外報部長の時間外労働な夜

「出て来い、涼介」
『話すことはない』
「涼、」
 ぶつ、と電話は切れた。ツーツーと単調な音に耐えるように目を閉じてから、史浩は携帯をナビシートに放った。


 神奈川遠征は明後日に迫っている。心労で二キロほど痩せた史浩は、日課になりつつあるとうふ屋詣でに向かっているところだ。ロードスターを振り回して商店街に頭を突っ込み、駐車スペースの前でエンジンを切る。
「あんたもまあ、損な性分に生まれついたもんだな」
 昨日から店の前で待ち構えるようになった店主に頭を下げた。
「夜分に申し訳ありません……」
「いいから上がれや」
「お邪魔します」
 眉を下げる人の好い男の肩を叩き、文太はタバコを吹かしながらとっくに閉めた店先の椅子に座った。その横をすり抜けて靴を脱ぎ、史浩はぎしぎし鳴る階段を上がった。
「おい、藤原」
「いません」
「入るぞ」
「いませんってば」
「今日はちゃんと話をさせてもらう」
 ふすまを開けると、拓海は床にあぐらを組みベッドに顔を伏せていた。
「藤原」
「寝てます」
 時間は十一時半、朝の早い彼が本気で眠そうな声を出す様子に苦笑して史浩もあぐらをかいた。古い照明が下がるこぢんまりとした和室は、若干褪せた青灰色のカーペットが畳を覆い、未だ学習机が大きくスペースを取っている。ラジカセもコンポも見当たらず、車雑誌が何冊か転がっているだけの質素というよりも人生そのものに興味が薄いとでも言いたげな飾り気の無い部屋の中、半開きの押入の端でほこりを被っている小さなクリスマスツリーが目を引いた。
「わかった、寝てていい。勝手に話させてもらうから」
 松本曰くの『バースト』の翌日、史浩は拓海の様子を見に来た。丁度仕事から帰って来たらしい背中に声をかけると、生気の無い落ちた肩越しに不必要なほど苛烈に睨まれ、それ以上言葉が出なかった。責任感を煽られ連日通って結局家にまで上がり込んだが、どうしても会話は成り立たなかった。互いに避けたい言葉を言わずにいると、話せることなど無いからだ。それは、頑なに顔を見せない電話越しの涼介も同様だった。
「悪かった。俺のせいだ」
 このところ謝ってばかりだなと心中で溜息を吐き、史浩は拓海の後頭部を見つめる。
「なんで史浩さんが謝んですか」
 姿勢を変えず、ぐりっと顔だけを向けて拓海は閉じそうな目で史浩を見返した。
「俺が涼介に言ったんだ。今、藤原はまずいって」
 当事者がすっかり岩戸に隠れてしまうなら、代わりに出て行くのは史浩しかいない。他人の庭を荒らすような真似は本来史浩の主義にも涼介の意向にも反するが、火薬を撒いてしまった以上、始末をつけない訳にはいかない。
「ふーん」
 頭から突っ込む覚悟をした史浩の緊張を無視するように、拓海は気の無い返事を返した。
「ふーんて……」
「なんか、史浩さんが噛んでんだろーなとは思ってたんです。でも言われただけでその通りになんかする人じゃないでしょ、涼介さんは」
「……」
「結局俺がダメなんです」
「藤原、」
「くらぶさんど、美味かったですよ。なんか黒い風呂がむき出しだったけど」
 染みの多い天井の木目を仰ぐ。本当に高橋涼介という男は、馬鹿だ。
「あのホテルな、全室風呂場が変なんだ。水辺をイメージとかなんとかで」
「うわーマジですかーやられたー」
 棒読みで言う拓海はまたうつ伏せる。
「史浩さん、涼介さんねえ、ホテル出てすぐサングラスかけてたんですよー。夜中の三時に。赤城でもかけてたし真夜中に。だからむかついた」
「意味がわからんぞ」
「だからー。涼介さん、目で訴えるから。言ってることと違うこと」
「……」
「目ェ見せられないようなこと考えてたってことですよ」
 ぼうっとしているようでよく見ている。何度か左右に振るようにしてシーツに顔を押し付ける拓海の頭を眺め、そうかもな、と史浩は呟いた。
「涼介さんはいっつも勝手に決めて勝手にやるじゃないですか。俺、全然そん中に入れてもらえない。Dならいいんです。涼介さんが正しいって信じてるから。でもこれは違うって思う。二人でやったことなのに、俺、ハブられた。史浩さんだとか原因だとか、そういうの関係なくって結局俺がダメなんです。俺がダメなんです」
「いや藤原、それは、」
「史浩さん、俺ね、本気とか大事とかもうそんなのどうでもよくって、二人でちょっと悪いことするって感じ、それだけでいいって思ってた。でもそれ勘違いだったみたい。史浩さん、俺勘違いしてたんだー。二人、なんかじゃなかった。涼介さん一人だけだったんだ。あの人が本気になったら俺なんて簡単にボコれるんです。許してもらってちょっと触らせてもらっただけで、だから俺は始めっから関係なくてずっと関係なくって俺、便所だったなあって」
「おい藤原、涼介はそういう人間じゃ、」
「もういいんですなんかもうそれでいいです。こんなの考えるのもうヤだ」
「……」
「Dは最後までちゃんとやります。もう涼介さんともモメません約束します」
「藤原」
「寝てます」
 それからは、何を言っても拓海は反応しなかった。十分ほど粘ってから史浩は立ち上がり、伏せたままの頭をぽんと触ってから部屋を後にした。



