「真打登場ってか」
顔を見た途端に文太はそう言い、のっそりと店の中に足を戻した。
「車で待ってろ。引っ張り出してやる」
「いえ、ここで少し話ができればそれで」
「そんなんじゃ出てきやしねえよ。つーか面倒は表でやってくれや」
片手を振って苦笑した文太は、背を向けると家中をびりびり鳴らして怒鳴った。
「たーくみー! 起きろヤバイぜ祐一のスタンドが燃えてるってよ! イツキが見つからねえってシルビアの兄ちゃんが泣きいれてきたぜ!」
階上でどすんばたんと大きな物音が響き、続いてずべべべべ、と何かが落ちる音がする。
「いってくっそ、マ、マジで!?」
階段下から這い出てくる拓海に
「おうマジマジ、外出て来い!」
と叫び返した文太は唖然としている長身を運転席に押し込みセルを回し、ナビ側のドアを開けた。それが済むとよろよろと靴を履いている拓海の首根っこを掴んで背中から引きずりナビシートに放り込んだ。
「集中ロックだ、兄ちゃん」
ほれ行け、とドアを閉める文太に辛うじて会釈を向けてから涼介はアクセルを踏んだ。
「イ、イツキが……」
拓海は文太の姿を窓から追いながら速い瞬きを繰り返している。
「ど、どうしよう池谷先輩、火ィ消えてねえの? そん時イツキ、何して」
た、とドライビングシートに視線をやった拓海は、ぎゃーと雄たけびを上げた。
「落ち着け」
「なっなっなっなんでっ!」
「さっきのは嘘だ。何も燃えていない」
「はえっ?」
「悪かった。俺が呼んでもおまえは出てこないだろうからって、藤原さんが気を遣ってくれたんだ」
涼介を凝視しながら事態を頭に収めた拓海は、一気に顔を真っ赤にした。
「あんのくそオヤジー!」
もう一声吼え、拓海はロックされたドアをがちがちと揺さぶる。車は十五号線を高崎方面に流れている。
「俺降りますっ」
「頼む、話を、」
「嫌です降ります!」
「藤原」
「嫌だって言ってんだよ降ろせよふざけんな今更なんなんだよ!」
怒鳴り散らして暴れシフトレバーにまで手を伸ばしてから、拓海は不意にスイッチが切れたように大人しくなった。
「ホントにやだ」
窓に顔を伏せるように身をよじる。全身で拒否を伝える姿に涼介は眉をしかめた。
「少しだけ、話を聞いてくれ」
「ヤです」
「頼む」
「俺、なんも聞きたくない」
「……だったら降ろせない」
堅い声で言い、涼介は右足の踏み込みを深くした。拓海はドアにぴったり体を寄せて背中を見せ、時折落ち着き無く窓から景色を確認している。やがて到着地点を予想したらしく焦る様子を見せ、降ろして下さいともう一度言った。涼介は無言のまま住宅街に入って行った。
「藤原」
自宅の車庫にFCを滑り込ませ、涼介は小声で呼んだ。家人はまだ帰宅しておらず、他に車は無い。集中ロックを解除すると、拓海はその音にびくりと体を震わせてドアに手をかけた。
「頼むから少しだけ話をさせてくれ」
掠める視線を手繰り寄せながら涼介は深く息を吸う。
「藤原、俺は」
だが、言葉を続けられずに自分の爪先辺りを睨んで唇を噛んだ。
こうして拓海のために声を失うのは何度目だろうか。低く唸るエンジン音がやけに車庫の中に反響しているのを聞く。時間ばかりが過ぎていく中、沈黙に焦れたのかナビシートの上の人影がごそりと動いた。
「外、出ても、いいですか」
間を置かずにもう一度同じことを言われ、言葉が出ない以上止める理由を思いつけずに涼介は頷いた。
ばくっとドアが開いて閉じる。走り出す足音が車庫に響き、それが遠ざかってアイドリング音にかき消された時、涼介は骨が抜けたようにハンドルに突っ伏した。
追いかけてやらないと。車内のデジタル表示は終電がとうに出た時刻を示している。そもそも出掛けの様子では携帯も財布も持ち出してはいないだろう、そう思っても指一本動かせずに涼介はうつ伏せていた。ハンドルにしがみついているだけで精一杯、この車の中で一生暮らすこともできそうなほど体が重い。そう言えばまた何日間か寝ていなかったことを思い出し、急に側頭部に頭痛を感じた。もう終わった。終わらせた。追いかけられないのならば諦めてキーを抜き、部屋に上がって眠ればいい。それが嫌なら峠でも大学でも、どこへでも行けばいい。
「嫌だ」
どこにも行きたくない。眠ることさえしたくない。何も、できない。
