焦雨

 暗い天は雨の気配を匂わせる。降りた帷は形ばかりで、臥牀は貧しい。
 硬いその上に座って驍宗は窓を睨んだ。切り取られた空、月に照らされた雲ばかりが漂う心無い空。
「何を見ている、無頼」
 男は「風漢」と名乗った。だから驍宗は「無頼」と。
「何も」
「そうだろうとも」
 突き出される酒を受け取る。風漢が意味も無く笑い、驍宗は白い頭をゆるく振った。



 出会ったのは全くの偶然だった。阿選の同行を探らせるために各地に散らした麾下から報告を受けるために降りた鴻基の宿舘、その食堂は昼時故に込んでいた。席を探して首を巡らせていた驍宗の背中を誰かが叩き、振り返れば何かを頬張る彼が、自分の横を指差していた。
 彼は質素な袍を纏い、戴の復興の様子を見に来た旅人だとしゃあしゃあと言った。雁は相変わらず荒民に悩まされているとも語った。だから、泰王は雁を頼りにしているはずだ、と言ってやれば、やれやれ仕方ない、と野菜の炒め物が乗った皿を一つ奪われた。
 堂室に向かえば隣り、夕餉の後に碁でも、と誘われて応じた。麾下との談合を済ませた夜半過ぎ、碁は滅法弱いはずの男に大差で負けた。

 飽きた、次はこちらでどうだと臥室を顎で示され、頷いた。
 顔を見た時から予感があったように驍宗は思う。ちらりと、海渡る民が頭を掠めもした。慣れている訳ではないが、惜しくも無かったのだ。



「降ってきたな」
 風漢もまた、表に目をやった。月の光はいかにも弱々しく、光る雨は安い音を立てて宿舘を塗りこめる。住処に帰りそこねた烏が間近の枝で、嫌そうに一声上げた。
「雨は悪くない」
「そうだな」
 互いに珍しいものでも見るように、雨を肴に酒を飲む。事実、珍しかったのかもしれない。雨の降らない雲海の上に住む彼らにとって、雨は見るものではなく打たれるものだ。つつがなければ気付きもせず、気が付く時は有事の折、暢気に眺めている暇はない。

 まだ払暁には早い。一眠り出来るなと、驍宗が臥牀に手を付いて立ち上がりかけた時、
「行くか」
 風漢が呟く。
「朝までおればよいものを」
 どくり、と胸が鳴って驍宗は彼を仰ぎ見た。薄い夜着一枚の姿の彼は、予想に反して闇に視線を向けていた。窓前に張り出した枝が大きくしなり、かすかに光る烏が飛び立つ。
 不意に振り返った風漢と目が合った。彼は、にや、と笑うと乱暴に臥牀に腰掛け、驍宗の脇腹に手をやって引き寄せる。驍宗は、酒が零れる、とだけ思った。
「あれは南に帰ったのだ」
 彼がそう言った時には湯のみは奪われていた。鎖骨に噛みつかれ、むせて驍宗は苦笑する。
「子がおるのだ」
「何故分かる」
「さあな」
 投げるように引き倒され利き手を取られる。起こした頭は押さえられて背中に膝が乗った。裂くように耳を歯で引かれ、捕まったままの手首に爪が食い込む。乾いた笑いを驍宗が漏らせば、耳元で獣が唸った。

 これが、五百余年を生きるということなのかもしれぬ。

 折りたたまれるままに驍宗は目を閉じた。
 律動を刻み始めた臥牀の上に、玉座は無い。





「お帰りなさい、驍宗様!」
 まろぶように駆けて来る小さな姿に驍宗は目を細めた。
「変わりはないか」
「はい! でも正頼が転んだんです」
「転んだ?」
 すくうように抱き上げて驍宗は眉を寄せる。腕の中のぬくい存在は、驚いたように首を傾げた。
「どうなさったんですか?」
「何だ?」
「え、あの、お帰りになったばかりでこんな風に抱き上げていただくなんて、あまりない事だから……」
 僕は嬉しいんですけど、と恥ずかしそうに呟く。
「なに、そういう日もある」
 そうなんですね、と幼い笑顔に驍宗もつられた。
「転んで大事はないのか」
「それはあまりのおっしゃりよう」
 追って来た正頼が、すました顔で隣りに並ぶ。
「お帰りなさいませ」
 取って付けたような拱手に苦笑せざるを得ない。
「おまえもそろそろ隠居の時期かと思ってな」
「躓いて柱にぶつけただけですのに」
「でも、目の前に火花が飛んだって言ったもの。ほら、まだおでこにこぶがあるでしょう」
 細い手が指す場所は確かに腫れている。
「じいやなのだから仕方がないな。おまえが気を付けてやるといい」
「僕がもうちょっと大きかったら、手を引いてあげられるんですけど」
「それではじいやの立場がございません」

 雲海の上は晴れ渡り、ぴんと張った空気が冬を告げている。
「お庭の木、すっかり色が変わりましたね」
「直に霜柱が立つだろうよ」
「僕、霜柱って見たことがありません」
「踏んで歩くと面白うございますよ」
「おまえは転ばないようにな」
「僕がちゃんと見張っておきますね!」
「……もう、ご勘弁下さいまし」

 さんさんと陽が落ちてくる。驍宗は南の空に視線を投げた。黒鳥が帰って行った空。

「良い天気ですね、驍宗様」
「沢山浴びるといい」

 軽い体を持ち上げ天に掲げる。きらきらと、恥ずかしげな笑い声が降る。
 気が付かれないよう、かすかに驍宗は頭を垂れた。恭しく天に天意を捧げ持つ。
 幸いあれ、と。



 まだ、雨の音が聞こえる。







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