「でもなー、陽子はもうちっと柔らかくならないとなー」
「程度が今一つ分からないんだ」
「そういうとこ、尚隆と似てるかもなあ」
「そうか?」
「両極端っていうかさー。陽子って一旦柔らかくなったらとことんふやけるかも」
「ふやける……」
「確かに俺は、育てるか殺すか、だな」
「……六太くん、すっごくヤな顔」
陽光の降り注ぐ四阿で雁の主従を相手にする主を見つけ、景麒は静かに寄って行った。書類が一つ、懐にある。主は少々だらしがない程にくつろぎ、益体もない会話に興じていた。
それはいい。
景麒は知らず、溜息を落とす。
問題はあの方だ。
おそらくは、景麒だから分かる事だ。並びない王、その中でも極まった安寧の国の王の視線が不愉快だった。不遜、と言われても仕方が無い。不愉快なものは不愉快だ。
「今度市井に降りる時には言え。俺も同行して遊びを教えてやろう」
「……」
「なんだ、その目は」
「やめとけ、陽子」
「うん、やめとく。六太くんとなら行きたいな」
「手、繋いで行くか」
「いいね、姉弟に見えるかも」
「おまえら……」
「失礼いたします」
憮然、と表現する以外に何がある、という表情で景麒は軽く会釈した。素早く振り返った主の顔に、「まずい」と書いてある。
「……何だ?」
「ご歓談中申し訳ありませんが、例の草案の原文にお目を通していただけますか」
「急ぐんだな、見せてくれ」
主は賓客への断りも忘れて慌てたように席を立ち、景麒の側に駆け寄る。気まずそうに視線を合わせて自分の心中を図ろうとしているのが、手に取るように景麒には分かった。
「こちらです」
「ちょっと待って……」
一転、真剣に読み始める。最近は随分と読み方が上手になったので、読んでくれ、と言われない限り景麒は黙って待つ。
「……という事で合っているか」
ざっと内容を確認する声に頷く。
「はい、概ねは」
「概ね、か」
「詳しくは、明日の朝議にて草案をご説明すれば足りることかと」
「分かった、これで進めてくれ」
かしこまりました、と頭を下げた景麒は実のところ全く落ち着かない気分だった。片足を上げて行儀悪く座っている延王の視線がその元凶だ。同じく行儀悪く卓に座って足をぶらつかせている彼の台輔と軽口を交わしながらも、ちらちらと主に目線が流れる。かなり粘度が高い。今すぐ、主の回りを一周して払って差し上げたいと思う。
「……どうした、景麒」
むっと押し黙って下がらない僕に、心配そうな主の気配が知れた。
「いえ、なんでもありません」
しかし、では失礼します、と言いたくなかったのでそのまま立っている。上手に会話に混ざるなどという芸当は不可能であると自覚があるからだ。
「急ぐんじゃないのか?」
ちら、と景麒をねめつけるようにして主は言った。
「はい」
「……怒ったのか?」
急に声を落として囁いた。見つめれば、本当に困った顔だった。
「いいえ」
「でも……」
「怒ってはおりません。私が何に怒ったとお思いか」
「いや、その」
未だ視線は纏わり付く。景麒は溜息を吐いた。
「ごめん」
主は雁の主従に完全に背を向けた。あちらからは見えないように、そっと景麒の指先を握った。
「冗談だから。私が手を繋ぎたいのはおまえだけだ。あんな軽口を信じてはいけない」
いきなり景麒の回りがぱっと明るく輝いた。もちろん、気分の上、というものだが、景麒は冬の晴れ間を見た。
「……はしたのうございますよ」
「構わない」
「主上……」
「もう、怒ってないな?」
「始めから怒ってなどおりませんと申し上げています」
「良かった」
安堵の気配と共に漏れた密やかな笑顔に景麒は見とれた。彼にしか見せない、主の特別な笑顔なのだ。
「陽子」
なれなれしくも御名を呼び捨てる男の声に主は振り向き、自分の裾を踏んだ。一つ二つとよろめき、卓に手を付こうとしたところに、さっと立ち上がった男の手が伸びた。
「主上!」
景麒は本能にとても忠実に行動した。即ち、主を背後から抱きとめ、男の腕に触らぬように力一杯引き寄せたのである。畢竟、しっかりと抱きしめる形となった。
腕の中の主は、あわあわあわ、と発声しているが景麒は構わず、ついでに別の本能を全開にして隣国の王を睨みつけた。折伏するつもりだったのかもしれない。
「……いーから景麒、陽子を離してやれ」
雁の台輔が呆れた声で言った。見下ろすと、湯だった主の顔がある。
「失礼いたしました。これも主上のお体をお守りするため、ご容赦のほどを」
むっつりと景麒は言った。しかしまだ主を抱き締めたままだ。
「……なにやら俺が危険であると聞こえるが?」
延王が、ぬっと進み出るので景麒は主を引きずりつつ後退する。
「とんでもございません」
「しょーりゅう、座れって」
「け、景麒、離してくれ」
主の声に景麒は渋々と手を広げた。
「あ、ありがとう、もう大丈夫だから」
長裙は歩きにくくて、と主は二人の顔を見比べながら必死でとりなそうとする。
「急ぐ用件だったのであろう、行ったらどうだ、景台輔殿」
延王は、にやりと笑って言い捨て、主の肩に手を置こうとした。
その瞬間、不吉な空気が辺りを取り巻いた。さすがの延王も異変に硬直する。
「待て待て待て待てー! 鳴蝕はだめー!」
延台輔が景麒に跳び掛った。それで、ほぼ白目になっていた景麒ははっと瞬き、頭を振った。
「……失礼」
胸元にしがみ付く延台輔を引き剥がすと、景麒は頭を下げて彼らに背を向けた。
その後ろ姿には、隠伏も忘れておろおろと、女怪と班渠が付き従っていたという。
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