荒野

 真夜中に目を覚ました。ティーダが泣いているらしい。天井越し、小さな子供故の高い泣き声が微かに漏れていた。
 切々と流れるかなしみ。冷たくなる季節の風が船を揺らし、その刺すような温度の中にひと際鮮やかにかなしみが混じる。昼間は、手入れしてくれる者のないままに伸ばした前髪で充血した目を隠し、誰彼となく睨みつけて、手を出そうものなら噛み付かれる事必至。そんな凶暴なディーダは夜、美しい程にあどけなく、ただ純粋に失ったものを嘆く一個のかなしみだった。



 母親が死んで約一ケ月。ティーダは毎晩のように泣いていた。それを聞くたびにアーロンは目を覚ましては天井を見上げるが、一度も様子を見に行ったことはない。側に行ったとしても色々な物を投げつけられ、一層嫌われるだけだと簡単に予想出来たからだ。
 アーロンは今、用心棒として雇われて、ティーダを守っている。『ジェクトの息子』を目当てに群がる、あるのか無いのか分からないような血縁を振りかざす大人達からティーダを守り、両親の権利を引き継がせる。そのためにアーロンは船倉に位置する部屋に住んでいた。それがティーダの母親の遺言だった。
 当のティーダは、アーロンが自分の船に住む事に納得はしていない。亡くなる直前の母親から、しばらくアーロンと暮らしなさい、と言いつけられたために渋々承知したが、本当は自分を早く追い出してしまいたくて仕方がないらしい。

 無理もないな。

 誰のせいでもない家族の悲劇。
 妻は夫を愛し、子は母を愛した。極単純な図式のはずが、いつからもつれてしまったのか。

 妻は、夫に夢中だった。家族を次々と失いながら過ごした子供時代の思い出が、妻を夫に深く依存させた。父のように強く、母のように守り、兄弟のように励ましてくれる、そして、なにより夫として愛してくれる男に彼女は全てを捧げた。男は大雑把な割に敏感で、何もかもを差し出して懇願する妻に完璧に答えた。
 二人の唯一の誤算は、彼女が望むようには側にいてやれなくなるほど彼が強くなってしまった事だ。
 夫が家を空ける時には、執拗なまでに妻はスフィアの中に愛する姿を追い求めた。子まで成し完全に手に入れた男、しかし、妻は慢性的な飢餓状態だった。決して子を愛さなかった訳ではないが、妻の飢えは夫だけが満たす事が出来る、そのような性質のものだった。妻は飢え、夫は与え、そして、子が忘れられたのだ。
 また、男には欠けたものがあった。男自身に父親の影が薄く、子を持った時に周囲に手本がいなかった。彼は彼なりに子を愛したが、それは若干いびつなもので、後輩を指導するそれに近かった。チームメイトにちらほらと子が出来、その愛情を目にするようになって己の誤りに気が付いた時には、息子の心は男から遠く離れていた。自らのプライドや夢や愛情に振り回されている盛りの獣のような男が巻き起こす渦に、幼い子が適応出来る道理は無かった。
 男は若く、子供は幼かった。時間さえあれば解決出来たのかもしれない。だが、男はあっけなく海に消えた。

 彼女ら一家の抱える深刻な病巣をアーロンは知った。しかし、これまた家族に縁の薄い二十五才の若造には母子の関係を正常化してやる事など、月を捕まえろ、と言われるようなもの、ただ、二人が苦しみながら別れて行く様を唇を噛んで見守るしか出来なかった。

 そして、ティーダにとってアーロンは、完全な邪魔者だった。父が消え、寝込みがちになった母にこの時とばかりにべったりと付き添っていたティーダは、ある意味幸せだったのだ。
 そこに突然降って沸いたアーロンに対して母は当然、子を守るために最大限に警戒した。しかし彼女はすぐに、アーロンの持つ『夫の名残』に負けた。
 アーロンもまた、死にゆく女が夫の話をねだる姿に勝てなかった。話せない事は多く、話してはならない事も多かったが、妻と子を懐かしがり、必ず戻ると今でも奮闘し続けている(それは嘘でもあり、真実でもあったが)男の話を、アーロンは精一杯語った。
 結果として、母子の最期の時を削ってしまった感は否めない。しかし、いつか必ず夫が帰ると信じたまま女を死なせてやれた事は、飢えきった彼女にとっての慰めだったと思えるのだ。

 その代償が、大いなる嫌悪。

 この一ケ月、アーロンは一切の言葉をティーダからもらっていない。慣れない台所で作る食事はおそまつなもの、元よりアーロンの作ったものなど投げつけて暴れる小台風のようなティーダには、小銭を与えて買い食いさせるしかない。風呂などもっといい加減、ティーダは薄汚れて目ばかりをぎらぎらを光らせる獣の子になった。

 天井を見つめる。
 密やかなかなしみは少しずつ弱まって消えた。ずっしりと濡れた枕に顔を埋めて気を失うように眠るティーダを思う。と。

 ……なんだ?

