拓海がハチロクに戻って数分後、涼介の携帯電話が鳴った。史浩の名前が表示されている。
「どうした」
『電話で悪いな』
抑揚の無い声だった。なんだと答えながら、涼介は夜空を仰いだ。
『俺も動揺してる。だから端的に聞くが』
一呼吸分黙ってから史浩は言った。
『おまえ、どういうつもりなんだ。プロジェクトを自分で潰すつもりか』
そこまで聞き、涼介は電話を切った。胸ポケットに戻した携帯はすぐにまた鳴り始める。それを無視してFDとハチロクの最終確認を済ませると、涼介は真っ直ぐに一号車へと足を向けた。
「おわっ」
「なんだ、史浩」
なんだじゃねえよとそっぽを向き、史浩は携帯を切る。助手席に座った涼介は荒っぽくドアを閉めた。
「プロジェクトを潰すつもりはない」
いきなり切り出す親友を睨みつけ、しかし史浩は諦めたように溜息を吐いた。
「だったら、自重しろ」
「おまえに言われるまでもない」
「だってしてないじゃないか」
「そうだ、していない」
「涼介」
「できない」
「……」
「無理だ」
その瞬間、史浩はまだ手に持ったままだった携帯を取り落とした。ぼこんと足元で跳ねる精密機械をそのままに、ただ涼介を見つめた。
「おい……」
かつてこの男が、こんな風に全身をわななかせて顔を背けたことがあっただろうか。史浩は額を押さえて涼介から目を逸らした。
「……あのな」
点火した怒りは吹き消された。
「涼介、俺はおまえが誰とどうなろうとも何も言わない。言うはずないってことはおまえだってわかっているはずだな?」
「ああ」
「だが、今、藤原はまずい。なあ、まずいだろう?」
「そうだ」
涼介、と呼ばわる声に助手席からの返事は無い。
「それでもなるようになっちまうのかよ……」
啓介の方がよっぽどわかってるじゃないか、そう心中で呟き、史浩は転がった携帯電話を探した。デジタル表示はバトル開始時間の十五分前を示している。
「さっきのは……なんとかなったのか」
「藤原が自力で振り切った」
「情けねえなあ、高橋涼介」
「ああそうさ」
頬が歪むほどの自嘲を浮かべている涼介と数秒間睨み合い、やがて互いに目を逸らした。時間だけが過ぎ、やがて痺れを切らした史浩が携帯をいじり回しながら呟いた。
「なあ、涼介」
反応は無い。
「なんとか、しろよ?」
深い呼吸音を一つ聞かせてから、涼介はかすかに笑った。
「……するよ」
「わかった」
いつもの人好しな笑顔を戻し、史浩は言い切った。
「俺はずっとおまえを信じてきた。だからこれからも側で見ているだけだ」
もう時間だ行こう、と体を捻った史浩の左手が噛み付く力で掴まれた。
「史浩」
「……」
「史浩」
「ああ、わかってる」
謝罪も礼も言わず、涼介はただ史浩を凝視していた。掴まれた手で涼介の肩を叩き、緩んだ指先を解いて史浩は車を出た。外に出た途端、メンバーの視線が集まる。どうやら二人がトラブルを起こしていると思われていたらしく、啓介がとんで来て間に入り、それぞれの顔を忙しなく見回った。
「何、なんかあった?」
ストレートな物言いに吹き出しながら史浩はぶんぶんと手を振る。
「何もないって」
「うっそだろ?」
困りながらも笑っているように見える啓介の背中を叩き、史浩は涼介と視線を合わせた。
「始めよう、お待ちかねのバトルだ」
「ああ」
ふっと笑い合えば、へえーと感心したように啓介がうなった。背筋を伸ばした涼介がぐるりと見渡して告げる。
「今夜は楽勝コースだ。だからって気を抜くなよ、ダブルエース」
ハチロクから降りてぼんやり立っていたエースの片割れが頷いて車に乗り込んだ。
「茨城最終戦、派手にやろうぜ!」
「気負ってまたクルマを壊すなよ」
「しねーよ!」
嬉しそうに涼介に歯を見せてから、啓介はFDに顔を向けた。その背後から、ノーズを振るハチロクのヘッドライトがぐるりと辺りを照らす。
「さて、並ばせるか」
携帯で時刻を確認しながら史浩は言った。対戦相手の車もじわじわと近付いて来ている。強烈な光を浴びながら涼介は史浩に向き直り、口を開き、しかし。
「……おい」
半端に口を開いたまま、涼介は凍えたように唇を震わせていた。右手が上がって胸の真ん中を押さえる。
「涼介……」
史浩に肩を掴まれ、天を仰いで目を瞑る涼介の背後、ヘッドライトを長身が遮った。
不意にボンネットに手を突いた人物に拓海は目を瞬いた。
「……何してんだ、この人」
カーボンにべったりと指紋をつけながら啓介が身を乗り出している。対戦相手のヘッドライトが正面にきて、逆光になった顔は暗く沈んで表情は判別不能だ。何をしたいのか、威圧するように拓海を覗き込む影に遮られて指揮者の姿が見えない。軽くクラクションを鳴らすと啓介はするりと身を引き、今度はボンネットに浅く腰掛けた。
「だから何してんだよ啓介さん……」
涼介さんが見えねえ、とぶつぶつ零しながら拓海はもう一度クラクションを鳴らした。やがてのっそりとした動きで啓介が視界から消え、やっとハチロクを振り返っている涼介の姿が見えた。僅かに笑みを浮かべた顔で、行け、と右手が指し伸ばされる。
いつもと同じ自信に溢れる姿だった。何も無かったように微笑む顔は少し憎らしいが、それが力を分け与えてくれる。今日も勝って戻る、それだけが拓海に出来ることだ。
頷き、拓海はアクセルを踏んだ。
そのテールランプを追う男達の眼差しは、それぞれが違う感情の色で塗りこめられている。
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