湖が好きなんだろうか。
自分が置かれている状況がいま一つ飲み込めないまま、拓海はフロントガラス越しの黒い水面を見つめた。
遠征の成功は既に予定調和のようだった。回を重ねる毎にバトルのレベルは上がり、実際は苦闘と呼ぶべき戦いの末に辛くも勝利をもぎ取るのだが、HPに記載される単純な文字列は当然の結果のごとく並び見る者に溜息を吐かせる。そして一層の強敵が名乗りを上げるのだ。
精神的な不調がそのままドライビングに繋がったのは、拓海にとって初めての経験だった。バトル自体は余裕をもって勝てたはずなのに集中力はそれで全てを出し切ってしまったようで、タイヤが拾う路面状況が時折理解できなくなる。意地だけで駆け下りること四回、ようやくチームリーダーが期待する数字を叩き出せた。
啓介のトライアルを麓の路肩で呆然と待っていると、いつもと違う拓海の様子に松本だけでなく賢太までが窓から覗き込んできた。そして寄ってたかってシートベルトを外され無理やり外に引っ張り出され、気が付けば水のボトルを握って縁石に座っていた。
「疲れたか」
「もう平気です」
全然声が出てないぜ、と小さく笑って涼介が見下ろす。
「どうした。おまえ、全然クルマに乗れてなかったな」
怒られた。どきりと頭を跳ね上げた拓海の予想に反し、涼介はすっきりとした表情でぬるい風に髪を流していた。
「そういう時もあるだろうがな」
「……すみません」
インプレッサの話はまだしていない。プロジェクトに持ち込んでいる車の性能に疑問を持っているなど、とても言い出すことはできない。ボンネットの時以上の消沈具合で拓海はただ言葉を誤魔化すしかなかった。
「俺、ちょっと調子悪くて……すみません」
見ればわかるさ、と言わんばかりに涼介は拓海のこめかみ辺りを突付いた。
「次はなんとかしてこい、看板」
「……はい」
良い数字を出せたらしく、興奮してメカニックに抱きついている啓介を元気だなあとうらやましく眺めていると、史浩が目の前で中腰になって視線を合わせてきた。
「そろそろ帰るんだが……。運転できるか?」
「はあ、平気です」
「うーん、微妙だなこりゃ」
「ホントに平気ですって」
立ち上がってボトルのキャップを閉める。開けっ放しの窓からナビシートに放り込み、歩道側に周ろうとした。
「俺が送る」
「え?」
立ちはだかるように涼介が立っていた。
「事故られると困るんだ。一雨きそうだしな」
そんなのしませんと言う前にトレーナーの襟首を掴まれナビシートに押し込まれた。本当にいいですからと立ち上がろうとしたが、ボトルの上で尻が滑って背中をシフトレバーで強打した。いてえいてえともがいている間に、後を頼むと史浩に声をかけた涼介がさっさと乗り込んでハンドルを握る。あれえアニキどこ行くの、と啓介の声が聞こえたと同時にドアが閉まって一呼吸も置かずにハチロクは滑り出した。
「あの」
「なんだ」
「涼介さん、帰りはどうするんですか」
「タクシーでも拾うさ」
「……すみま、」
「気にするな。おまえも朝から仕事だろう」
「……」
それにしても、なぜ秋名湖にいるのだろう。一四五号線に入った時点でおかしいと思うべきだったのかもしれない。大回りした末に山頂まで登っての休憩はあまりにも不自然だ。しかし涼介は全く迷いなく寄り道を選択し、湖面を正面に据えた白線の中でエンジンを止めた。
――この間もわざわざ来てたよな。気に入ってるのかも。
腕を組んでフロントガラスの向こうを見つめている涼介をちらちらと見ながら、拓海は首を捻る。
――でも夜来たって……あんま意味ねえ……ような……。
目の前はただ暗く黒く、ざわざわとした水の溜まりが広がっている。富士の名を持つ美しいはずの山も、今はこんもりとした暗い固まりだ。見るものなど無いだろうに涼介は熱心と言って良い様子で動かない。
――交代したいな。
帰り道、少しばかり眠らせてもらった。おかげで精神的な疲労からはかなり回復できている。時間は日付を回ったばかりだから配達前に涼介を高崎まで送る余裕は充分あった。もちろんタクシーでもハチロクでもかかる時間に大差はないが、されっぱなしでサヨウナラでは拓海の気が納まらない。
しかしそう思いながらも、言い出せずに拓海は焦れていた。帰りの道のりでも涼介はほとんどしゃべらず、今も拓海が何か言わない限り黙って前を見ているだけだ。
――あ、降ってきた。
ぽつりぽつりとフロントガラスに水滴が増えていく。
「あの」
雨がひどくなる前に戻った方がいい。拓海は運転席を覗き込んだ。
「涼介さん、俺、運転交代、」
拓海の言葉は涼介の手付きに遮られた。何を思ったのかシートベルトを外している。なんだろう、外に出るんだろうかと慌てて拓海も金具に手を掛ける。それを狙いすましたように涼介はゆったりとした仕草で拓海に顔を向けた。いや、顔だけでなく体ごと動かしている。
――あれ?
