その男 尚隆

 金波宮には賓客が多い。例の大逆未遂事件以来、陽子は出来るだけの気配りをしていたが、幾ら陽子が心を砕こうとも訪問されてしまえばそれまでである。今日もまた、女官らが右往左往する掌客殿の奥で、陽子は小さく溜息を吐いた。
「せめて青鳥を下されば・・・」
「面倒でな」
「淹久閣ならばすぐにでも、」
「好かん」
 現在金波宮で最も上等な賓客用の宮は、淹久閣という事になっている。先の大捜索の副産物だ。が、氾主従の趣味に合わせたその宮に、彼が足を踏み入れようとしない事はある意味当然か。
 常に埃を払って整えているとはいえ、花一つない掌客殿、祥瓊が先頭に立ってあれこれと采配する中で延王が榻に伸びていた。対面の椅子に座る陽子はもう一度溜息を落とす。
「ここでは落ち着かないでしょうに」
「なあに、おまえが膝枕の一つでもしてくれればもてなしには充分だ」
「またそういう事を」
「俺は本気で言っているが?」
「その本気が怪しい」
 ふん、と尚隆は笑って両手を頭の後ろに組む。陽子の目の前で足先が揺れた。
「それとも俺の膝にでも座るか?」
「ご冗談を」
「だから本気だと言っておるに」
 陽子には到底そうは思えない。不審の眼差しを向ける陽子にからりと笑い、尚隆は上体を起こした。
「ほら、来い」
 膝を叩く。
「・・・私は犬じゃないんですが」
「似たようなものだ。若い分、六太より幾らか可愛かろう」
「・・・」
「せっかくめかし込んでいるのだ、近くで良く見せろ」
 普段の執務においての官服着用は、側付きの女官達の渋々の合意を得た。しかしこうして賓客がある時、彼女達は必要以上に張り切る。未だ戦いは続行中、というところだ。今日は急な事だったので陽子が説得する間もなく、やたらと簪を挿された髪が重い。
「ここからで充分でしょう」
 二人の間には卓一つの距離しかない。
「では、俺がおまえの膝に座るぞ」
「はあ?」
 その姿を想像した陽子は慌てて立ち上がり、衣擦れの音を聞かせて窓に寄った。背後で笑う気配の尚隆を無視して外を眺めれば、日暮れの陽光は柔らかく金波宮は長い夜に向かっている。
「それで、ご来訪のご用件は?」
 低く笑い続ける男を黙らせるため、陽子は振り返って言う。
「さて、なんだったかな」
「延王・・・」
「まあ、明日には思い出すだろうよ」
「お泊りですか!?」
「いかんか」
「・・・ご随意にどうぞ」
「すまんな」
 満足そうにそう言った尚隆は榻にふんぞり返った。



 景麒、冢宰が同席しての夕餉が済み、会食の堂室を出ながら陽子は尚隆に軽く頭を下げた。さっさと先に掌客殿を出た景麒らの後を追おうとすると声が掛かる。
「陽子」
「はあ」
 今度はなんだ、と振り返る。食事の間中、尚隆は景麒にも陽子にもよく意味がわからない言葉を何度も発した。浩瀚が相槌も打たずにずっと苦笑していたのが気にかかっている。早く理由を聞きたいのに、と陽子はその場にじっと立って尚隆を見た。
 廊下の真ん中に立った尚隆は手招きの仕草だ。仕方なく陽子は近づく。
「背中をこちらへ」
 不安を覚えつつも陽子は言葉に従って尚隆に背中を見せた。最悪、驃騎が駆けつけるだろうなどと、漠然と思う。
「やはりな」
 首筋に息が掛かり、ひや、と声を出しそうになって口を押さえる。
「ここに」
と尚隆は指先でうなじを撫でた。普段なら幾らかの髪を残しておくが、今日は思い切りよく全て上げた。いっそその方がいい、と陽子が女官らに言ったからだ。そういえば、彼女達は簪を沢山挿せると喜んでいたな、などと思っているとそろそろと撫で上げられた。触れるか触れないかの感触に陽子の体は無意識に逃げたが、いつの間にか左手を捉えられている。
「疵があったが綺麗に消えたな」
 うなじを往復する指は止まらない。正直、気持ちが悪い、と陽子は身じろぎした。
「延王、」
「年を取らないという事は成長しないという事、ならば疵が治るのは不思議だと思わんか?」
「・・・そう言われれば」
「俺にも納得がいかん。まあ、治らねば困るのだがな」
「それはそうですね・・・」
 陽子は、山のような疑問が身内に凝っているのを改めて思う。例えば、登極後に婚姻が出来ない、というのはおそらく氏と戸籍に絡む問題だと理解できるが、登極までに婚姻していれば子を得られる、というのがどこかおかしいと思う。その他にも、と思っていると背後で尚隆が身を屈めるのが分かった。
「?」
 一瞬、陽子には何が触れたのか分からなかった。指ではなく、何か柔らかい弾力のあるものがうなじに置かれた。しかし不明だったのは瞬きの間、湿ったものがそこを撫で上げて陽子は仰天した。
「えっ、延王!?」
 舐められている。慌てても時既に遅く、尚隆の両手が陽子の体に回って動きを拘束する。
「あの、あの?」
 狼狽して振り向けば、肌に口を寄せたままの尚隆と目が合う。上目に見返す琥珀の目は笑っているようだった。異常な恥ずかしさを感じ、振りほどく事も出来ずに陽子は俯いた。唇は滑って肩に乗り、そこできゅっと引き絞られた。
「痛・・・っ」
「そうか?」
 正確には痛くはなかった。吸われ、甘噛みされた歯の感触に思わず出た言葉だ。尚隆は小さく笑い、その場所を舐めてから腕を広げた。違和感の残る首筋を押さえ、陽子はたたらを踏むようにして彼から離れた。
「少々刺激が強かったか」
「ふ、ふざけないで下さい!」
 尚隆の意図は未だ陽子には理解出来てはいなかったが、それでも自分の顔が赤いだろう事だけは分かった。
「だから、本気だと言っておろうに」
「も、もういいです! お休みなさいっ」
 顔を俯けたまま陽子は小走りに宮の出口に向かう。
「陽子」
 尚隆の声が追ってくる。
「眠れなければ、戻って来い」
 あくまでもからかう響きのその声に、もちろん返答はない。







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