九日目

 雪雲に覆われた重い灰色の空から、予想に反して雨が落ちてきた。氷雨に鳥肌を立てながらジェクトは舌打ちをし、ブラスカを振り返った。
「とりあえず雨宿りしねえか?」
 雨は勢いを増すばかりでブラスカの召喚服は色を変えている。彼は頭から雫を滴らせて頷き、
「仕方ないね。止んでからアーロンを探そう」
とジェクトに前方を指差した。木が密生して黒く見える部分を目指して二人は走り出した。

 べべルを経ってから一週間余り、早々にマカラーニャ寺院での対面を済ませたブラスカ達は、まだマカラーニャの森の南部に留まっていた。依然としてジェクトを受け入れようとはしないものの、彼を鍛えねばブラスカの安全に関わると 判断したアーロンが、「戦術指導」を提案したためだ。当面は使いものにならないだろうと鼻息荒い教師を余所に、生来の器用さかブリッツ選手として鍛えた体であるためか、数日もするとジェクトは 剣の扱いに慣れ、戦闘のコツも掴んだ。鬼教師もしぶしぶながら認めざるを得なくなり、そろそろ旅の速度を上げようかと話していたその矢先、ジェクトとブラスカは二人して道に迷っている。

「せっかく俺様の実力ってモンを見せつけたところだってのによ、こんなんじゃまーた、がみがみ言われるぜ」
「今回は私も一緒に怒られてあげますよ」
「なにぃ!? おめえが最初にふらふらしたんじゃねーか!」
 虹のように様々に色を変える羽を持った蝶を発見し、魔物なのか神獣の一種なのかと議論していたジェクトとブラスカは、気が付けばそれまで通ってこなかった場所に飛ばされていた。やっぱり魔物に近いのかな、などと話しながら始めはのんきに道を探していたが、降りだした雨に闇雲に走ったせいでもう自分達がどこにいるのか、全く分からなくなっている。
 道はところどころに雪を見せてぬかるみ、幻光虫の心細げな瞬きが雪と木立に反射する青白い場所だった。 木々は枝を絡ませ合って頭上の空はほとんど見えないが、どこからともなく冷たい雨が漏れ落ちてくる。冷えた体に張り付く召喚服に体を固めながらブラスカは首を廻らした。
「ジェクト、あれは洞穴かな?」
 ブラスカの視線を追ってジェクトは暗い岩陰に目をすがめる。
「そうみてえだな。行こうぜ、こりゃ堪んねえや」
 とっとと先を行くジェクトを追って、ブラスカも重い服の裾を引き上げながら走った。