濁った思考に漂いながら涼介は浅い呼吸を繰り返した。がつがつと内側から殴られているようにこめかみが痛み、自家中毒、という単語を思い出す。涼介には十歳頃、急な嘔吐と頭痛に悩まされていた時期があった。今ではそれが周期性嘔吐症ともアセトン血性嘔吐症とも呼ばれる症状だと知っているが、当時はなぜか親には言えないものだと信じ込んでいた。一人手洗いにこもって黄色い液体を吐き、自分が細かく揺れているのを感じながらベッドに入って体を丸めた。今の気分はその時のものと似ている。羽の入った布地に包まれて世界から切り分けられていると、ほんの少しだけ安心できたのだ。
布団が車に変わっただけか。滑稽さに唇に笑いを乗せても頭痛は激しくなるばかりだった。どん、と耳の中に低い音が響いて脳が震えたように感じ強く目を閉じる。何度も繰り返される音に黙れと悪態をついた時、名前を呼ばれたような気がした。父親だといいが、そう思いながら涼介はハンドルに吸い付きたがる頭をぎりぎりと持ち上げて窓に目線を向けた。
そこには拳をガラスに押し付けた拓海が立っていた。涼介と目が合うと、開けて、と大げさに口を動かしながらドアをがちゃつかせる。無意識にロックしていたらしい。解除すると拓海はすぐにナビ側に回り、当たり前のようにシートに座った。どうぞ、と突き出されたものを反射的に受け取ればそれは缶コーヒーで、何度か缶を手の中で回してから涼介は掠れた声で聞いた。
「……どうしたんだ」
「ドアポケットに五百円玉入ってたんで」
拓海は水が入ったボトルに口をつけている。
「そうじゃない。帰ったと思ったんだ」
「逃げたら、あんたと同じになるから」
背もたれに体を預け、涼介は手の中のコーヒーを見つめた。
「っていうのは、今思いついた。ホントは」
走行中の硬い態度を忘れたように、拓海はわずかに笑う。
「ここ入って最初にロック解除してくれたでしょ」
「……」
ぐびぐびと水を飲み、一つ息を吐いてから拓海は続けた。
「それに」
ほんの少し目が合った。拓海は頬を上気させて困ったように唇を軽く開いている。いつもの、涼介を見る時の顔だった。
「それに俺、曲がれなかったりしゃべれなかったりする涼介さん、結構イイって思うし。最後に、一緒にお茶飲むくらい、してあげようかなって」
開けないままの缶が指先をすり抜けて足元に転がった。いつまでも拾おうとしない涼介の代わりに狭い場所に手を突っ込み、はい、と突きつけた拓海はぽかりと口を開けた。
「涼介さん」
受け取ってもらえない缶をダッシュボードの上に転がし、拓海は視線を泳がせた。
「俺、色々聞きたいことがあったのも、思い出して」
前を向いたままの涼介をちらりと見、拓海は軽い咳払いをした。
「えと。なんで、キス、したんかな、とか」
「したかったからだ」
「なんで、俺としたいんだろー、とか」
「他にしたい相手がいないから」
ペットボトルのふたを閉め、それもダッシュボードの上に置いて拓海は何度か自分の頬を引っ掻いた。
「涼介さん」
見つめられ、涼介はわずかに顔を背けた。
「俺に、なんか言うことあるでしょ」
「別に」
「あるって」
「新しいメルアドと番号、教える」
「そうじゃなくて」
「なんだ」
「言ってよ」
「言いたいことなんてない」
じゃあなんで、と拓海は手を伸ばした。腿の上に投げ出された手を握り、掬い取るように目を見上げる。
「じゃあなんで、泣いてんの」
それしかできないように造られた、そんな悲しげな動きで涼介は顔を傾けて拓海に口付けた。
「泣きたいからだ」
固まりきらない揺れる黒が、溶けだしながら拓海を見る。
「嘘ばっかり」
「なにが」
「言ってよ」
「言いたいことはない」
「ケチ」
「なにもない」
「減らないのに」
「なにも、ないんだ」
「じゃあ俺も言わない」
「それでいい」
「絶対に、言ってやらないから」
しっかりと指を組み合わせて今度は拓海から口付けた。ねえまだ間に合うよ言って、頬を撫でて涙を触りシートに押し付けセンターコンソールに乗り上げて絡まる舌を解くとセックスしたい今すぐしたい、眉を寄せた顔で涼介はうわ言のように告げる。そうじゃないでしょしたいんだ違うって違わないでももういいよこんな。
「こんな狭いとこじゃなんにもできないよ涼介さん」
