏れ出るもので窒息寸前だったブラスカは、これをアーロンに与えてみるかと思った事がある。が、よく見回してみればアーロンには既に家族愛を与え続けており、もはや他の形には変換不能であった。だから少しだけ妻を恨んだ。広げるだけ広げてさっさと一人で逝ってしまうなんてずるいと。それは、笑いを誘うほどに彼女らしいやり方でもあったのだが。
 結局ブラスカは溢れるものをシンに与える事にした。安直で月並みに思えるので、実はブラスカはこの決定をあまり気に入ってはいない。しかし、シンという単語を耳にすると胸の内が熱くなるのだ。息が苦しく鼓動が速まり、時に呆け、全力で走り出したくなるのだ。あまりに憎むと恋に似るとは良く言ったものとブラスカは思う。そしてそれは、殉じるに相応しいものとも思った。


 ジェクトの胸には大きな穴が開いている。いつの時代にもジェクトの周りに人は溢れていたし、父母は良い意味で特徴の少ない当たり前の人達で友人にも恵まれていたが、その穴はいつでも大きく口を開いていた。
 彼の母は、仕事で家を開けっ放しの父の代わりに息子に頼り過ぎる、そんな人だった。その期待に充分答えられるだけの元気と機転と能天気さを持っていたジェクトはとても母を愛し、母は惜しみなく愛を注いだ。そんな中でジェクトは恋をした。まだ少年と呼ばれる年頃、情熱のままに彼女と離れたくなかった彼が一晩家を空けて戻ると、家の中は滅茶苦茶になっていた。息子の無断外泊に天地が裂けるほどの衝撃を受けた母は、床板まで剥がして息子を捜したのだった。疲れ果て泣きながら床で眠る彼女の足の裏は、裸足で徘徊したかのように泥と血で汚れていた。
 それらを見てジェクトはその必要も無いのに初恋を諦め、代わりに空洞を抱えた。彼は、なぜ自分の胸にそんな穴が空いたのか、終に考える事も理解する事もなかった。その穴には後年、母と属性を同じくする妻が住まう事になったので一層気付きにくくなったのだが、彼は考え、理解するべきだった。


 まだ少年だった頃、頭を撫でるブラスカが時折上の空であった事をアーロンは覚えている。ブラスカが自分に必要なだけの愛情を注ぎ、甘やかしてくれたのは紛れも無い事実だが、それには斑(むら)があった。力も頼る者も無い子供であったアーロンにとってブラスカという存在はある意味『神』であり、その斑は人の力では抗えない大風や日照りのように、アーロンを振り回して動揺させた。
 それは血の繋がった者の間でもよく見られる一時的な温度差に過ぎず、子供はそういった思いを繰り返し、親などとぶつかり合う事で『失望への耐性』と『目的達成のための工夫』を学ぶものだ。しかし残念ながらアーロンには、口答えを許されない上官か競い合う他人か神しかいなかった。
 成人したアーロンにはそれらは既に解決済みの過去である。二人の年齢差はたかだか十で、結婚や進退に悩んでいた若い僧官が何にもおいて他人の自分を第一に思うなど有り得なく、過剰に仰ぐ自分を疎ましく思う日もあったろうと思う事が出来る。そう思えるようになってなお、アーロンの中には取り残された子供が存在していた。基本的に手が届かず、届いても掴み所の無い存在としてブラスカは君臨し、それを心の支えと呼ぶのか傷と呼ぶのか、アーロンにはまだ分からない。