 その穴は岩盤の狭間で、雨宿りには充分の広さだった。
「あまり奥行きはないね。魔物の住処じゃなけりゃいいけど」
 被り物を取って頭を振り、ブラスカは下草に覆われた地面を観察する。魔物の羽や毛は見当たらない。
「火を熾せば大丈夫だろ、燃やすもん取ってくるわ」
 私も、と腰を上げるブラスカを押し留めてジェクトは身軽に走って行き、間もなく両手一杯に枯れ枝を持って戻ってきた。
「沢山拾ってきたねえ」
「ま、当分はもつだろ」
 がらがらと洞窟の隅に枯れ枝を積み、その側に枝を組む。ブラスカのファイアで強制的に燃やされた湿った枝は、黄色っぽい煙でひとしきり二人を咳き込ませた後に 安定して燃え始めた。濡れた装備を岩肌に貼り付けるようにして広げ、アンダーウエアのブラスカは荷物を探った。
「残念だけど着替えはアーロンの荷物に入っているみたいだ。これしかないよ」
 彼が引っ張り出したのは、何にでも使える、と言えば聞こえはいいが、実際は何でも無いただの布が二枚。下草が生えているとはいえ固く冷える岩盤の上、 一枚は敷き布にした。
「オメーは全部脱いでこれ巻いとけよ」
 早速寝転んだジェクトは残った一枚をぶらぶら振った。
「悪いね、寒くないかい?」
「俺様はこんくらいじゃどってこたあねえ。この上オメーが熱でも出したらあのカタブツに殺されっからよ」
「……アーロン、大丈夫かな。とんでもない魔物に襲われてなきゃいいけど」
 太陽は傾きつつあるらしかった。雨に降り込められても仄かに昼間の気配だった森は、そろそろと夜に向かって闇を伸ばしている。
「ヘーキ、ヘーキ、この森のバケモンはあらかた、あいつのスピードにゃ着いていけねーよ。どっかでじっとしてりゃあそうそう出会うもんでもねえし」
 早くも魔物の習性を把握しているらしいジェクトに、ブラスカは感心の視線を送った。
「さすがだねえ。指導優先で戦ってばかりだったのに」
「あー? なんとなく分かるもんだろ」
「騒げば標的になるってことさえ、意外と皆知らないものだよ」
「まあアレだな、俺様は天才だからな!」
 気を良くすると必ず出る決め言葉に笑い、ブラスカはシャツのボタンを外した。岩の割れ目に枝を挟み込み、ずっしり濡れたシャツをぶら下げる。腰紐を外していると、両手を枕に足を組んで寝転ぶジェクトの視線が纏わりついた。
「なんだかものすごく見られている気がするけど?」
「結構鍛えてあるな。もっと骨っぽいかと思ったぜ。りっぱな傷もあるしよ」
 ジェクトの言葉にブラスカは背を向けたまま笑った。ブラスカの背中に残る三本の大きな傷は、若く無茶だった時代の名残だ。
「杖を上手く使うためには多少の鍛錬が必要だからね。召喚は体力を使うものだし」
「そーみたいだな。背筋がちゃんと出来てる。もうちっと腹筋がありゃー、飛距離が伸びるぜ」
「コーチ、杖も召喚獣も投げるものじゃありません」
「そりゃそーだ」
 大きな欠伸をしてジェクトはごろり、と寝返った。気になる視線が外れてその隙にするりと緩いズボンを脱ぎ、布を纏るとブラスカは火の側に寄った。思った以上にしんしんと肌が冷え、濡れた髪が背中を冷やしている。やっぱり切ろうかな、と 僧官時代から伸ばしている髪を纏め、手近のつる草を千切って適当に結わえた。火はまだ小さく、かざしている指先ばかりが暖かい。ぶる、と一つ震えてブラスカは胸の前で布を掻き合わせた。

「おい、こっち来い」
 何、と振り返るとジェクトはブリッツ用のトレーニングパンツをすぱん、と脱ぐところ、続いて布を引っ張ってブラスカごと引き倒した。有無を言わさず腕を引かれて押さえつけられ、ブラスカは本能的に怯えて体を丸めた。
「ジ、ジェクト!?」
「おーら、俺様がダッコしてやる」
「エエッ!?」
「誤解すんなっつの!! 人肌だって、ヒートーハーダッ! んな震えてっと気になって仕方ねえ」
「いや、あの、ジェクト、」
「なんだ、すげー冷てえぞ、おい!」
 ぶつぶつ言いながら、ジェクトは腕の中にブラスカを引き込みがっちり抱く。互いの顔があまりに近く、半ば照れ隠しに笑いながら、ブラスカはごそごそと自分の居場所を探した。
「……なんかイヤ……」
「俺様の温もりが気に入らねーってのか!」
「毛ズネがね……」
「うっせー! じっとしてろ!」
 片腕を枕にして横臥するジェクトの首に額を押し付けられる。布が引き上げられて、ブラスカは鼻の上まで埋まった。
「ちっとはあったかいだろ?」
「おかげさまで」
 ジェクトの体は熱く心地良かった。体温で温もった空気を孕む空間に収まると冷えていた足先がじんわりと解け、痛いくらいの痺れがやってきた。今日一日の疲れがどっと思い出されるようで、ブラスカは大人しくジェクトに頼ることにした。
「いつもこんなに体温が高いと暑いんじゃないかい?」
「まーな。でもブリッツ選手っつーのは冷えが大敵だからな。体が動かねえよりずっとマシなんだ」
「じゃあラッキーな体質なんだね」
「そういうこと。俺様は天才の上にツイてるから無敵のスターって訳だ」
「ふふ、言うねえ……」
「なんだ、眠そうだな」
 ブラスカの瞼が閉じかけているのに気が付いてジェクトは笑い含みで言った。
「朝から引っ張り廻しちまったしな。食うもんもねえことだし、ちっと眠れ」
「悪いね……」
 それでも少しの間、ブラスカは睡魔と闘っているようだった。 きっとアーロンの事でも心配しているんだろうとジェクトは笑い、やがて聞こえてきた規則正しい寝息にまた笑う。これ以上ない程の丸腰で、出会って僅かの男に全幅の信頼をおく姿は子供と変わらない。 そのせいなのか、幸せそうな寝顔を見ていると故郷に残した息子を思い出した。物心つく前までは、こんな風に腕に抱いて眠ったものだ。いつから、天敵を見るような目で睨まれるようになったのだろう。
「帰らねーとな……」
 呟くひとりごとに、そうだね、とブラスカが寝言で答えた。



