ずっとキスをしている。
入り込んだ舌が上唇を辿り歯列を割って焦らすように拓海の舌を掠め、次の瞬間には根元から先端へと絡みながら舐め上げる。ヘッドボードに背をもたせかけて座り、腰の上に乗った涼介の背に手を回した拓海は、いつまでも終わらないキスに息を詰まらせた。
「ん……」
覗き下ろす涼介の目は拓海を見ているようでいて認識はしていないだろう。もうどろどろに溶けている。どこにいても完璧な動きしか見せない器用なはずの指は、拓海の頬をただひたすら撫でているだけだ。
「涼介さん……」
柔らかい肉から逃れて名を呼んでも、すぐに顎を捕らえられて唇を塞がれる。意識が遠くなりそうに感じるのは酸素が足りないからなのか、それともこれほどに求められる歓びのためなのか、拓海には判別がつかない。
執拗なキスに辛うじて応えながら、背中から下へと手のひらを滑らせる。控えめな二つの丸みを撫で、隙間に指を這わすと涼介の舌がびくついた。
「は……」
離れた唇が熱く息を押し出す。深く拓海を呑み込んでいる場所が収縮し、内部までがぞろりと蠢いた。
「りょ、すけさん……動きたい……」
じっとりと濡れた二人の境目を触りながら拓海は眉を寄せた。
「ん……」
拓海の肩を抱き込みながら涼介が身じろぐ。やっと、と思った矢先にまた頭を掴まれ、赤い舌を見せる唇が押し付けられた。意識の中まで侵食するように掻き混ぜられ、何をしているのかわからなくなるほど熱に浮かされる拓海の耳に、それだけが唯一の現実であるかのように露骨な水音が、じゅ、と響いた。
嵐のような数時間だった。
ぎりぎりと精神が削られる消耗戦を勝ち抜け興奮の冷めぬまま高速を降りた時、携帯が鳴った。
どこにいる、と短く聞かれて場所を伝えるとしばらく待てと言われた。目立つ看板の下でハチロクにもたれて立っていると、ワンボックスではなくタクシーが側で止まった。涼介は小さく笑って助手席に乗り込み、どこに行きますかと聞く拓海に一言、ホテル、と言った。柔らかい表情からかけ離れたその低い呟きに、初日の終わりのキスが思い出されて拓海の心は複雑に波立ち、しかし不安に近い思いは伸びてきた手にごく優しく髪を撫でられすぐに消えてしまった。そっと下って耳をくすぐってから離れた手を追ってセンターコンソールに身を乗り出すと、涼介は目を細めて微笑み、穏やかな手付きで拓海の手を握ってからシフトレバーに置いた。
入ったのは小奇麗なシティホテルだった。駐車場からホテルのロビーに入り、並んで立ったフロントで少なからず緊張する拓海の前で、涼介はそつなく振舞いツインを取った。エレベーターを使って最上階に近いフロアへと入り、カードキーを押し込む背中を見ながら拓海はまだ自分の緊張に気をとられていた。
開いたドアの正面は切り取られたような大きな窓で、広がる夜景に思わず目を向けた。その瞬間、涼介が振り返るなり内鍵をがちりと下ろした。それと同時に、どん、と低い音を立ててドアに押し付けられ、涼介が全力で絡まってきてようやく、拓海は彼がもう限界を超えていることを知った。
「会いたかった」
不思議な言葉だった。しかし、その時の拓海には涼介の言いたいことがよくわかった。
行きたくない、としかめっ面で大学へと向かった人と四十時間ぶりに会った遠征先のアスファルトの上、拓海は全身を粟立たせた。動きにくいはずの己の感情が根こそぎ涼介に向かったのがわかったからだ。もちろんハチロクのハンドルを握れば前へ進むことだけに頭はもっていかれる。だからこそ、車を離れるほんのわずかな隙に心が激しく揺さぶられた。それを処理する間も無くまたハチロクに戻り、と繰り返している内に、まるで高熱にうなされているような気分になっていた。疲れ果てた脳が命じるまま後先考えず、ただ触れたいと手を握りその結果、叱責と誘惑を一緒くたにしたキスでKOされた。欲しいものが目の前にあるのに触れられない、それは拷問に似ている。会っているのにひどく遠い。自分だけでなく彼もそれを感じていたのだと知ってその時拓海はいくらか安堵した。が、どうやら涼介には逆の影響を与えたらしい。
今、二人きりの空間で、涼介は『怖いもの』になってしまっている。灯りの無い部屋の中、色々なものに体をぶつけながらベッドを見つけて倒れ込み、食い合うようなキスを交わしながら拓海はほんのわずか、怯えていた。そして怖さと同時にとてつもない引力を感じてもいた。自分の全てが涼介に向かっていく。痺れさえ伴う感覚にさらわれかけ、縋るように呼びかけようとしてやっと、目の前に彼がいないことに気が付いた。
