――寝た男の数も恋人だった男の数も覚えていない。前者は多すぎるから、後者は少なすぎるから。
起きぬけの思考が、これ。
苦笑と共に目を開ける。ダークブラウンのブランケットが体に張り付いていた。汗をかいている。夢をみたのかもしれない。
エイダは裸身を起こして何度か頭を振った。麻混のシーツを滑ってベッドに座り、両手で顔を覆って深く息を吐いた。
――息を吐いた、だけ。溜息じゃない。
もう一度頭を振り、エイダはバスルームに向かった。
孤島でのサンプル回収任務を終えてから一週間が経っていた。熱いシャワーの下で全身を点検する。水滴が散る長い手足には目立った傷は残っていない。両手を握り開きしてエイダは目を閉じる。
――何でも出来る。この手は、何でも出来る。
呪文のように頭の中で繰り返し、シャワーを止めた。バスローブを掴み、洗面台の前に立って鏡越しの自分の顔をしばし見つめる。淀んだ顔色ではなかったが、どこか疲労しているようだった。水に濡れているというのに黒髪に艶が少ない。鏡に指を置き、角度を変えて頬や首を映して確かめる。
「年を取ったのね」
六年。
鏡に額を預ければ視界は白く曇る。ぼやけた顔はかつてのように美しく見えた。
「起きていたのか」
反射的に声の聞こえた方角にバスローブを叩き付け、エイダは低く屈んだ。洗面台の裏に隠した銃を右手で引っ張り出し、左手で更に武器を探しながら男を見上げた。
「勝手に部屋に入らないでと言ったはずよ」
「ああ、昨夜も聞いたな」
正確に額に狙いを定めたエイダを一瞥してバスローブを放り投げると、ウェスカーはリビングに移動して行った。
「まさか、もう次だなんて言わないでしょうね?」
素早くバスローブを身に付け後を追う。ベランダに面した窓から町を眺めるウェスカーの手の中に、見慣れたファイルがあった。
「期間は半年。この研究所の移転と共に終了しろ」
髪から落ちる水滴を気にしながら、突き出されたファイルを受け取った。ぱらぱらと捲る。高度な潜入技術を必要とする任務だ。エイダは肩を竦めてウェスカーを見上げた。
「サドラーの件からいくらも経ってないわ。随分と人手が足りないようね」
ウェスカーはちらりと腕時計を確認した。
「一週間と十六時間もあれば休息には充分だろう」
「ウェスカー」
「おまえが適任だ」
「……」
なぜだろう、ウェスカーには最後の一言を飲み込んでしまう。エイダは目を伏せ、再びファイルを繰った。
――ここには
「ニ時間後に本部にヘリが着く。半島の港まで送る。そこからは汽船を使え」
低いウェスカーの声にエイダは黙って頷いた。
「それまでにエリン・フォックスに『成れ』」
――扱いやすい男はいるだろうか。ジョンのように。
思考を中断し、ウェスカーの視線に顔を上げる。無機質な目が僅かな間エイダを観察し、そして興味を失ったように逸らされた。
「細かい携帯品はケントから受け取れ」
「了解」
固い靴音と共にウェスカーはエイダの横をすり抜けた。微かに男の体臭が香る。
「もう皮肉は言わんのか?」
エイダは唇だけで笑った。信じられない事だが、下腹部に不愉快な感覚が走ったのだ。昨夜彼が吐き出した体液が、まだそこで生きているかのように。
肌色のストッキングに足先を押し込んでいる女がドレッサーに映る。地味な色のタイトスカートに白いシャツ。撫で付けた髪に眼鏡を掛ければ、生真面目な事務員の出来上がりだ。
「エリン・フォックス……」
二十八歳、ベトナム系アメリカ人、好きな物は猫とレモンパイ、休日は美術館を巡って過ごす女で、ヒールの高さはニインチと決めている。
「エリン」
鏡に指を這わせ、ふとエイダは首を傾げた。なぜだろうか、『エリン』に見覚えがある。
「誰? あなたは」
目を閉じる。指先の鏡は冷たい。
「ああ……あなたね」
記憶の片隅に残る『女』が見えた。通信機の中にいた、女。
「ふふふ」
なんて馬鹿馬鹿しい。あんな事すら羨ましかったと? 唇を歪めて笑う。
――可哀想に。そんなに気になるの?
呟くのは『エリン』。
――あんな近くにいたのに、手も触れなかったくせに。
触れられるものならば。
零れたミルク。
滴りの中に彼を見る。彼だけを。
彼を知っているからクラウザーと寝た。彼を疎ましがっているからウェスカーと寝る。彼が言葉を交わした全ての男と寝ても構わない。触れてはならない彼を知るためなら、世界中の男と寝たって構わない。
――馬鹿ね、エイダ。
「いいえ、そんな女はどこにもいない」
顔を上げる。涙は流れない。
白い光の中、彼女は茶色のバッグを肩に掛けるとドアを開けた。遠く、虫の羽音のようにヘリコプターが空気を割る音が聞こえていた。
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