 暖かいものが手の中にある。柔らかくて壊れやすいもの。ふにゃふにゃと動いて取り落としそうになり、ジェクトの心臓が止まりかけた。手の中の軟くぬくいもの、それをジェクトは洗っていた。柔らかくてきめの細かい布で丁寧に洗っていた。
 暖かい水をさらさらとかけると、耳に水を入れたらだめよ、と妻が隣で言う。わかってら、と答える。ちゃんと頭を支えて。分かってるっつの。小さなたらいにお湯をはり、ジェクトは一生懸命、信じられないくらい真剣に乳飲み子を洗っていた。
 何もかもがまっさらで美しい赤ん坊が、文句を言うように身を捩ってほんの少し傾けば、さっと妻の白く細い手が支える。二人、心配性だと顔を見合わせて笑う。小さな小さな足の指に透明な爪がちゃんと生えている事を発見してジェクトは覗き込み、ふくふくした 足の裏をくすぐった。赤ん坊は不満そうに、奇跡のような小さく完璧な口をあどけなく開いた。そして可愛らしい音がした。

「触ってんじゃないよ、くそオヤジ」



 びく、と体を震わせてジェクトは覚醒した。無様なほど鼓動が早い。目を瞑ったまま今の夢を反芻していると、今の振動で目を覚ましたらしいブラスカがそっと起き上がって、ジェクトの肩まで布を被せて離れて行った。悪い夢を見て飛び起きたなんて情けねえや、 とジェクトは目を閉じたまま動かずにいたが、奇妙に汗ばんで眠れそうになかった。
 洞窟の中は火が落ち、薄青い闇の中でブラスカの姿は朧だった。元々暗い森だが、昼間と夜では気配が違う。真夜中らしいな、と目をこらせば、 ブラスカは枯れ枝を集めて手をかざしているところだった。呟くような詠唱の後、ぽ、と音を立てて火がつき、炎の発する薄赤い光の中で影と火陰をまとってブラスカは背を見せていた。傷を乗せた背骨がすべらかに動き、ブラスカは手を伸ばして掛けておいた アンダーウエアに触れた。まだ濡れているらしく、少し首を傾げて諦めると更に幾つかの枝を火に放り込み、ひとつ、くしゃみをした。そして這って行って、律儀に最初にジェクトがしたようにまだ湿っている枝を火の周りに置く。またくしゃみが聞こえるが 彼はジェクトから身一つ分離れ、火の前でじっとしている。洞窟の中を仄かに暖めるくらいの小さな火、素裸では寒さを感じないはずはないだろうが、ブラスカは長く動かなかった。

 静けさの余り、自分の孤独が洞窟内にこだまするように思える。ジェクトは自分の手を見た。さっきみた夢がまだ生々しくそこに残っていた。柔らかくて美しい生き物の記憶がなつかしく自分を責める。
 有り得ない夢だった。ティーダはあんなことを言わない。口をきくのがもったいない、と言わんばかりに涙の溜まった目でねめつけるばかりなのだ。その視線を受ける度、おまえなんかいらない、 と吐き捨てられている気がしていたが。
後数年もすれば本当にあんな言葉を投げつけられるかもしれない。そうなれば平静でいられる自信は全くなかった。しかし、側に居て暮らす内に分かることもあるだろうと、ジェクトは何もしなかった。絆を紡ぐための努力を怠ったのだと思う。こんな別離など、考えもしなかったのだから。
 もしこのまま。
 考えたくもないことが脳裏を過ぎってジェクトはぎゅ、と拳を握った。このまま自分が帰らなければあれはどうなるだろう。二度と会えないなら死別も同じ、妻はジェクト無しで生きられる女ではない。勝手に生きて勝手に消えた父親が母親まで連れていくとなれば、 ティーダは睨む相手も無しに一体どうやって生きるだろう。どれほど泣くのだろう。

