ものぐるい

 スキール音が遠くかすんで消えていく。両腕を組み睨むようにコースに顔を向けている涼介の隣には、十五分ほど何も言わないまま拓海が立っている。既に調整を済ませたハチロクは、そのまま寝場所になるだろう木の下でエンジンを休めている。
「藤原」
「あ、はい」
 ちらと顔を上げる拓海と一瞬目を合わせ、涼介はまた前を向いた。今夜の拓海は何か気配が違う。浮ついているという訳ではないから、ただ好調なのだろうが。
「調子、良さそうだな」
 考えをそのまま口に出すと、拓海は素直に頷いた。
「いいです」
「コースも気に入ってるらしいな」
「面白いと思います。飽きないです」
 そうかと視線を変えずに言い、まもなく啓介が上がってくるだろう、黒の隙間に街灯が滲んでいるアスファルトを見つめる。拓海は一歩下がってワンボックスにもたれた。
「あの、タイム計ってるヤツがいるって聞いたんですけど」
 ああ、と涼介も下がって車にもたれる。小石を踏んだスニーカーがちりっと音を立て、拓海が数センチ近寄る。
「気にするな。今回の相手じゃない」
「敵も、本格的になってきたってことですか」
「そんなところだ」
 そうすか、と拓海は前を向く。腹の上辺りでしきりに両手を組み直している。街灯に照らされた顔はいつも通りと言えばそうなのだが頬の赤みが強く、手遊びする拓海はとても緊張しているように見えた。
「啓介はこういう状況が得意だ。見せつけてやる、くらいの気分でいるだろうな。おまえはどうだ?」
 はあ、と呟いて拓海は首を傾げた。
「特に、何も」
 拓海らしい無感動さに涼介はふっと笑った。
「まあ、そうだろうな。計測されてるのも気付いてなかったしな」
 いえその、と足下の砂をちりちり鳴らし、拓海はまた少し涼介ににじり寄る。
「変わりないならそれでいいが、俺には過度に緊張しているように見えるぜ」
「……緊張は、して、ます」
「当り前だ。バトル前にふぬけてもらっちゃ困る。必要以上に強張ることはないって意味だ」
「えと。そうじゃなくて」
 いつの間にか、二人の間に隙間は無かった。少し汗の滲んだ腕が触れ、見下ろしてくる涼介をすがるように見つめた拓海は、ええと、とまた言いながら一層顔を赤くした。
「なんだ?」
「すみませんっ」
 言うなり、拓海は涼介の組んだ腕を解いた。驚いて凝視してくる目から顔をそむけ、されるがままになっている左手をぎゅっと握ると大事なものを隠す素早さで背後に押し込んだ。
「……」
 背中とワンボックスの間できつく手を握られながら、涼介は拓海の次の行動を待った。しかし拓海は俯いてせいぜい照れているだけで、何か仕掛けてくる様子は無い。
「藤原」
 啓介のマシン音が徐々に高度を上げてくる。
「……はい」
「手を離せ」
「……」
 ヤダ、と拓海が胸の中で言ったのがはっきり聞こえた気がした。しかし、拓海はぎしぎしとぎこちなく指から力を抜いて涼介の手を離した。
「藤原」
 硬い声に呼ばれた拓海はぱっと飛び退った。予想を超えて涼介の機嫌を損ねたことにやっと気がついたようだ。表情を強張らせ、妙に背筋を伸ばして必死で目を逸らしている姿に二三度頭を左右に振り、涼介は尖った声を出した。自分の耳にすら刺さるようだった。
「来い、藤原」
 ハチロクに向かって歩き出したが、拓海は靴底が溶けてアスファルトと一体化したかのようにその場から動かない。振り返りきつく睨みつけて十数秒、拓海は数十メートルの距離を魂が抜けたようによろよろとした足取りでひどく時間をかけて歩き、涼介の後ろに立った。
「開けろ」
 ハチロクのナビ側を指差す。鼻に重りがついたように下だけを見ているエースは、一度キーをポケットから取り落としてからドアを開けた。涼介は彼を押しのけるようにしてナビシートに取り付きがくんと一気に倒し、その音に更に竦んだ腕をむずと掴んだ。
 声も無い拓海をリアシートに押し込める。街灯は遠く、暗い車内に更に黒く影をまとい、涼介は狭い場所に無理やり乗り入れドアを閉めた。拓海がすうっと息を呑む。
「りょ、」
「一分だ」
 え、と拓海が言い終わらない内に涼介はその体に乗り上げ、両手で頭を捕らえると食いつくように口付けた。歯がぶつかり、うう、とどちらともなく声が漏れ、きしきしとシートが鳴る。
 どこがどうなっているかわからない態勢で折り重なっていた。たぶんこれまでの人生で一番下手くそなキスをしている、そう思いながら啜り上げる涼介の唇に縮こまっていた拓海の舌がおずおずと差し出された。それからはひたすら互いをかきむしるように抱き合って舌を絡めた。
「は、」
 唐突に涼介は身を起こした。呼吸が止まっていた。ぜいぜいと息を吸って見下ろす拓海もまた、同じように肩で息をしている。顔色はわからない。きらと光る双眸を殺すような視線で見つめ、堪えきれずに歯を剥いた。
「煽るな。遠征が終わってからにしろ」
 柔らかさを視覚で伝える肉感的な唇が動く前に再び口付ける。すぐに這い入ってくる舌を噛んで先端を吸い、卑猥な音を立てて唇を離した。
「寝ろ」
 低く唸って車から降りた。どこから見ていたのか、少し離れた場所に史浩がわかったようなわからないような顔をして突っ立っている。涼介は怒りを目にぎらぎらと溜め、右手で濡れた口元をぐっと拭って親友の側まで荒い足取りで歩いた。
「すまん、ブチ切れた」
 いきなりそう言う涼介の隣、明後日の方角を向いた史浩はごしごしと額を擦っている。
「いや……」
「もうしない」
「……そうか」
「ああ」
「まあ……上手くいってんなら、いいさ」
「極めて良好だ、くそ!」
 吐き捨て、そーかと気の抜けた声を出す史浩を残してエンジンを止めようとしているFDに向かう。
「足がつりそうだ、この程度で……」
 ――どこにも、行っちゃだめです。
 拓海の声が涼介の胸をぐずりと崩しながら蘇る。あの後こもった大学の解析室の中、データの隙間から手を伸ばすように立ち昇る記憶に奇声を上げた。三回目に、たとえ大地震が起こっても実行中のプログラムからは離れないだろうと噂されていた講師が無言で寄って来て、涼介のデスクにコーヒーの入った湯のみを置いた。
 振り払っても振り払っても拓海の声や熱さが去らない。その上、腕に刻まれた置き土産。その痕に口付けながら風呂場で自慰をしたなど、拓海は想像もしないのだろう。そのせいで広がった鬱血を隠すため、ゆったりとした長めの袖のTシャツの上からぴたりとしたものを重ね着するという珍妙な服装をする破目になっているとは思いもしないのだ。指先だけで物狂いのように全身を燃やした涼介がなぜそれだけ乾いているのか、触れて安堵できる拓海には理解できないのだ。

「……長袖を着れば良かったのか」
「は?」
 眼鏡をずり上げる男の捲り上げたつなぎの袖を認めてなんでもないと首を振り、涼介はまるっきり無能になった気持ちで空を見上げた。まもなく、夜明けだ。






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