史浩は、赤城山の標高約千四百メートル付近に位置する某駐車場の真ん中に立っていた。もちろん青ざめている。腹はまだ痛くない。
「史浩さん」
隣には、穏やかに微笑む松本が寄り添っている。奴が笑っている間は最悪ではないと史浩は己に言い聞かせた。
「これ、俺らのせいですよね」
さらりと胃粘膜を刺激する松本の言葉に史浩は額の汗を手の甲で拭った。
「いや……。俺、のせいだと思う」
「やっぱりあれ、モメてたんでしょうボンゴで」
「わかってたならフォローしてくれよ……」
「いやー黙ってりゃいいと思ってたんですよははははは。藤原、絶好調でしたしねえ。まあ要するに、ハチロクがちゃんと走りゃいいんですよ俺はね」
「ああ、おまえは正しいよ……」
「ですよねー」
「……」
その日拓海から、お中元の駆け込み配達のせいで残業続きだというメールが史浩に届いた。ミーティングの集合時間はいつもよりかなり遅い時間にずらされたが、結局拓海は間に合わなかった。
先に神奈川初戦の説明を受けたFDチームが軽く足回りのチェックを済ませて日付が変わろうとする頃、断末魔のようなタイヤ音が響いた。なんだと顔を上げたメンバーの前、とんでもないスピードで駐車場に突っ込んで来た白黒の車体がアスファルトにくっきりとタイヤ痕を残し、その中からバトル中でもこうはいくまいという気合以上の何かをまとわりつかせたダブルエースの片割れが姿を現した。
のんびりと声をかける松本に会釈をして合流した拓海に、涼介が資料とビデオを渡して淡々と次回遠征先についての説明を始める。無言で頷く拓海と目を合わせるのは濃いサングラスで視線を隠した眼前のリーダーだけ、早くも背中に嫌な汗をかきはじめた史浩の横で、何かやらかしそうですねえ藤原は、と慈悲深い声で松本が呟きハチロクのボンネットを撫でた。
こういう時には真っ先に事態を掻き混ぜるはずの啓介が、解散の声を聞くとあっさり賢太に付き合って麓へと向かった。微妙な雰囲気を察知していたようだが、FD担当のメカニックも軽く頭を下げて自分の車を出した。拓海はビデオと資料をリアシートに乗せ、松本はハチロクがあれば幸せだとばかりに微笑んでおり、史浩は僅かに安堵してしかし、壁を作って内にこもる風情の涼介をちらちらと見る。
丁寧な手付きで松本がボンネットを開けた。彼が次の軽量化の構想を涼介に説明し始めると拓海も大人しくそれを聞いているので、史浩は一つ溜息を吐くと缶コーヒーを買いに駐車場の隅まで歩いた。甘いのを二つ、ブラックを二つ、腕に抱えて戻ろうときびすを返すと、松本がゆるゆると歩いて来る。俺は午後ティーロイヤルがいいです、と笑う鼻先にミルク入りを突きつけた時、ばちっと破裂音がした。
「やりましたね」
かしりとプルトップを押し込みながら松本が言った。彼の視線の先、フルスイングしたらしい拓海が腕を伸ばし、涼介が顔を背けている。殴りやがった、と血を下げた史浩を、恐ろしく静かで感情の無い声が否定した。
「それ、似合いませんよ、涼介さん」
十メートルほど飛ばされてばらばらになったサングラスがアスファルトの上で光っている。涼介は何も言わない。
「な、なんで離れたんだ、松本……」
「いやあ、どうせバーストするならバトル前がいいと思いまして」
ごくごくとコーヒーを飲み下す男の横で史浩は数秒間目を閉じた。
「史浩さん」
松本が笑っている間は最悪ではないと己に言い聞かせる。
「これ、俺らのせいですよね」