「ユウナ」
 不意にブラスカがぽつり、と漏らしてジェクトは顔を上げた。狭い洞窟に響いた自分の思いが、ブラスカを通して跳ね返ってきたような気がした。小さな声は大きく反響して、ブラスカは少し笑ったようだった。想いを振り切るように彼は軽く首を振り、 頭上の岩盤を見上げた。
 髪先を触ってぼんやりとしているブラスカは随分と寂しげだった。出会って僅かの後に受け入れられたことで、むしろジェクトはブラスカを何を考えているか分からない男だとどこか胡散臭く思っていた。しかし、 八日間という短時間ではあったが片時も離れず過ごす内、この男は想像を絶するほどにただ単純な人間なのかもしれないと考えるようになっていた。妻を愛し、娘を愛し、二人のためにシンを倒す。その大目標を掲げているから瑣末なことは 気にならないだけなのかもしれないと。ジェクトが何者でどこから来て何を考えていても、そんな事は大した問題ではないのだろう。

 ゆらゆらと炎が瞬けばブラスカの体も薄赤く輝いた。アーロンのそれと並べたならば頼りないかもしれないが、女のような掴み所の無さは感じられない。ブラスカは赤々と燃える火の前で、結わえた髪を気にして後頭部に手を当てた。 すると、髪を束ねたつる草は、指が触れた途端に乾いた小さな音を立てて切れた。ばさり、と髪が落ち躍って毛先が火に入りそうになり、ブラスカは慌てて後退った。
 綺麗なうなじだ。
 隠れた瞬間に気が付いた。雪の中を長く歩いて辿り着いた暖かい部屋で、改めて凍えていたことを認識するようなそんな気が付き方をした。
 はっきりとした意図など無かった。ただ触りたいと思ってジェクトはにじり寄った。気付いて振り返ったブラスカと目が合う。言うべきこともなく、ジェクトは髪先から手の平を滑らせてうなじを触った。想像した以上に柔らかい触感に満足する。 肩を竦めて体を小さくするブラスカを見上げ、伸び上がって見下ろし手を掛ける。その場に伏せさせられたブラスカは、事態を知っていながら知らないふりをして肩越しに仄かに笑っている。首筋から撫で下ろすと肌は外気に 触れて冷たくなりかけていて、しかし、尻は女のようには凍えていない。それを印象的に思いながら、ジェクトは暖めるように重なった。
 僅かに抵抗する気配がして、ジェクトは一番気に入ったうなじに噛み付いた。驚いて息を飲む音、胸を抱きそのまま長く動かずにいると、諦めたようにブラスカは柔らかく脱力した。 歯型が残るうなじを一舐めして仰向けると、本当に? と、問う視線を寄越すが他には何の予感も無い。抵抗も、肯定も、恭順も、ブラスカには何も無かった。だからジェクトも一切の反応をしなかった。当たり前のように首筋から鎖骨、胸元、少し柔らかい腹を 通って足の付け根まで、朱印を並べた。

 うなじが綺麗だからといっても抱く理由にはならないし、娘の名を呼んだからといっても後悔だとは限らない。
 分かっていてジェクトは止める気にはならなかった。この世で唯一ブラスカだけが、自分の悲しい夢を理解できると信じてしまったのだろうかと自問する。それはある意味で当たっているだろうし、間違ってもいるだろう。
 そんなことを考えながら、抵抗の無い足首を掴み折り曲げて広げる。爪先が浮いて困ったようにブラスカはにじるが、嫌悪には見えないので続けた。 胸に腹に腰に、手を滑らすと微かに熱く吐息を漏らすから、ブラスカも楽しめるだけの素養はあるらしかった。乳首を口に含みながら後口に指を当て侵入を試みたが、苦痛の声が聞こえてジェクトは身を起した。ブラスカは、薄茶の髪を広げて横たわっていて まだ困惑しているようだ。海色の視線は揺れている。それでもジェクトが胸の真ん中を手の平で一度押さえると、体は封印されたように固まった。
 荷物に手を伸ばし、ジェクトは金属の箱を取り出した。傷が包帯に固着しないように塗る、刺激のない油が固まって入っている箱。 からん、と蓋が転がって、ブラスカはそれを目で追い、次に反応を始めたブラスカ自身をくすぐってから指に油をすくうジェクトに移った。そして、狼狽と不審と期待が入り混じった目は、ジェクトの指が体の中に入ると大人しく瞼を下ろした。
 なめらかに指が増えれば次第にのどが痙攣する。一言も無く、ジェクトが高ぶりを添えると呼吸が止まった。一度も待たずに全てを納め、間を置かずに動き出すジェクトの背に指が掛かって食い込み、子犬のようにブラスカは鳴いた。
 軽く唇を開いて上気した顔は、快感まであと僅かだと言っている。抱きやすいように身を屈めてやり、眉を寄せて耐えている顔を覗き込んでジェクトは溜息を落とした。ブラスカが男を知っていることに安堵し、同時に嫉妬する、そんな溜息を自嘲してジェクトも目を閉じた。
 間もなく二人分の荒い息と押さえ切れない嬌声が低く流れ始めると、今しがたまで響いていた二人分の孤独と雨の音は押し退けられて、消えた。