「涼介」
『俺は寝てる』
「ったくどいつもこいつも……」
『切るぞ』
「泣くほど嫌なら俺なんぞ無視してりゃいいだろうがばかやろう!」
 フロントガラスを震わすほどの大声を出し、携帯を切った。ああすっきりだちくしょう、と鼻息荒く国道をぶっ飛ばしていると、すぐに呼び出し音が鳴る。無視していると一度切れてまたかかってきた。
「運転中にかけてくんな!」
 何も言わせず切った。間髪入れずに電子音が響く。
「うるせ、」
『藤原が、俺が泣いたと言ったのか』
「……」
『史浩』
「あいつはもっと好意的に解釈してる」
『……』
「好意的すぎて、結論が便所になってたがな」
『なんだそれは』
「二人で悪さしてるつもりだったらしい。でも結局はおまえ一人の問題で、自分は便所だって気付いたんだとさ。なかなか鋭いな、あいつは」
『……』
「なあ、涼介?」
 電話の向こうで何度も息を呑み込む音がする。言葉も息も感情も、全て呑み下して無かったことにしようとしている音がする。無様しやがれ失敗しちまえばいい、無言の間隙に耐え切れず、史浩は意味もなくクラクションをぶん殴った。
「ああそうかよ一人で泣いてろ馬鹿!」
『泣いてない』
「そーかそーか良かったな!」
『……』
「藤原はおまえに振り回されて気絶しかけてる。だから、なんとかしろと言ったんだ」
『ああ、わかってる』
「わかってる?」
 街路樹の脇に投げるように車体を寄せて停車し、史浩は額を押さえてシートにもたれた。
「俺はビビってるんだ、涼介」
『自分で言っただろうが。おまえは静観していればいい』
「ここまできてそんな恐ろしいことができるか。おい涼介、本当に申し訳ない話だがはっきり言っておくぞ」
 涼介の呼吸音を聞きながら、史浩もまた大きく息を吐いた。
「俺は、実のところ藤原なんぞどうなっても構わない。おまえが正気でいられるなら、どんなことにでも目を瞑る。あの時俺は、今のおまえにはプロジェクトが必要だと思ったから、その遂行を危うくする因子をどうにかしろと言った。だが、それを取り除くことでおまえがおかしくなるならどうぞ好きにしてくれ。いくらでもバックアップしてやる。藤原の処分に困ってるなら明日にでもどこかの山に埋めてきてやるし、プロジェクトの責任者が俺だとホームページに載せてから十トントラックに突っ込んでもいい。だから安心して好きにしろ」
『……嘘つきめ』
「ああ嘘だ。俺は本当のことなんか言わない」
『……』
「もう一つ教えてやる。泣いてるのは藤原だ」
『史、』
「今すぐ行け。土下座して謝るくらいなら、おまえ一人ででもできるだろう?」
 長押しして電源を切る。沈黙した小箱をダッシュボードの上に投げ、史浩はタバコ吸いてえなと呟いた。







Initial D TOP