さらりと胃粘膜を刺激する松本の言葉に史浩は額の汗を手の甲で拭った。
「いや……。俺、のせいだと思う」
「やっぱりあれ、モメてたんでしょうボンゴで」
「わかってたならフォローしてくれよ……」
「いやー黙ってりゃいいと思ってたんですよははははは。藤原、絶好調でしたしねえ。まあ要するに、ハチロクがちゃんと走りゃいいんですよ俺はね」
「ああ、おまえは正しいよ……」
「ですよねー」
「……」
二人の視線の交わる辺り、下ろした手をきつく握った拓海が、涼介を睨み上げながら細かく震えている。
「涼介さん」
それにも関わらず、声はひどく澄んでいた。
「俺馬鹿だけど、あんたが思ってるほど馬鹿じゃねえよ」
ひりひりした空気を垂れ流して拓海は叫んだ。
「もういらねえならいらねえって言えばいいだろ! あんな逃げ方すんなよ!」
「悪かったな」
顎を逸らし気味に拓海を見下ろし、涼介は口角を引き上げた。
「ああ、いらねえよ」
どん、と鈍い音に史浩がうへえと情けない声を出し、大丈夫ですよドライカーボンだしリブもいい感じですからあれくらいじゃヘコみません、と松本が慰める。拓海の首を掴んでハチロクのボンネットに背中を叩きつけ、腹の上に膝を乗り上げた涼介が吐き捨てるように言った。
「調子に乗ってんじゃねえ、ガキが」
目を見開いて凝視する拓海に顔を近付け、涼介は声帯を圧迫しながら薄く笑った。
「わかってんなら大人しく捨てられてりゃいい。癇癪起こせば頭撫でてもらえるとでも思ったか」
正確に急所を絞める涼介の手を両手で掴み、拓海は何度か口を開け閉めした。
「それとも、慰謝料でも欲しいか」
一瞬の硬直に続いて猛烈に暴れた体は、髪を掴まれ地面に放り投げられた。あっと一声叫んで体を丸め、拓海はそれきり動かなくなった。涼介は振り返りもせず、携帯電話をジーンズから引っ張りだして耳に当てながら駐車場を出て行った。
残された三人は随分と長く、息を潜めていた。
「藤原」
最初に動いたのは松本だった。
「帰ろうか」
背中から羽交い絞めするように腕を通して拓海を持ち上げ、力無く投げ出された足を引きずりながら松本は史浩を呼んだ。
「ハチロクの後ろに付いて来てもらえますか」
「あ、ああ、わかった」
ナビシートに押し込まれた拓海はされるままにシートベルトで固定された。松本が運転席に座っても無反応のまま自分の膝辺りをぼんやり見ている。二台の車は、徒歩で峠を下る涼介を追い抜き、三四号線と関越道が交差する辺りで黄色いFDとすれ違った。
「よう、新顔だな」
寝静まった商店街の中でエンジンを切ると、待っていたかのようなタイミングでがらりと引き戸が開いた。こんばんは、と笑う松本がキーを渡すとやれやれと言いながら文太はハチロクをぐるりと見渡した。
「なんだ、ぶつけてねえな。鬼みたいなツラして出てったから今度こそ駄目かもしれねえと思ったぜ」
「綺麗ですよ、ハチロクは。藤原はこいつが大好きですから」
ふん、と煙混じりに鼻を鳴らして文太はナビのドアを開け、説明しようとワンボックスから飛び降りた史浩にぶんぶん手を振り嫌そうな顔をする。
「いい、いい、聞きたくねえ」
でけえ荷物だぜ全く、と零しながら拓海を引きずり降ろし、世話かけたなと言い置いて文太は店の中に引っ込んだ。店の奥に黄色い灯りがぼんやり点き、目エ開けて寝てんじゃねえよ、と呆れた様子の声が聞こえてくる。拓海の声は耳を澄ましても聞こえず、世話係二人は顔を見合わせてからワンボックスに乗り込んだ。
Initial D TOP