ハチロクが壊れた。いや、壊した。
――ハチロク。俺の。
ぽっかりと空いた駐車スペースを見つめて拓海は爪先でコンクリートを擦る。エンジンブローの時ほどのショックは無かったが状況はあまり変わらない。あの時は負けたと思った瞬間に血を吹き出すようにボンネットからオイルが飛び散り、拓海はある種の死を経験した。
数日前、相手の策に乗せられサスペンションを歪め、失速した瞬間拓海は己の弱さと限界に打ちのめされた。結果的には白星となったが喜びには遠かった。ワンハンド、という技術を知ったことは収穫だったと言えるが、日が経つにつれて地団駄を踏みたい気持ちばかりが膨らんでいく。
うじうじと何もない場所を見下ろしていると、ぬうっと背後から文太が顔を出す。
「配達はどーした」
「わかってら」
ちぇ、ともう一度コンクリートを蹴ってから、拓海はインプレッサのドアに手を伸ばした。
飛び込むようにボディをコーナへと放って足裏を痙攣させる。インプレッサの機動力とハチロクだけから得られる手応え。本来比較できない二つを脳内で戦わせながら背後に迫るヘッドライトを夢想する。
――駄目だ。
届かない。パンダと呼ばれる車体はどうしても横をすり抜けはしない。ガタガタのライン、リアバンパーがカードレールを擦る。ほら、ここで失速。
何度繰り返しても気持ちは切り替わらなかった。今夜はあのキンコンが聞きたい。物足りない。アクセルを緩めてふうっと息を吐こうとし、急に拓海は背筋を緊張させた。
まだ追って来る。ヘッドライトが。
夢想のハチロクではなく本物の光がかあっと車内を照らし、コーナー手前でアウトからぬるっと車体が迫る。本能的に抜かせるものかとステアを切ったがもう遅かった。眼前に飛び出した車が軽いS字で流れて行く。そのハザードがぽんぽんと点滅を繰り返した。
「あっ」
速度を緩めた車がバンパーに近付き、また少し離れた。
「なんで……」
再びハザードが点灯した。止まれと呼びながら完璧なラインを保つ白いサバンナから目を逸らし、拓海もハザードを点滅させた。
「驚いたな」
峠途中の公園脇で涼介は開口一番に言った。
「それ、いつからだ」
「……一月半くらい前」
切れの悪い口調で拓海は足元に声を出す。目の前の涼介は細身のジーンズを穿き黒いシャツの裾を風にはためかせていた。峠の風は暑く、混乱に追い立てられてこめかみを流れる汗を拓海は拭う。
「じゃあ、この間行った時にはもうあったのか」
「別のとこに止めてたので」
それにしても、と涼介は興奮の混じった声色で呟いた。
「途中まで本気で俺を振り切ろうとしていただろう? また秋名にダークホースが現れたのかと思ったぜ」
「……いえ、気が付いてませんでした」
「気付かなかった?」
「考え事してたから」
「あれでか? 逃げてたように見えたが」
そうですハチロクから、とは言えず、拓海はただ頭を左右に振った。
「これ、親父のです。ハチロクは俺にくれるって」
誤魔化すつもりは無かったが、今は走りの話はしたくなかった。
「……そうか」
涼介はインプレッサに数歩寄り、腕組みをして言った。
「なるほどな……。ゆっくり話しをしてみたい人だ」
拓海が顔を上げると、涼介は目を細めて鈍く光る灰色の車体を見下ろしていた。
「誰と、ですか」
「親父さんだよ。おまえの」
「あんなの、別に……」
再び俯いた拓海の横まで戻り、涼介は少し中腰になるように屈んだ。
「藤原」
下からの視線を避けながら拓海はインプレッサのボンネットを必死で見つめる。
「忙しいんじゃないんですか、涼介さん」
早く帰れと胸の中で吐き捨てる。もう行ってくれ。これ以上は考えたくない。クルマのことも自分の失敗も、どこまでも先を行く涼介のことも。
「そうだな」
姿勢を戻して涼介は気楽そうに言った。
