「無理……かも……」
クーラーがよく効いている部屋で、じっとりと額に汗を滲ませて拓海は呟いた。
「すみません……」
これまでのどの行為よりも恥ずかしい。息を上げ始めていた涼介が眉間の皺を緩め、つるりと拓海の頬を撫でた。
茨城最終戦の打ち合わせを終え、赤城の駐車場を出てファミリーレストランへと移動したのは十時前だった。最初に空腹を訴えたのはいつものように啓介だったが、珍しく松本がそれに同調し、彼を乗せようとしていた拓海も付き合うことにした。
「なんだよ何してんだよ真似すんなよ」
「してません」
同じ和風ハンバークセットを目の前に置いた啓介が難癖をつけてくる。
「これじゃ俺らすげー仲良しみたいじゃん。とうふ屋は魚でも食ってたらいーんだよ」
「意味わかりません」
涼介、史浩、松本の三人は真横のテーブルで黙々と食事をしている。なぜか二人掛けのテーブルで同じメニューを突き合わせる破目になった啓介を相手に、拓海はハンバーグを切りながら半目になった。
「俺はファミレスではハンバーグ食うって決めてんの」
「俺だってハンバーグ好きだし」
「家で食えよ。自分で作れんだろ、おまえ」
「啓介さんこそ」
「俺は生肉触れねーの!」
「……ダサ。つーか作ってもらったらいいじゃないですか」
「触れねーもんは触れねーの! つーか誰にだよ」
「おかーさんとか」
「ダレだよそれ。ウチにはいねーよそんな人」
「え……いないんですか」
「なんかオヤジとアニキの面倒みる人はいるけどな」
「え……」
「そもそも俺、もらいっ子だし。飯なんて自力で調達するっきゃねえ訳よ」
「え……」
「仕方ねえじゃん。ガッコ通わせてもらえるだけで御の字っていうか」
「え……」
「俺の両親だって、虐待してきたつもりはないと思うけど?」
言葉を失う拓海を余所に、啓介の隣でエビフライを切りながら淡々と涼介が言う。
「わかってるって、涼介さん」
「りょ、『涼介さん』て……」
「血ィ繋がってないんだっつの。人前ではそれなりに呼んでるけどよ」
「君がそうやってつっぱるから孤立するんだけどな」
「き、『君』って……」
「いーの。ヨソ者はソツギョーしたらとっとと出てくから」
ハンバーグからとんでもない話になってしまった。鉄火丼セットにしておけば良かったとおろおろとみぞれソースを掻き回す拓海の隣で、史浩の肩が大きく動く。
「おまえらその辺にしとけ。藤原が信じてる」
「えっ」
ひっと腹を押さえて啓介が笑い出す。史浩も肩を揺らして唇を噛んでいる。澄ました顔の涼介はニンジンのソテーにフォークを突き刺した。
「ひ、ひでぇ! 俺すげーショック受けてたのにっ」
ひひゃひゃと仰け反ってから啓介は座面をばんばん叩く。
「フツー騙されるかっての!」
「く、くっそう……」
がぶがぶとハンバーグを口に押し込む拓海はじろりと啓介を睨む。
「おまえ、サイコー」
ひきつけを収めながら啓介はにやりと笑う。その顔はこの間別れ間際に見た涼介とそっくりだった。目の前に並んでいる二人は、多少啓介の方が作りは派手だがよく見るまでもなく顔形も体つきも似ている。確かにあんな話を信じる方がどうかしている。拓海はふっと溜息を吐きながら疲れた笑いを顔に乗せた。
「俺もちょっとびっくりしてましたよ」
史浩の横でほかほかうどん御前を食べる松本がぽつりと言った。一瞬の静寂の後、涼介が最初に意外だな、と呟いた。ホントかよと啓介が目を丸くし、苦笑しながら史浩が味噌汁をすする。
「こっちがびっくりだよ、松本」
いやあ、と頭を掻き、松本はにこやかに言った。
「また黙ってなきゃならないことが増えたなと思いましたよははははは」
また少しの間、静かになった。
そんな遅い夕食が済み、松本は史浩の車に乗り換えて帰って行った。啓介は他の友人と待ち合わせがあると言って栃木方面に消えた。
「じゃあな、藤原」
そして涼介は駐車場であっさり背を向けた。
「あ、あの」
振り返る涼介呼び止めた拓海はハチロクを指差す。
「送ります」
「いいよ、タクシーで帰るから」
「いえ、あの」
胸の中で舌打ちし、拓海は涼介の前に走り出る。全然言葉が出ない。カラダの関係にまで至った相手にどうしてこうも一々言葉を失うのか。
「あの、送りますから」
両手を開いて進行方向を塞ぐ拓海に涼介は驚いた顔をし、しかしすぐに威嚇するように腕組みをして見下ろした。
「止めておけ」
「は?」
「啓介は明日まで戻って来ないし、両親も病院に詰めている」
「?」