「涼介さん?」
ベッドの頭方向の窓はカーテンが開けっぱなしになっている。そこから差し込む月明かりを浴びながら涼介は立っていた。シャツの裾をはぐって頭を抜き、捨てるように放った彼はそれでもう、全裸だった。四つ這いになって拓海の腰に両手を掛ける、猛禽の顔付きはモノクロの陰影に囲まれて研ぎ澄まされた印象が強まり、見慣れたはずの秀麗さに打ちのめされていると痛いくらいに遠慮なくジーンズを脱がされた。一緒にずり下がったトランクスくらいは自分で脱ごうと片膝を上げた時、濡れた感触に拓海はえっと声を出した。
「う、わ、ちょっと、あの」
涼介はちらりと上目で見上げたが、すぐに顔を伏せた。緩く性器を握って撫で上げながら、根元を甘く噛んでいる姿に拓海は慌てて頭を起こし、それと同時にちくりと犬歯が食い込んだ。
「いてっ」
「じっとしてろ」
「はい、ってちが、ダメですって止めて下さ、」
ゆっくり舐め上げられて息が止まる。数秒ほど脳が思考停止している間に先端を口に含まれた。いよいよ呆然としていると半ばまで飲み込まれてきつく吸われる。ぼとりと頭をマットレスに落として深い呼吸で落ち着こうとするが、生ぬるく柔らかい舌での愛撫が始まるとどうでもよくなってくる。ちゅ、とキスの音で離れた唇がくびれた部分に押し当てられ舌先がくすぐるように左右に動いた。ぐっと下腹に力を入れながら、拓海はようやく声を出した。
「ダメです……」
弱弱しい声にふっと鼻で笑って涼介はまた先端へと舌を滑らしていく。
「うう、風呂、風呂入ってない……」
「それがどうした」
一旦顔を上げ、涼介は拓海の腰を掴んだ。起き上がりかけていた拓海はそれで滑ってまた頭をシーツに落とす。バウンドしながら拓海は両手で性器を掴んでガードした。
「ど、どうって、洗いたいんですっ」
「もうキレイにしてやっただろ」
恐ろしいことを言い、涼介は拓海の腕を外そうと手を掛ける。
「も、ももももういいですっつか、しなくていいんですこんなこと!」
「俺がよくない」
「はあ!?」
「いいからさせろ」
「わっ、わっかんねー人だな! 俺がしたことねーこと、させられねーって言ってんだよ!」
「なんでキレるんだ。俺にもしろ、なんて言ってないだろ」
「そういうことじゃなくてー!」
「ビビって縮こまってるから手伝っただけだ」
声のトーンと落とした涼介に、拓海はうっと口を閉じる。心辺りはある。
「わかってるさ。俺は興奮し過ぎてる」
拓海の膝辺りに座っている涼介は体を捻った。右足から靴下を脱がして放り、もう一方にも手を伸ばす。
「おまえを怖がらせていることくらい、知ってる」
一つ深い溜息を吐き、涼介は膝でにじり進んだ。そしてゆっくりと圧し掛かると拓海の頭の横に顔を伏せた。熱く猛っている涼介の中心が腰辺りに当たり、拓海の心臓が大きく跳ねる。
「でも仕方ないじゃないか。どうしようもないんだ……」
抱きしめてくる腕に、まだ鬱血が残っているのを横目で見ながら拓海も息をつく。
「それは、いいんだけど……」
「なんだ」
ふて腐れたような声が耳元に聞こえる。
「俺だって正気じゃねえもん。どーぶつだよ、こんなの」
するりと頬が滑って涼介が視線を向けてくる。近い場所で見つめ合った。
「こんなんで、大丈夫なんかな……」
「怖いか」
「……うん」
涼介の腕が上がって拓海の髪を指先が梳く。
「涼介さんよりも、俺が」
どれだけ求めれば気が済むのか。いや、そうではない。気が済むなどというところには辿り着けないという予感が、恐ろしい。
「……そうか」
視線が限界まで近くなり、穏やかに唇が触れ合う。
「やめてもいいぜ」
優しい声だった。
「嫌だ」
即答に涼介の腕の力が強まった。
「涼介さんは、怖くないんですか」
「俺か」
ふっと笑む気配で涼介は舌先で拓海の唇を舐める。
「俺はもう、諦めた」
あきらめた、と繰り返す拓海の上から体重が引いていく。
「どーぶつで結構。理性なんてくそくらえだ」
そうだろ、と呟くように言う唇がかすかに笑う。暗さに慣れた目で散らばった衣服の中から鞄を探し当て、白く長い指が見覚えのある容器を取り出した。