「どうしても曲がれなかったんだ」
「……え?」
「あの角を、どうしても曲がれなかった。だからそのまま真っ直ぐ秋名に上がって来た」
峠道に至る市道から商店街への曲がり角のことだと察し、拓海は無言で涼介の靴先を見る。
「どうしても曲がりたかった。でも出来なかった。仕方がないから湖を見ていたんだ。その帰りに、崖下にダイブするみたいにコーナーに飛び込むキレた車を見つけた。時々失速するから酔っ払いかとも思ったが、ドリフトの仕方に見覚えがあるような気がして追って抜いてみた。そうしたらおまえが乗っているから」
そこで言葉を止め、涼介はいきなり手を伸ばして拓海の顎を持ち上げた。きつく視線を絡め、はっきりと発音する。
「セックスしたくなった」
目を瞬くしかない拓海をちりちりと切り裂く眼差しが辿る。
「それだけだ」
指を離し、涼介はふっと笑った。
「おやすみ」
くるりと背を向けた涼介に拓海は間髪入れず言った。
「いいですよ」
振り返る涼介が、こいつキレたなという顔をする。
「ここでなら」
「藤原」
「俺今日、仕事だからどっか入る時間無いんで」
別にキレた訳ではなかった。そうしてもいいと思った。どうしても曲がれなかったと言う涼介となら、寝てもいいと思った。理由なんて知らない。
「どうしようかな……。リアは無理っぽいしフルバケは論外だし」
辺りを見回してから鈍色のボンネットを見下ろし、ここにします? と指差した。
「藤原」
「時間かかりますよね、すぐしないと」
言って涼介の手を掴み、ぐいぐい引いてインプレッサの上に押し倒す。覆い被さり、首筋に唇を触れた。ごつん、と肘をボンネットにぶつけた涼介は体を捩って拓海の下から抜け出ようとする。
「何? したいんでしょ、涼介さん」
「ああそうさ」
言いながら拓海の両肩を押し戻そうとする涼介に首を傾げる。
「じゃあ大人しくして下さい」
長い体を押し返すと、がしっと顔を掴まれた。
「少しは物を考えろ、藤原」
「うぐ、考えて、る、」
「そうじゃない。おまえにはそんなスキルはないんだ。思い出せ」
「すきる?」
「……ベッドでローション使っても出血させてビビってたガキが、ここで、何を、するつもりだって言ってるんだ。俺は今日は何も持ってないぜ?」
深い沈黙が落ちた。拓海が力を抜くと涼介はするりと車の上から降り、ボンネットに屈んで傷の有無を確認した。
「はあー」
「情けない声を出すなよ」
くっくと肩を揺らして笑い、涼介はぼさっと突っ立ったままの拓海に顎をしゃくった。
「来いよ」
なんだろうと素直に後に従うと、涼介はFCのサイドにもたれて手招きをする。灰色と白に挟まれた隙間に収まると、すぐに手のひらが汗を滲ませた頬に吸い付いた。
「あの」
「いいから」
撫でるように口付けされ、火が灯るように唇が熱を帯びる。この間まではこんな風にはならなかった。それを舐めると気持ちがいいのだと知ったから、近くで待っている薄赤い粘膜に少し背伸びをして深く触れる。相変わらず涼介は目を閉じず、拓海もまた縫い止められたように視線を外せない。
逃げる舌を追い与えられる舌を吸い押し入る舌に我を忘れた。しがみつく体はFCのボディに沿って軽く仰け反り、拓海の髪や背中にねっとりと指が触れる。熱い。涼介の匂いが濃く鼻腔を満たし、止めようのない衝動に戦慄しながらただ長く深くキスを繰り返していると、小さく金属音が聞こえて腰を引っ張られた。あれ、と目だけで下を窺えばベルトが外され、ジーンズもトランクスも降ろされていく。すぐにその手は涼介自身のベルトにかかり同じように下半身を露出させた。
「え」
慌てる拓海の手を掴んで自分の性器を握らせながら、涼介の唇が頬から耳へと滑る。
「入れるだけがセックスじゃないぜ……?」
囁きと同時に拓海のものにも手がかかる。