「帰さないぜ?」
微妙な沈黙が流れ、拓海はぱたりと両手を下ろした。
「えと」
消沈した様子の拓海に涼介は苦笑を浮かべる。
「そう言われると……別に……それでもいいかなって」
「本当に?」
余裕のある笑みに変わった顔が近付く。この人は夜が似合う、と拓海は思う。ファミレスの店内から漏れる白い人工光が硬質に見せる表情は冴え渡っていて、断る言葉を言わせない。何より彼の目が、発される雰囲気とは真逆に少しの余裕も無く、来いよと言っている。
「あの、聞いてもいいですか」
どうぞと肩を上げてみせる人から目を逸らさないように、拓海は足を踏ん張って顔を上げた。
「なんで、俺としたがるんですか」
「したいから」
即答に怯みつつも、再び踏ん張る。
「……なんで、俺、なんですか」
「送ってくれ」
は、と口を開ける拓海の背に手が触れる。その含みのある撫で方にびくっと背筋を伸ばすと耳元に囁きが流れる。
「別にいいんだろ? 家に着いたら教えてやる」
一時間後、拓海は空調のよく効いた部屋でひたすら冷や汗を流していた。
どうしても、勃起しない。
あの時、一人で帰ってもらえば良かった。そして自分は家でちょっとばかり反省するのだ。どうしてそうしなかったんだろう。涼介は完全にその気になっている。体の中を随分探ったせいで肌の色は赤味が増し、黒い目は溶け出しそうに揺れている。これがフェロモンってやつかもしれない。どう見ても扇情的で、初めて寝た夜よりも下腹にくる要素が多い。しかも部屋の明かりは弱めてはいるもののくっきりと点き、涼介の肢体をまざまざと見せつけている。
「藤原」
見下ろした姿勢で固まり、動かない拓海に痺れを切らした涼介が指先を動かして呼ぶ。
「気にするな」
ほらここ、と己の右肩を叩き、すみません、と呟く拓海を強引に抱き寄せた。
「そういう時もあるさ」
「最悪……」
そうでもないさ、と言ってから長い吐息を零し、涼介は空いた手を伸ばして枕元からティッシュボックスを取り上げる。
「手」
「あ、はい」
ローションでべたべたになった手を拭う。涼介も自分で足の間を始末してしまった。
「本当に気にするな」
拓海の手から丸まったティッシュを取り上げゴミ箱に放り、涼介はじっと見つめてきた。今自分はどんな顔をしているんだろう。涼介の表情から察するに、同情されるにふさわしい顔をしているに違いない。
「俺も何度かあったぜ?」
「嘘だー」
なんで嘘なんだよと笑い、髪を撫でてくる。ぺたりと体を寄せ、拓海はもう一度冷や汗がどっと背中に浮かぶのを感じた。
「あの」
「気にするなと言っているんだ」
「それは無理だって……」
意を決して立ち上がったまま放置されている性器を握った。びくりと揺れる体に少し乗り上げ、舌を伸ばして唇を舐める。
「藤原」
キスを避けるように首を逸らす涼介は揶揄するような視線を投げてくる。
「おまえだけ素面で俺がいくのを見るつもりか?」
「そ、そんなんじゃなくて」
「理由はともかくそういうのは好かない。今はもうやめよう」
はあ、と手を引いた。頬を舐められ鼻先にキスをされ溜息を吐く。
「泊まっていけよ」
「えー」
「なんだ、えーってのは。ああ、配達か」
それは涼介がシャワーを浴びている間に電話し、言い逃げるように文太に押し付けてある。
「配達はいいんですけど……気まずいし」
「気にしているのはおまえだけなんだがな」
じゃあ帰れ、と腕を外されて転がされる。ほぼ反射的に、ヤダと言いながらもそもそと戻って首筋に顔を埋め、しまったと思う。完全に見透かされている。この人は何か特殊能力を持っているに違いない、そう思いながら降参してぐったり持たれかかると喉で笑いながら背中を抱かれた。
「おまえ、抱き心地がいいな」
「抱き枕かよ……」
「不満じゃないだろう?」
拓海はもう返事はしなかった。髪を梳く指が気持ちいいから目を閉じればすぐに眠ってしまえるはずだ。後のことは起きてから考えよう、そう思った途端、急速に沈没する感覚が襲ってきた。随分長い時間緊張を強いられていたとはいえ、なんて単純なんだ。自分に呆れながらも空調の涼しさと暖かい体の相乗効果に白旗を揚げる。
「俺、寝ます……」
たゆたう意識がふと、また質問に答えてもらっていないことを思い出した。
「おやすみ、藤原」
ずるいなあ涼介さん、そう呟いたはずの声は、喉から出る前に消えた。
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