「寝てろ。全部やってやる」
薄いパッケージを唇に咥え、とろりとした液体を手のひらに垂らしながら涼介はひどく意地の悪い顔で笑い、拓海はくらりと回る視界を閉じた。
「う、ん……」
どちらが声を出したのか、もうわからない。深くまで潜る感覚はどこか遠かった。
「は、あ、」
拓海がもたれたヘッドボードをきつく握り、腰をにじらせながら涼介が喉を反らせる。長いキスで始まった交わりは、ねだり合い煽り合って果てを感じられないほど執拗に続いた。達したのかどうかすら曖昧になる快感の連続に、互いの体の境が掴めなくなっている。
「ふじわら」
黒々と光る目で未だ誘いをかけながら、困ったように涼介は笑った。
「いった、か……」
「わかんない……」
俺もだ、と言いかけて涼介はぶるぶると全身を震わせた。緊張と脱力を同時に伝えながら被さってくる体を抱いていると目の奥に一つ二つと白く光が飛ぶ。やばい、と呟きながら拓海は涼介を抱えたままずるずるとヘッドボードから崩れた。
はあはあと呼吸ばかりが大きく響く。もがくように涼介が頭を上げ、体を離そうとして失敗し拓海の胸に手のひらを当てる。
「ゆっくりで、いいから……」
顔を顰めて拓海は歯を食い縛る。細かく震える涼介はこめかみから幾粒も汗を落とし、時間をかけて腰を持ち上げた。
「大、丈夫、ですか……」
拓海の上に座ったまま、涼介は放心したように天井に顔を向けた。
「だめだ……」
胸に置かれた手を握ると、まだ残るかすかな震えが感じとれる。
「どうしてか、わからない」
薄ぼんやりと白く浮かぶ天井を見上げる涼介は、帰る空を探している水鳥のようだった。
「どうして二人のままなんだろう……」
頑是無い子供のような声を聞きながら、拓海は握った手を引いた。濡れた体を腕の中に収めてほっと息を吐き、ねだられる前にキスをする。舌先を遊ぶように絡ませきつく抱き合った。
「泣くのは一人でできても、笑うのは二人じゃないとできないんだって」
まだ本気で悔しがっているらしい涼介の鼻先で言うと、夜景を映して小さな光を幾つも浮かべた瞳が拓海を見つめた。
「……そうか」
「うん」
唇を寄せ合い、二人は互いの肌に沈むように胸を合わせた。
翌日の別れもまた、慌しかった。嫌だ嫌だと呪文のように呟いてなかなか起き上がろうとしなかった医学生は、そうしながらも時間だけは計っていたらしく、高崎に戻った時には拓海の勤務開始までまだ三十分残っていた。少しだけ待てと走って家に戻った涼介は、ブランドものらしいTシャツを片手に駆け戻った。
「家に戻る時間はないだろう。これを着たらいい」
「あ……。すみません、借ります」
受け取ると、何か別のものが触れた。しかし、長い指がするりと頬を撫で、寝癖のついている前髪を梳いたために拓海はそれを忘れた。
「あの、また、連絡します」
「ああ」
遅れるぞ、と涼介は一歩下がった。頷き、アクセルを踏む。バックミラーに一瞬映った人を惜しみながら、拓海は車を走らせた。走り屋やそれに近い者が多い仕事場での面倒を避けるため、職場近くの駐車場にハチロクを放り込んで走って通用門を潜った。
「おはようございます!」
「急げよ藤原」
擦れ違う先輩達にぶんぶん会釈をしながら更衣室に駆け込み、ロッカーを開いた。
「おっと、これ着ないと……ってなんだ?」
握っていた借り物のシャツを広げたと同時に、何かが転がり落ちた。渡された時の異物感を思い出すまでもなく、拓海はそれを見つめて動きを止めた。
「……おもしれーな、あの人」
足元に落ちたものは、マジックで『朝飯は抜くな』と書かれたバナナだった。にやにやしながらそれを制服のズボンのポケットに押し込み、昨日から着ていたTシャツを脱いだ。そして涼介から借りたものを被って裾をズボンに挟み込もうとした拓海はまた固まった。
いつの間に付けられたのか、臍の横にくっきりとキスマークが浮かんでいた。指先で突付くとなぜか、散々搾り取られたはずの場所が反応しそうになり、慌てて腹を仕舞って上着を引っ掴んだ。始業五分前の音楽が鳴っている。
「……くっそー」
「走れ、藤原!」
更衣室を出た途端に廊下の端から呼ばれ、はいっと返事をしながら拓海は若干前屈みの姿勢で走り出した。
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