わ、と思った時には涼介の上半身はシフトレバーを乗り越え、拓海を挟み込むようにして助手席のシートと窓に手を突いた。ぐっと寄って来る顔から逃げようとしてもフルバケットの中で身を縮めるしかなく、誤魔化すことをせずに向かってくる涼介と異常な近さで目が合った。息がかかる距離、緩慢な動きで顔が傾く。不意打ちではないキスだ。
――うわ、くっつく!
反射的に目を閉じ首を竦めた時には唇が合わさっていた。しかもそれまでの触れるだけのものとは全く違う。始めから本気全開で舌が押し入り拓海のそれを追い回す。歯列を舐め上顎をくすぐり引っ込んでいる舌先を押さえ付け、やりたい放題に暴れてからずるりと抜けた。恐る恐る目を開けた途端、口の端から垂れた唾液を舐め上げられ拓海は本気で怯えて涼介の胸を思い切り両手で押した。
「な、なんで」
自分の震える声が耳に入って硬直を深くする。
「なんでこういうことするんだよ!」
必死で涼介を押し返しながら叫んだ。最後の仕上げとばかりに濡れた顎をぐいっと拭われ、その指に噛み付いてやると口を開けたところで涼介は冷静な声で言った。
「おまえ、誰とだってするんだろ、こういうこと」
「……はあ!?」
あまりの言葉に一瞬息が止まった。涼介は感情の乗らない顔で見つめてくる。
「なんだよそれ!」
「おまえが言ったんだ」
「言ってねえよ!」
「言った。始動式で」
わめこうとしたが、ふっと記憶が過ぎって拓海は口を閉じた。始動式……。プロジェクトDの?
拓海が抵抗を止めると涼介はすっと体を引いて運転席に収まった。それきり黙ってまた前方の湖面を見ている。一つ二つと呼吸をする内に興奮が冷め、車内にこもった静寂の深さに拓海は混乱し始めた。
「しようって言われたらするんだろう」
抑揚の無い声に隣を見ると、窓に肘を突き頬を支えた姿勢で涼介はやはり前だけを見ている。
「……そんなんじゃないです」
そうだ、茂木の話をした。始動式で。思い出しながら拓海は俯いた。
始動式と言っても大それたものではない。それは高橋家で行われたただの飲み会のことだった。クルマ無しでは始まらないプロジェクトにも関わらず、全員が電車やバスでやって来て好きなだけ飲み、帰る者は帰りそうでない者はその辺で眠る、そういう集まりだった。
涼介は飲酒運転に非常に厳しく、レッドサンズ結成時には「飲酒運転をした奴は俺の手で始末する」と真顔で言ったという逸話がある。そのイメージが先に立ち、高橋涼介という男はいわゆるルールを尊重する人で、飲み会であろうと未成年の自分はひたすらコーラかウーロン茶を飲み続けるのだろうと拓海は思っていた。しかし拓海のグラスにビールを注いだのは涼介本人で、未成年だぞと史浩にたしなめられて一杯くらいいいだろうと苦笑していた。
そんな風に始まった酒盛りの中、最年少の拓海はいいつまみにされた。拓海自身、最初のビールをちびちび舐めていたせいで多少口も滑らかになっていたのだろう、見送ったばかりのなつきの話をする破目になった。啓介や賢太辺りはまあそんなもんだという風情だったが、史浩と松本などは顔を見合わせ、「それって海に行った時点で付き合ってるじゃないか」と首を傾げていたのを覚えている。その日はF1のオーストラリアGP開催日で、テレビが点いた途端に拓海の話は中途半端なまま放り投げられ、それきりになった。
「そんなんじゃ、ないです」
説明は難しい。最初は好きじゃなかった。でも気が付いたら好きになっていて、その時には別れることが決まっていた。
「誰でもいいなんて、ない」
返事は無く、しんとした車内には拓海が身じろぎする音と、とつとつと落ちる雨の音が大きく響く。頬杖を突いたままの涼介を湖畔沿いの街頭が浅く照らしている。
「まだその子のことが好きなのか」
さらりと流れた台詞に拓海はぎゅっと両手を握った。二通目の封筒はずっと机の上に放りっぱなしで触ることもできない。
「……わかりません」
「おまえはわからないばかりだな」
大部分が影に浸された涼介の横顔が僅かに動いた。左手が伸びて近付き、ただ首を竦めるだけの拓海の頭に乗った。
「悪かった」
一度掻き混ぜるように動いてからあっさりと腕は離れ、どうんとエンジンがかかった。するりとハチロクが動き出し、押し黙っている内に自宅が近付く。
「ここからはすぐだろう。運転して行け」
え、と顔を上げると、濡れたガラス越しに渋川の駅舎が小さく灯りを滲ませている。車は十七号線の路肩に寄って止まろうとしていた。運転席から降りる涼介の背後を派手な照明をまとったトラックがごうごうと走り抜け、細かな水の飛沫をまとった彼の姿は一瞬浮いたように見えた。
「今夜もおまえは良くやった。ゆっくり休めよ」
そう言って涼介はドアを閉じた。その音にはっとしてナビシートを転がり出たが、その時には涼介は車道に向かって手を上げていた。
「涼介さん!」
タクシーに乗り込んでいく長身に叫んだ。動き出す窓の中で人影が軽く手を振った。
「……なんでだよ」
水煙を上げて小さくなる黒い車に呟いた。
――本当の答えは、聞けなかった。
雨に鼓動を冷やされながら、拓海にわかったことはそれだけだった。
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