「こりゃまた……」
 雪原から戻りマカラーニャの森を再び通り抜けた南の端で、ジェクトは口を開けたまま前方を眺めた。
「凄いだろう? 見るだけなら最高の眺めだ」
「ああ最高だ! 映画みたいだって絶対ガキが喜ぶぜ! 撮れアーロン!」
 スフィアを投げつけてジェクトは雷鳴轟く雨の中へと走り出した。
「待って、ジェクト! 見るだけならって、あっ!」
 間一髪でジェクトは落雷を避けた。
「ジェクト! 避雷針の下なら落ちないからじっとして! そう、その下!」
 行こう、とブラスカが慎重に踏み出す。アーロンはぴったりとその隣りに並んで天を睨む。落雷の瞬間ブラスカを突き飛ばして守ろうという腹らしい。
 避雷針の下まで二人は駆けた。最後、アーロンはブラスカを抱えて大きく跳躍した。踏み切った泥の上に落雷が弾ける。
「ありがとうアーロン、危なかったよ」
「ガードとして当然です」
 そう言いながらアーロンは勝手にはしゃいでいるジェクトを睨む。
「貴様、ガードとしての立場を、」
「ようカタブツ、さっき俺様が雷を避けたの、撮っただろうな!」
「撮るか、馬鹿!」
「なんだと!?」
「うーん、避雷針同士の間隔は思ったより広いみたいだな……」
「貴様の指図など受けん!」
「氷の割れ目に落ちてひーひー言ってたのを引き上げてやったの、誰だと思ってんだよ!」
「足の速さには結構自信があったんだけどなあ、ぎりぎりだったなあ」
「うっ……あ、あれは、貴様が子供じみた真似をするからだ!」
「元はと言えばブラスカが雪をぶつけ始めたんだろーが! ブラスカ『様』の責任はオメーが取れ!」
「この服がいけないのか……。よし、もう一度全力疾走してみるか。ここの雷は当たってもびっくりするだけだって噂だしねー」
「……くそっ! 映せばいいんだろう、映せば!」
 はーははは、そうそう、素直になー、とジェクトが避雷針から離れた時、彼よりも先にブラスカが目の前に飛び出してスフィアを顔に当てていたアーロンはぎょっと体を強張らせた。
「ブ、ブラスカ様!」
「おー、結構速いな、って待て、オメーは俺様を撮れ!」
「馬鹿野郎! 追え、いいから追え!」
 ブラスカを追ってアーロンが全速力で走り出し、ジェクトはのんきな足取りで行く。ひょい、と雷を避けては満足そうに、どーだ! と鬨を上げるのを忌々しく背後に聞きながらアーロンはブラスカに追いついた。ぐっと引き寄せると空いた場所に落雷、ひやひやしながら手を引いて残りの距離を走った。
「やっぱりだめだったなあ、この服じゃ思うように走れないよ」
 残念そうに空に走る稲妻を眺めるブラスカを避雷針に押し付けて、アーロンはきっと顔を上げた。
「ブラスカ様! 一人で飛び出さないで下さい!」
「ごめんごめん、忙しそうだったから」
「……」
 次は言うよ、と笑うブラスカに溜息を吐くとジェクトがわめく。
「こらちゃんと映せ! この華麗な姿を!」
 うるさい、撮ればいいんだろう、とアーロンは八つ当たりも含めてスフィアを持ち上げた。しかし、雨の中で飛び跳ねるでかい髭男は魅力的な被写体とはとても思えない。果たして彼の息子が喜ぶだろうかと疑問を感じ、結局ジェクトを若干外した適当な方向にスフィアを突き出して景色を映し、首を伸ばしてブラスカを振り返った。
「このレベルのスフィアじゃ、稲光で画像がぼやけるかもしれないですね」
 返事はない。声が入らないように小さく言ったから聞こえなかったのだろうか。
「ブラスカ様?」
 妙にぼんやりと佇み背を向けたブラスカは反応しなかった。僅かに覗く表情は、どこをとも知れない方向を眺めているようにも、思考に嵌っているようにも見えた。ブラスカの背は固く、上手に走る方法を考えているとも思えずアーロンの中で様々な憶測が飛び交った。ユウナ、妻、シン、究極召喚、あらゆるブラスカの心痛を一巡し、結局アーロンは平静を装った大きな声でこう言った。
「何を見てらっしゃるのですか?」
「いや、少し考え事をね……」
 ブラスカは少しばかり頭を動かし気の無い声を出す。その予想通りの答えと振り返らないブラスカの背中にアーロンは強く不安を感じた。話している相手が上の空だというのは日常多々あるが、それがブラスカであるとアーロンは奇妙なほど不安を覚える。構って欲しがる子供のようで、いつまでも変われない自分に苦笑しようとしたが、上手く出来ずにアーロンは唇を噛んだ。
「ちゃんと映せって言ってるだろーが!」
 ジェクトは大声で呼び、ブラスカはじっとしている。アーロンは気付けばブラスカを映していた。薄青い画面の中のその人は随分と小さく見えた。
「大事な土産なんだぞ!」
 喚くジェクトに、やれやれと顔を向ける、と、画面いっぱいに白い光が溢れてアーロンは思わず目を閉じた。破壊音と同時にジェクトが一声叫んだのが聞こえた。
「大丈夫か?」
 ブラスカの声で目を開けると、スフィア越しに引っくり返ったジェクトが見えた。おーとかうーとか唸り声が聞こえる。
「撮ったかい?」
「撮りました」
 呟くブラスカに囁き返し、上機嫌でアーロンは叫んだ。
「今の様子、撮っておいたぞ!」
 やっかましい! とジェクトはむくれ、ブラスカが吹き出す。よろよろと這いながら避雷針の下に辿り着いたジェクトは泥まみれになっていた。
「笑うなー!」
「はははは! 見事な直撃だったよ! ははは!」
「くっそー、油断した……」
「すごい顔だ! 髭と泥が混然一体、ははは!」
「うるせーっつの、いつまでも笑ってんじゃねーよ!」
 怪我は無いか、と検分しながらもブラスカは笑い続け、ジェクトは顔を雨で洗っている。スフィアはいつの間にか撮り切って止まっており、アーロンは無意味にそれを手の中でひっくり返しながら思った。ジェクトがいなければ、ブラスカはここでこんなに笑いはしなかったろう。二人だけではどうにもならない事がある、ブラスカはそれを見越してジェクトを連れてきたのだろうか。
 アーロンの視線の意味を知らないブラスカは、ジェクトの周りを一周すると感心したように頷いた。
「直撃しても怪我しないって噂は本当だったんだねえ」
 むっと顔を向けたアーロンが厳しい声を作る。
「ブラスカ様、試しにわざと当たろうなんて、なさらないで下さいね!」
「……分かってるよ?」
「……」
「それじゃあ、公司までがんばって行こう。ジェクトももう、大人しく避雷針伝いで走ってくれるよね?」
 おう、と仕方なさそうに返事をするジェクトの前で、ブラスカは笑みの形に目を細めている。それを見てアーロンの口角が上がる。

 過酷な痙攣が麻痺に進行するように、二人の感情は時に溢れて静寂を生む。先ほど二人の間に張り詰めていた、見とれるほどの緊張感は失せていた。理由は知らないが、自分の中に敏感に響くそれが今は無いと確認を済ませ、ジェクトはほっと息を吐き出した。そして、先行くぞ、と言い捨てると一番近い避雷針を目指して真っ直ぐに走り出した。
「止めないのかい?」
「雷は、より速く移動する物体に落ちるそうですから」
「ほう、それは知らなかった」
 にっと笑って目を合わし、二人も駆け出した。ジェクトに遅れないように、追いつかないように。






FF10 100のお題