 朝は、甲高い小鳥の声と共に訪れた。
 聞きなれた目覚まし時計の音に目を開けると、腕の中の温かみは消えていた。硬い岩盤の上で眠ったせいでぎしぎし言う体を起し、ジェクトは辺りを見回した。火は消えている。伸びをし、大きな欠伸をひとつ。 放り出してあったトレーニングパンツを穿きジェクトは立ち上がった。
 森の青白く頼りない光は始まりの気配。どこかで日は昇っているが光はここまで届いていない、そんな中途半端な時間を楽しみながらジェクトはブラスカの行方を追うことにした。

 気温は一気に上がっているからおそらく水辺にいるだろう。少し進んでは耳をすませ、と注意深く歩いていると案の定、人為的な水音が聞こえてきた。ジェクトは勘のままに手直の藪を割り進み、人一人寝転べる程度の小さな草地に行き着いた。ブラスカのアンダーウエアが放ってある。 主は泉の中、幻光虫がちらほらと舞う水面に彼を中心とした透明な円が幾つも広がっていた。
 向こう岸の景色に見覚えがあった。どうやら聖なる泉の裏側に自分たちはいたらしい。寒さに惑わされて寺院近くだと思い込んだために迷ったのだと悟る。ジェクトは正直ほっとして、岸辺でブラスカを待った。 万が一迷ったら、聖なる泉の野営地で落ち合おう、とアーロンと打ち合わせをしていたから。これで話題が出来てブラスカと気まずくならないだろうから。
 ふう、と息を吐き、足を伸ばして座る。爪先で水面を叩くと水は奇妙なほどぬるく、冷えるからとブラスカを止める必要はなさそうだった。ブラスカは念入りに体を洗っていて、その姿が徐々にはっきりと見えてくる。 目が慣れたからではなく、日の光が森に差し込んできたらしい。
 首を回しながらストレッチでもしようと足を広げた時、目の端にきらり、と何かが見えた。透明な木が入り組んだ対岸に、ひと際大きな丸いクリスタルが光っている。あれは、木の種のようなものだと教えられた。 クリスタルの輝きは強まり、ジェクトが目をすがめた瞬間、背後から一直線に陽光が刺し貫いた。

 一本の道のようにその光はブラスカを照らし、彼は夢のように輝いた。森の木々が造る複雑な縫込みの、小さなほころびから漏れる光の道は、幻光虫をかき消す強さでジェクトの目を焼きブラスカの背の傷をはっきりと見せた。 赤い引き攣れはブラスカが戦ってきた証のように、どこか誇らしげにそこにあった。
 一瞬後、前方のクリスタルの輝きを残してその陽光は途切れ、ブラスカの姿は青い闇に溶けていった。どこまでも沈んでいくように、始めから何も無かったように。

 ジェクトは泉に入った。ブラスカが消えてしまうようで、操られる足取りで水を掻き分けて進んだ。
「ジェクト」
 水音に振り返り、ブラスカは笑った。頭上の小さなほころびからまた光が漏れ、濡れた薄茶色の髪といつもの笑顔にきらきらと舞い散った。
「おはよう。いい朝だね」
 ジェクトは手を伸ばした。
「……ああ、きれいだな」
 昨夜、唇に触れなかったことを後悔しながら強く抱き締める。口付けるとブラスカは震えた。
「ジェクト?」
 軽く触れるキスを繰り返す合間に掠れた声が告げる。
「朝、だよ? ジェクト」
「分かってる」
 震えているのはブラスカだけではなかった。

 夜が終わって始まりは、出会って九日目の朝だった。






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