とあるG県S市に住んでいる文太さんはおとうふやさんをしています。文太さんは毎日夕方になるとおとうふを作り始めます。そして朝早くにできたてのおとうふをホテルに配達するのです。
でも今夜はおとうふ作りはお休みです。一週間に一日、文太さんのお店はお休みします。それが明日なのです。だから文太さんは、じだらくにも日が沈む前から祐一さんと一緒にお酒を飲みました。祐一さんというのは文太さんが峠でぶいぶいいわせていた頃からのお友達でガソリンスタンドの店長さんです。内緒の話ですが、文太さんのお店の定休日は祐一さんのお店に合わせて決めました。
今日もメートルを上げて文太さんはおうちに戻ってきました。メートルを上げるってなに?という人はお父さんに聞いてみて下さい。ともかく文太さんはお店の戸締りを済ませてお布団に入って幸せな気持ちで眠りにつきました。
ところで、文太さんのおうちには他にも人が住んでいます。一人は文太さんの息子の拓海くんです。最近の拓海くんは反抗期なのかあまりおうちに帰ってきません。海外に家出してしまったようです。たまにテレビに映るので、捜索願いは出されていません。
そしてもう一人の住人が帰ってきました。これも内緒の話なのですが、その人は涼介さんという人間の名前で呼ばれているものの、ヒトではないナニカかもしれないというもっぱらの噂です。
さて、涼介さんはお店の裏に白い車を止めて、お勝手から入ってきました。ちなみにおとうふやさんには三台の車を駐車できます。少し前までは二台しか止められませんでしたが、何かあこぎなことが行われた結果、お隣のお庭が小さくなっておとうふやさんに三台の車を止められる場所ができました。
お勝手から入ってきた涼介さんは静かにお風呂に入ります。それから冷蔵庫からビールの缶と夕ごはんの残りと思われるイタリアンっぽい色の料理を出しました。食べてみると、トマトとキュウリと厚揚げをごはんと一緒にいためた湿っぽいたぶんチャーハン?でしたが、幸いにも涼介さんはあまり味覚が発達していないのでおいしくいただくことができました。そしてビールを飲みほすと文太さんの眠る部屋へと入って行きました。
文太さんは野生の人なので、ふすまが開いたとたんに目を覚ましました。でもそれは本人がそう主張しているだけで、本当は子育て中に身についた癖と加齢のせいです。とにかく文太さんは目を開けて、すぐ横の布団に入った人に言いました。
「なんだ、戻ったのか」
遅かったなと言いたいところです。でもそんなことを言えば大変なことが起こりそうなので、文太さんはいつもがまんしています。
「すみません、起こしてしまって」
礼儀正しい優しい声が答えました。まだ営業モードのようです。
「寝てねえよ」
どうして文太さんは無意味な嘘をつくのでしょうか。それは誰にもわかりません。枕元のスタンドをぷちりと点けると、文太さんは灰皿とタバコを引き寄せました。
「そうですか」
涼介さんは、文太さんからは見えない角度でにやりと笑いました。そして行動を開始したのです。もちろん文太さんはすぐに気がつきました。
「なんだよ」
文太さんは、自分のお布団に入ってきた人をひじで小突きました。
「お腹が痛くて」
だったら寝ろよ、と言いかけた文太さんに白くて長い腕が巻きつきます。若い頃は色々な意味で連戦連勝だった文太さんですが、なぜか涼介さんに抱きつかれるとMPだかHPだかが限りなくゼロに近付きます。やはり涼介さんはヒトではないナニカである可能性が高そうです。
「四日前に中出しされたので、お腹が痛いんです」
強烈なジャブです。しかしここでひるむ文太さんではありません。
「そうかよ。よし、薬買って来てやるから大人しくしてろ」
「必要なのは薬ではなくゴムだと思います」
「わかったわかったそれも買う」
「結構です。暖めていただければ」
「ぬくいじゃねえかよ、風呂入ったんだろうが」
「弱った消化管を保護するために血流が集中した結果体感体温が下がっているんです暖めて下さい」
涼介さんのまゆつばという名の攻撃です。
「わかんねえこと言ってんじゃねえ」
危ない! 早くも文太さんはピンチです。
「ご存知ですか、文太さん。ヒト同士が暖め合う最も効率的な方法は人肌です」
「ご存知ねえよ、って何してんだコラ」
「さあ脱いで」
「やかましい、人脱がすまえにてめえが脱げ」
「喜んで」
「脱ぐな!」
「俺にどうしろと」
「いいから寝ろ!」
残念ながらこの台詞が出ると試合終了です。涼介さんはとどめをさしにかかります。
「おや、こんなところに腫瘍が」
「ねえよ! 握るな!」
「これはいけない。随分硬化しています。すぐに治療が必要だな」
「オヤジかおまえは!」
「文太さんほどでは」
「どーでもいーけどそーゆーことはふすま閉めてやってほしーんですけど……」
久しぶりに我が家に戻った拓海くんが、とても悲しい目をして言いました。でもお布団の中の二人には聞こえなかったようです。仕方なく拓海くんは、ぱちんとふすまを閉めました。
その夜、秋名の山には久しぶりに、ごわっしゃあああと鳴くパンダの幽霊が出たそうです。
翌朝拓海くんがおうちに戻ると、ねみだれたお布団の上で涼介さんが文太さんの腰にシップを貼っていました。お医者さんのフリをしている涼介さんは、心なしかお顔がつやつやしています。
「お帰り、藤原」
晴れやかな笑顔の涼介さんと目を合わせないように、拓海くんは小さな声でただいまと言いました。
「ちょっと待ってろ。これ貼ったら朝飯作ってやるから」
「はあ……」
「味噌汁の具はレタスとトマトでいいか?」
「それは、俺に作れという意味でしょうか……」
おかしいな、俺この間優勝して朝からフルコース食えるくらい金もらったんだけどな、そんなことをつぶやきながら、おうちに帰ると万年最下位の拓海くんはめざしを焼いてナスとおとうふのお味噌汁を作り始めました。
半分開いたふすまの向こう、涼介さんがつやつやで文太さんがかすかすになっている理由は、だれも知りません。
Initial D TOP