「あ、う」
的確に性感をついてくる涼介の手に体が震える。そして彼の性器が時折ひくつきながら体積を増していくのは拓海のせいだ。もっとすごいことをしようとしていたはずなのに、それを思うだけで視界が白むほどに血が上る。行為の生々しさに拓海は目の前の体からにじり下がった。
「あ、の、なんかこれ……」
逃がさないぜ、と耳に噛み付いて引き寄せ首筋や顎にキスを落としながら、涼介は腰の位置を落として二つの熱を擦りつけた。
「うわっ、あの」
「嫌か?」
「そ、そうじゃなくて……。す、すげー、恥ずかしいんです、けど……」
「顔赤いな」
「だっだから!」
「もっと近くに来い。すぐに気にならなくなるさ……」
きつく握られて首を竦め、拓海は少しだけ体を寄せた。涼介はジーンズを踏みつけるようにして片足を抜き、拓海の膝裏辺りを巻き込み更に密着してくる。軽く揺すられて拓海の意識はくらくらと眩暈のようにぶれた。
「ん……」
絡まり撫でられる指の間までがむず痒く感じる。朦朧とし始めた頭を振ろうとしても、顔から唇が離れてくれない。下唇をやんわりと噛まれて開いた喉から、気持ちいい、と掠れた声が漏れた。
「俺もいいぜ」
ふ、ふ、と短く息を吐く涼介の声も掠れている。足を深く交差させ、いつの間にか拓海も強く腰を押し付けて動かしていた。首の後ろに伝う汗にさえ性感を煽られ指がぬめり湿った音が耳を犯し、いきそう、と絶え絶えにうめく口を塞がれて息を止めた。
「ん、う、」
がく、と膝を崩しながら拓海は吐精した。口内の舌が痙攣するように震えながら逃げていき、唾液を垂らして俯く涼介の眉がきつく寄っている。ぼんやりする頭を汗で湿ったシャツにもたせ掛けてはあはあと呼吸を継ぎ、離れていく指を感じた。互いの鼓動が触れ合った胸の上を競うように流れていく。
全身が汗で濡れている。真夏の野外ですることじゃない。吐いた息が熱すぎる。
「良かったか……?」
耳の側を汗ごと舐め上げられ、うん、と呟いてなんとか自分の足で立った。もっと頼っていたいが、これ以上は肌が焼けてしまいそうだ。斜めになりながらFCに手を付こうとしてはっとした。
「あ……うわ、こええ……」
思わず口走る。両手が精液で濡れていた。二人分だと思っても異常な量に感じて途方に暮れ、同じように両手を汚した涼介を見やった。なるほど、とでも言いそうな顔で自分の手を見ていた涼介は、少し考えるように首を傾げてから右手の人差し指を口に入れた。呆然と見ている拓海の前でそれを吸い、拭った指先でFCのドアを開けた。狭いリアシートの下から同じ指に引っ掛けてティッシュボックスを吊り上げ、拓海の前にぶら下げる。
「……」
「どうした、拭けよ」
「あ! ハイ!」
ずばずばと大量に薄紙を引き出し、なんとなく涼介から背を向けて手と性器を拭いた。服を直しながら、すごいことをしたのかも、としみじみ溜息を吐いていると不意に頭上の街灯の光が弱まったように感じた。遠いガードレールの向こうに浅く昇った太陽と朝焼けが見える。あまり時間が無いようだ。
「涼介さん、もう俺」
と顔を上げると、身支度を終えた涼介が指の股に残った精液を舐めていた。
「うっ」
「結構時間食ったな」
「な、なんで……舐めるんですか……」
逆に不思議そうな顔で見下ろされた。
「気にならないか、他人の味」
「な、ならない!」
「ふうん」
妙な余裕を貼りつかせた顔で涼介はにやりと笑った。瞬間、沸騰するように顔が熱くなり、すいません俺帰りますとわめいて拓海はインプレッサに飛び乗った。どすんとかかったエンジンの音に心臓を跳ねさせ、後も見ずに峠を駆け下りた。
区間タイムは最速だったはずだ。
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