クレヨン

 アーロンは、ザナルカンド・エイブス・ファンクラブの入会手続書の記入の仕方が分からないと言った。だからティーダがそれを書くことになった。
 ジュニアからシニアと、ティーンズチームを順調に駆け上がり、とうとうティーダは正式な選手に登録される事になっていた。そのような選手に青田狩りよろしく目を付けるファンを目当てに、大抵デビュー前に取り巻きの登録は完了するのだ。
 そもそも、そんなものに入会する気はアーロンにはさらさら無かった。ティーダがノルマだの人気のバロメーターだの言ってねだるので断るのも面倒になったのだ。いつもの「好きにすればいい」という台詞で事を納めただけである。

 筆圧が高いな。

 ティーダはボールペンを快調に走らせている。テーブルに屈み込み、立ったままどんどん書いていく。横から覗くとティーダは微笑むような表情をしていた。
 ふとアーロンの目に、思春期真っ只中の扱い難い少年が、どういう訳だか子供に映った。自分の胸辺りにも届かない、小さな子供。
 なぜだろう、とアーロンは眉を寄せ、一歩離れてティーダを眺める。ティーダはアーロンの住所を書き終わり、会費納入方法を選択している。真剣なのか、きゅ、と結んだ唇は白っぽく、しかし、両端が上がって猫のようだ。

「んーアーロン、口座って持ってたっけ?」
「余計な荷物は持たん主義だ」
「あー、口座がなんだか、知らないっすね?」
「……」
 常にキャッシュで買い物をするアーロンに以前からティーダは疑いを抱いていた。これですっきりした、と清々しくティーダは笑った。
「じゃー、俺の口座から引き落とすからね」
「危険では無いだろうな?」
「とっても安全でーす!」

 やれやれ、とティーダは記入を終える。からかっても良いネタだが、ティーダはそうしなかった。口座の開き方など下手に教えればアーロンの事、自分のために貯金を始めそうな気がするからだ。来年度の本契約が決まったのだから、もうすぐがっぽり契約金が手に入る、と何度も言っているのに理解が難しいらしく、節約だの美徳だの煩い事この上ないおっさんだ。ティーダはちら、とアーロンを斜めに見上げた。
「クレヨン」
 突然アーロンが言った。
「は?」
「だから、クレヨン、だ。そうか、そんな事もあったな」
 さっぱり分からずティーダは眉を上げる。アーロンは、したり、と頷くとキッチンに行ってしまった。

 買ってきたばかりのコーヒーの袋を開け、アーロンはふっと表情を緩めた。かつて忌み嫌った機械に復讐とばかりに囲まれたザナルカンドの生活の中、数少ない『気に入り』がコーヒーだ。挽き立ての豆の匂いは馥郁と鼻腔をくすぐる。これに似た匂いの香がベベルの寺院にもあった。ブラスカが好んでよく焚いた。
 ここに来て最初に使い方を覚えたコーヒーメーカーに粉を放り込み、水をセットする。ティーダは必ず二杯欲しがるから三杯分だ。ぴたぴたと、高い音でガラスの容器に落ちて行く美しい液体を眺め香りを楽しみながら、アーロンは、ふ、と笑った。





 ぐりぐりと。
 大きな紙に向かって真剣に、しかし笑う表情でティーダは絵を描いた。一生懸命に赤いクレヨンを握り、減らしていく。

「あー、赤、なくなりそう」
「そればかり使うからだ。赤いのは服だけだぞ」
「もー、動かないでって! アーロンはかきにくいんだから!」
「……おまえの絵が下手なのは俺のせいなのか?」
「だまって!」

 ティーダの街にやって来て二年目の春だった。画用紙を片手に学校から帰宅したティーダは、様子を見に来ていたアーロンをソファに座らせた。一時間動くな、と言われたが、ティーダは既にたっぷり二時間はクレヨンを動かしている。
 普段からティーダは筆圧が高い。あまり手先が器用ではないからだ。持つものがペンからクレヨンに変わっても筆圧はそのままで、いつ折れるかとアーロンは心配しながら同じ姿勢を続けている。

「……出来たか?」
「もうちょっと!」
「……分かった」

 まだ慣れない機械だらけのキッチンと夕食の支度を思いながら、アーロンは控えめに溜息を吐いた。
 ティーダは隠すように画板を立てて描いているから、アーロンから絵は見えない。血塗れたような姿の自分を想像し、アーロンは苦笑した。ティーダは真剣で少し腹を立てていて(思うように描けないからだろう)、そして猫の子のような微笑む表情だ。やっと青いクレヨンに持ち替える。
 アーロンの知るブリッツ王もよくそんな顔をしたものだ。魔物に対峙する時、怯えていようとも彼の表情は微笑みに似ていた。それが強がりなのか生まれつきなのか、当時アーロンは判別出来なかったが、今は後者なのだろうと思っている。この切ない親子は似ていないようでよく似ていた。

