不機嫌な朝

 なんだろう、と思いながら拓海は目を覚ました。まぶたを開けてしまうと、何が気になって目を覚ましたかはわからなくなってしまった。

 まだ涼介は眠っていた。拓海の肩に頬を寄せ、片手に指を絡ませている。窓の外はかすかに明るく、日の出間際の青い陰影が部屋全体を覆っていた。
「涼介さん」
 しんとした顔を眺める。不自然な青い影を帯びた涼介は温度が無いような錯覚を起こさせるが、空調無しで密着していたせいで互いに汗塗れだ。首筋に汗が流れるのを感じながら、それでも無防備な涼介の指を解きたいとは思わずに拓海は手を握り直した。頬にキスをし、顎、肩へと触れさせて不意に、小さな衝動に駆られて唇を緩ませる。涼介と寝た翌日の拓海は、昼間から不埒な思い返しを何度となく繰り返し、時に思考停止に陥ることさえある。しかし目の前の人は、起きてしまえば澄ました顔で活動を開始してしまい、そんな思いにふけることなどなさそうに見える。実際、彼ほどの過密スケジュールをこなすためには、一々振り返っている時間などないだろう。
 それなら、と拓海は涼介の腕と肩との境目辺り、内側の柔らかい皮膚に唇を押し当てた。あまり大きな痕にならないように、でもくっきりと残るように、何度か吸っては確認した。結局随分と濃くなったような気がするが、満足して唇を離した。これで、二日間くらいはシャワーを浴びる時にでも自分とのことを思い出してくれるはずだ。
「……何時だ」
「び、びっくりした」
「データが……六時までに大学……行かないと」
 朦朧としている涼介をからかうように、拓海は胸を合わせて抱きしめた。
「どこにも、行っちゃだめです」
「ん……駄目、か……」
 寝ぼけている様子に笑い、離してやろうと腕から力を抜いた。
「藤原」
 逆に、涼介が拓海の背に腕を回してきた。
「行きたくないな……」
 意外な台詞に驚き、顔を見ようとしたがきつく腕が締まって動けない。圧し掛かってくる涼介の体重と力一杯に抱く腕に拓海の息が一瞬止まった。
「藤原……」
 甘く呼ぶ声と繋がらない、全力で締まる腕。本気で求められている、高橋涼介というとんでもない男が全身で自分を欲しがっている。そう思った瞬間、足の先から痺れるような恍惚感が襲ってきた。粟立つように背筋がぞくぞくと緊張し、胸の中が焦げるように熱い。
「涼介さん……」
「行かないと」
 わずか、顔を浮かせる涼介と視線が合い、あっと思う間もなく口付けに意識を奪われる。押し付けるだけのキスだというのに絶頂感すら覚えた。抱き返す腕を震えさせて拓海はされるままになっていた。
 やがてひどく残念そうな溜息が頬をくすぐり、唐突に拓海の上から体重が消えた。シャワーを浴びてくると呟いた涼介は本当に嫌がっている様子で、後ろを見ないように顔を背けて部屋を出て行った。


 戻って来た涼介が、ドアの外から出て来いと手招きしてまた階下に下りて行く。適当に身繕いをし、なんとなくシーツの皺を伸ばしてから拓海は部屋を出た。
 階段に人影が見え、呼びかけようとして口を噤んだ。肩を回すように両手を振り回しながら黄色い頭が上がってくる。啓介は一つあくびをし、シャツのボタンを外しながら階段を上りきり、何も見えていない様子で拓海とすれ違った。
「ああ?」
 数秒遅れて気の抜けた声が聞こえた。
「なに、おまえ」
 振り返った啓介と視線を合わさないように、拓海は壁際に張り付いて顔を逸らした。
「ど、どーも……オハヨウゴザイマス」
「うっす」
 そのまま数歩進んでからくるっと戻り、そーじゃねーよ、と啓介が戻ってくる。いえ俺帰るんで、と意味の無いことを言いながら拓海は階段をそそくさと下り始めた。
「フジワラ」
「……はあ」
 仕方なく顔を向けると、啓介はしかめっ面で言った。
「なんでおまえ、ひとんちで寝起きみたいな顔してんだよ?」
「さ、さあ」
 啓介はしばらく拓海の顔をまじまじと見ていたが、まあいいや、と呟くと自分の部屋に入って行った。


 シャワーを借りて出てくると、リビングはコーヒーの匂いでいっぱいになっていた。涼介はソファに深く座ってテレビを見ており、チャンネルを変えながら、飲めよとカップを指差す。
「台風来るぜ」
「台風? あ、遠征」
「逸れるといいな」
 向かいに座ってしばらくコーヒーを啜り、拓海はふと思い出してローテーブルの下に顔を突っ込んだ。
「やっぱり」
「なんだ?」
「ベルト。部屋に無かったから」
「なんでここにあるんだ」
 本気で覚えていないと言いたげな顔に肩を竦め、拓海はベルトを腰に回した。
「昨日涼介さん、ここでするってひっくり返ったじゃん。そん時にこれ、外したんだと思う」
「……知らねえな」
 ふんと視線を逸らす涼介に一つ首を傾げ、拓海はカップを置くと立ち上がった。距離はたったの二歩、逃げる間を与えずにぴたりと体を寄せて座り腰に両手を回した。
「藤、」
「涼介さんって、ものすごくフクザツ」
 でもいいんだと首筋に頬を摺り寄せる。
「わかんなくても、いいや」
 髪を撫でる指を感じながら、拓海は小さな溜息の音を聞いた。
「そうか」
「ズルイ、ずるいずるい涼介さん」
「……諦めろ」
 強く腕が背中に回って覆い尽くすように拓海を抱く。ふわりとした恍惚感にまた襲われながら顎を上げて唇をねだると、涼介は不機嫌そのものという顔で軽くキスを落とし、もう五時だと腕を解いた。


 拓海を自宅まで送り、昇ったばかりの太陽に照らされながら白い車は来た道を戻って行った。家の前で見るFCの後姿はいつも拓海を呆然とさせる。確かにあった物事が、急速に現実感を失ってただの映像のように頭の中を回るからだ。今まではわからなかったその意味を初めて理解し、拓海は更にぼんやりと瞬きを繰り返した。
 ――俺も、すごく嫌なんだ、涼介さんが離れてくのが。消えちゃってこのまんまになりそうで。
 落胆しながらふうっと肺を縮め、ぐるっと振り返ると背後を取ろうとしていた文太がおっと、と声を出す。
「……定休日に何してんだよ」
「エンジン音が聞こえたからな」
「年寄りは朝が早いんだってなー」
「四十男をジジイ扱いするたあ、大した親孝行だあな」
 タバコに火を点けながら文太は細い目をより細めるようにして、拓海をじっくりねめつけた。
「なんだよ!」
「憑きモン、落としやがって」
「はあ?」
「飯にするか」
 睨む拓海の横をすり抜け、健康サンダルの安いゴム底を鳴らしながら文太は家の中に入って行った。かけらも見えなくなった車の軌跡を追うように視線を滑らしてから、拓海もガラス戸に手をかけた。







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