 小さな悲鳴が聞こえたような気がした。それは、船の軋みに掻き消える程の弱々しさだったが、充分な切実さがあった。

 きゃあ。

 もう一度聞こえた時には、アーロンは慣れ親しんだ大刀を引っ掴んで階段を猛烈な勢いで駆け上がっていた。その勢いのままティーダの部屋の前に立ったものの、ティーダの瞳を思い出して躊躇した。

 きゃああ。

 ノブを掴んだ。開かない。

 おかあさん、たすけて。

 その瞬間アーロンは大刀を振り上げると、どかん、と破壊音を立ててドアを二つに裂いた。割れた所を蹴破ると足先に何かが触れる。構わずそれらも蹴散らし、部屋に入った。椅子やら衣装ケースやら、子供が動かせるあらゆるもので作られたバリケードを突破すると、ベッドの上に起き上がって茫然とアーロンを見上げるティーダに怒鳴る。
「どうした!? 魔物か!?」
「……」
「怪我は無いか!?」
「……」
「黙っていては分からん、痛いところはあるのか!?」
「……」
 言いながら、アーロンは手早くティーダを裏返しまた座らせ、指を握らせて開かせ、立たせて歩かせる。ティーダは常になく大人しく、アーロンのするままになっている。ティーダの髪の中まで検分し、アーロンはようやく息を吐いた。
「無事か……」
 続いて部屋の中を隅々まで確認する。クローゼットもタンスの引き出しも開け、何もかもを曝けて窓のカギもチェックした。
「何もないぞ、どうしたんだ」
「……」
「……無事ならいいが」
 相変わらず無言のティーダの顔をアーロンは見つめた。月明かりのせいか、子供の顔は疲れきった老人ように沈み、責めるようにアーロンを見つめていた。
「何かあったら呼べ。必ず来る」
 そう告げるとアーロンは背を向けた。ガラクタを乗り越え、割れたドアをくぐって部屋を出る。そして、廊下にどっかりと腰を降ろすと壁に背をもたせかけた。ティーダに何らかの危険があってしかもドアを壊してしまった以上、夜警の必要があると判断したからだ。
 部屋の中で、ティーダはしばらくごそごそと音を立てていた。そして、たた、と軽く走って廊下を覗き、アーロンが居座っている様を見てとてつもなく嫌そうな顔をした。しかし、それ以上は何もせずにまた部屋に戻り、それからは静かになった。



 太陽が山際から顔を出す時間、寝ずの番のつもりがアーロンは少々うつらうつらとしていた。次第に光を増す朝の気配、慣れ親しんだ夜警が明ける、その安堵感を思い出しながら強いて言えば幸せな気持ちでアーロンは目を細めた。
 その時、側に気配を感じた。
「なんだ!?」
 ばっと顔を上げて即時に剣を構えたが、小さい影がぎょっと身を引いたのを見て降ろす。
「……おまえか」
「……してよ」
「うん?」
 もぞもぞと足を擦り合わせ、子供独特の戸惑いを見せながら、ティーダはとても小さな声で言った。
「……へや、直してよ」
 アーロンは剣を置いて立ち上がった。ティーダが指を指して示した子供部屋は、朝の光の元に無残な姿を見せていた。ドアは板切れに成り果て木っ端が飛び散り、アーロンが踏み割った衣装ケースや分解した椅子などがばらばらと床に落ちている。元々ティーダが散らかした物の上にアーロンが破壊した物どもが散らばり、台風一過、とでも言おうか。
「……やりすぎたか」
「直してよ! ちゃんと、きれいにして!」 
 下の方から甲高く抗議が上がる。
「分かった。どうにかしよう」
「……あ、これ、われてる」
 玩具らしい、鳥の形をした軽いプラスチックの塊を手にしてティーダががっかりとした声を出した。首辺りに亀裂が走ったそれを、ティーダは何度か撫でた。しゃがみ、アーロンはそれを受け取って溜息を吐く。
「……悪かった。おまえが何かに襲われていると思ったんでな。手段を選んでいる余裕は無かった」
「なにもなかったもん!」
「しかし、悲鳴が聞こえたぞ」
「……ゆめをみただけだもん……」
「ゆめ、か。怖い夢か?」
 ぷい、とティーダは横を向いた。手の中の破損物に困ったアーロンは、ふと思いついて散らばった物の中から小さな紙箱を摘み上げた。常備品だ、と母親に聞いたので、ティーダに買い与えてあったものだ。多分使用方法はあっているだろう。
「こうすればいい」
 小鳥の置物の首にアーロンはバンドエイドを貼った。
「:……ばかじゃないの」
 ティーダは睨むようにしてアーロンを見上げた。
「そんなことしても、なおらないよ!」 
 言って、ぽーんとその小鳥をベッドに投げてしまう。頭を手をやってアーロンは立ち上がり、ティーダの肩を押して部屋の外に向かって押した。
「ともかく片付ける。危ないからおまえは出ていろ」
「かってにさわっちゃだめ! オレがいうようにしないとだめ!」

 一人前に『オレ』か。

 苦笑し、分かった、言う通りにする、とアーロンは頷く。起き抜けのパジャマ姿では本当に危ないので、ティーダに服と靴を着けるように言って階下の倉庫に行き、掃除道具やゴミ袋といった物を抱えて戻った。
 そして、部屋の前でしばし立ち尽くした。



 ティーダは薄汚れた服を着て部屋の真ん中に立っていた。母親が最後に選び、着るように言ったその服を頑なに着続けているのだ。
 混乱を極めた部屋に小さく佇むその背中は、戦場を前に巨大な敵を予感して震える戦士のようだった。
「ティーダ」
 アーロンは、出来るだけ穏やかな声を出した。ティーダはまた泣いていたらしく、ぐいっと腕で顔を擦って背を向けたままだ。
「やりたいようにやってみろ。俺はいつでもここにいる」
 ぽん、と頭に手を置いた。ティーダはそれを振り払わなかった。



 あらゆるかなしみの潜む荒野。
 今そこに、戦士が二人、並んで立った。






FF10 100のお題