「できた!」
 悔恨と郷愁に気を取られていたアーロンは、その声に驚いたように顔を上げた。見ればティーダは画用紙を画板ごと両手で天井に掲げ、仕上がりを見ている。
「どんなになったか見せてみろ」
「ぜーったいヤダ!」
「……やり遂げる事が大事なんだ。多少上手くいかなくとも、」
「上手くかけたもん!」
「だったら、」
「ヤーダ! アーロンにだけは見せない!」
 ティーダは素早く立ち上がるとアーロンの伸ばした指先から転がるように逃げ、絵を抱えて自分の部屋に入ってしまった。全く、誰がモデルをやったと思っているんだと愚痴を零しながらアーロンはキッチンに向かい、まずは自分のためにコーヒーを入れた。





 あの時も、今のように落ちて行くコーヒーを眺めた。
 どうにも懐いてくれないティーダが自分の絵を描いた事が嬉しく、しかし見せてくれなかった事が残念だった。今回も似たようなものだ。ティーダがブリッツの才能を伸ばして人気が出るのは嬉しい。そして、大人になっていくティーダを見るにつけ、近づいている運命の日を思って胸が締まる。
 もう少しだけ待ってくれ。せめてデビュー戦までは。
 祈りに近い思いを強く浮かべる。きっとジェクトは聞き、彼もまた同じ気持ちになるはずだと信じる。天辺からの眺めを見せてやりたいと言っていた男ならば、きっと。



「なーなー、アーロン」
 軽く駆けて来て、ティーダは自分のカップをぐいっと差し出した。ドリップは終了していた。アーロンは何事も無かった顔でティーダのカップにコーヒーを注ぎ、自分のカップにも入れようとした。
「これ、覚えてるっすか?」
 なんだ、と言ってアーロンは体を固めた。真っ赤な画用紙が目の前に突き出された。
 画用紙の真ん中に、はみ出さんばかりに大きく描かれた赤い服の男の上半身。髪はギザギザ、目(というよりサングラスだが)は吊り上がってよく見るとちゃんと傷も付いている。人相風体ともにろくな者ではないと、つたない線からもはっきりと伝わる絵だった。
「こ、零れる!」
 腕を取られ、アーロンは急いでガラス容器を立てた。そして思わず低く笑う。確かにこれでは見せられまい。
「なーに笑ってんすか」
「なんでもない」
「確かにコレ、笑っちゃうけどさー」
「……よく、残していたな」
「俺、物持ちいいの」
 ティーダは絵をしげしげと眺め、へったくそーと自分に悪態をついた。そして絵を放り出すと代りにコーヒーを持ってリビングに戻って行った。
「おい、どうするんだこれは……」
 ぴらり、と絵を裏返してアーロンは言葉を止めた。絵の裏には青いクレヨンで、ティーダの名前と絵の題名らしき文句が書かれていた。
 アーロンはその絵をそっと冷蔵庫の上に載せると、やはりコーヒーを片手にリビングに向かった。ティーダはだらしなく絨毯の上に寝そべってスフィアテレビの映像を見ている。ティーダの練習試合のようで、ファンの女の子達の声援が耳をつんざく。

「どうしてあの絵を思い出したんだ?」
「さっき、クレヨンって言ったからさ、あんたの顔、クレヨンで描いた事があったなーって思い出した」
「……そうか」
「わっるい顔してたっすね、アーロン」
「……」
「俺が八つかそこらの絵だろ、そんなガキがあんなチンピラ、普通は描かないって!」
「……悪かったな、チンピラで」
「今は違うんだからいいじゃん」

 ぼくのかぞく。

 絵の裏にはそう書かれていた。あの時ティーダは絵では無く、『絵の裏』を見られたくなかったのだろう。
 天井に漂っては消えて行くコーヒーの湯気と香りに、アーロンは目を細めて密かに笑った。

 悪いなジェクト。遠くの親より近くのチンピラ、という事だ。

 騒がしいスフィアの音に紛れ、ちっくしょー、俺様のガキだぜ、と、懐かしい声が聞こえたような気がして、アーロンの笑みは苦笑になった。






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