それぞれのドアを開けて互いに掴まりながら家に入った。足に力の入らない涼介がリビングの真ん中でもうここでいいと寝転がり、辛うじて正気の拓海がもうちょっとがんばってと階段へと引っ張る。部屋に入るなりベッドまでの数歩を我慢できずに服を脱がせ合い、真面目そうな机の引き出しをひっくり返してローションとコンドームをばら撒いた堅い床の上で早く早くとまさぐり合って体を繋いだ。
噛み合った粘膜の温度に拓海が溜息を零す。その首筋を興奮しきった涼介が引っ掻く。
膝裏に手を当てて胸まで引き上げ、上から限界まで突き入れればキスが出来ることはこの間涼介が教えた。下肢と同時に肉を差し入れて唇を犯す快感に夢中になる拓海の下、きつく折りたたまれた姿勢で涼介は自分の性器を握った。ああもうだめだと唇の間で呟きが漏れて穴が収縮し、指の間から白濁が滲んで脇腹へと流れる。ひきつる足を開き小刻みに揺らす拓海の腕を濡れた手が掴んで、そこ、と軋んだ声がねだった。
「藤原、藤原藤原ふじわ、」
「あ、ごめ、い、く」
がつがつと揺すぶって射精する拓海の丸めた背を拳が叩き、被さってくる肩に歯が食い込んだ。背骨の真上にも薄赤い線を刻み、涼介は喉を反らして震えた。
「あ、あ、くう、抜、くな」
「待っ、て、」
「も、と、」
「待、ね、ちょっとだけ、落ち着いて涼介さ、」
「ふじわら」
「すぐゴム換え、うわ何っ」
やにわに起き上がった涼介が、新しいラテックスを被った先端を拓海の手から奪って口に含む。ヤメテヤメテとうろたえる声を無視して少し萎えた性器に舌を這わせて完全に立たせると、押し下げ引き上げしてぴっちりと根元まで人口の膜を被せる。耳まで赤くなった拓海を見上げ、涼介は熱く溜息を吐いた。
「おまえいつも、着けるの下手過ぎる」
「えっマジで」
薄く笑った涼介はくらりと体を傾け床に手を突いた。熱病で死にゆく人のように焦点を怪しくして支える腕に頼る。拓海はひどく慌てて体を引き寄せた。
「う、うん、ベッド、ベッド行こ」
マットレスに倒れて四つ這いで体を探られると、涼介は自分から腰を浮かせた。
「このままする、けど」
「いい、早く」
丸い先端を押し付けられ、窪んだ肉から入れすぎたローションが溢れる。くう、と息が潰れて涼介は硬直し、根元まで咥え込んだ途端にがくっと膝が崩れて二人一緒にシーツに突っ伏した。
嘘、と呟く拓海の下で声も無く涼介は射精していた。足を痙攣させながらぜいぜいと喘ぎ、のたうつように両手がシーツを掻き毟ってから癇癪を起こしたようにどんとマットレスを殴った。
「動けよ!」
喉を反らしてわめき、またマットレスを殴りつける。
「ふじわ、らっ!」
「うわ、なんで、こんな」
うっ、と湿った声さえ出して涼介は全身を震わせる。その激情に巻き込まれるようにして拓海が腰をにじらせ始めるとそれまで聞いたこともない悲鳴が上がった。
「あっ、あーっ、ちくしょう!」
「りょ、涼介さん」
動きを止めて顔を覗き込む拓海の手首にがりっと爪が立ち、歯を食い縛り汗まみれになっている横顔がまたわめく。
「動け、って言っ、てる……っ」
「や、止めた方が、」
「イイすごくいい気持ちいいまだイキたい! もっと言えばいいのかっ」
「わ、わかりましたわかったから……っ」
互いに髪が濡れるほどに汗をかいていた。
抱く腕を抱き繋がった粘膜を同じ温度に暖め、締め付ける肉と突き上げる肉、ただそれだけの存在になりながら、涼介さんやっぱりあんたずるいです、ついさっき宣言したばかりなのに我慢出来ない、ああ涼介さん涼介さん涼介さん俺、シーツを唾液で濡らしながら酸欠に喉を潰して声など出ない涼介の耳元、好きだ涼介さん好きですと何度も告白が繰り返され、やがて二人ともがほとんど安堵の溜息を吐いて脱力した。
「りょ、まだ」
「も、い、」
「ん」
乱れる呼吸を散らしながら体を分け、互いを手繰り寄せてぎちりと腕を閉じ合う。
「悪、かった」
「なに?」
とろりとまぶたを下ろしながら拓海は呟いた。すぐ目の前で涼介は視線を一滴溶かし、それを隠すように触れるだけのキスをする。
「やめるのが……いいと思……。でも……できなか、」
「いいよ、もう」
俺好きだから、唇を押し付け返して拓海は呟いた。
そして舌を絡める前に、どちらの意識も飛んだ。
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