天然素材×2

 プラクティスはそろそろ終わる。狭い車内で眠ることになる夜だ。
 もう随分と汗ばむ季節になった。銭湯に行った方がいいような気がする。自分の体を気にしながら、拓海はとうふ店の文字が書かれたボディに寄りかかってFDのタイヤ交換を眺めていた。路面の問題といつになく涼介がアドバイスを控えているためにセッティングは長引いており、半袖シャツの啓介が暑そうにタバコを吸っている。ハチロク側も苦しんだがなんとか装備を終え、手の空いた松本も黄色い車の側についていた。
「俺もう三本行ってくっから!」
 よし行け、と涼介の声がし、啓介はまさしく鉄砲玉のように峠を下って行った。あの様子じゃ後三本で終わるはずもねえよな、と思うと腹の虫が鳴く。ずるずると背中で滑ってタイヤの脇にしゃがんだ。
「藤原」
 月を背中に従え、涼介が見下ろしてくる。ただでさえ上背のある姿が影に沈んで妙にいかつい。
「腹減っただろう。先に食えれば良かったんだが」
 事故による渋滞のおかげで到着が遅くなってしまったため、プロジェクトの面々はプラクティス前に腹ごしらえが出来ていない。
「飲むか?」
「どうも」
 缶コーヒーを受け取ってプルトップを押し込む。そのまま行ってしまうように背中を見せた涼介は、くるっと振り返って拓海の横にしゃがんだ。先週の秋名湖が思い出される位置関係だ。そうはさせるかと、両手で缶をしっかり持って口に押し付ける。
「あれは俺が中学三年の時だった」
「……は?」
 いきなり始まった昔話に拓海はかくりと首を傾げた。涼介は無表情に近い顔つきで前を見ている。
「学校で覚えてきたらしい。アレだ、名前を呼ばれて振り向くと、頬を指で突付かれるやつ」
「ああ小学校の時に流行ったような……。えーと、啓介さん、ですよね」
「そうだ。俺は不覚にも一日で二回も引っかかった」
「……そうですか」
「馬鹿みたいに笑いやがるからむかついた。で、指じゃなくて口にバージョンアップして仕返ししてやった。そうしたら勢い余ってキスしてしまったんだ」
 正直それはどうかと思う。それとも自分が一人っ子だからわからないだけで、兄弟とはそういうものなんだろうか。とりあえず無難そうな相槌を打っておく。
「……啓介さん、悔しがったでしょーね」
「それどころじゃない。泣きわめいた。ファーストキスだとさ」
「……かわいそー」
「仕方がないから、親兄弟とのキスはキスには入らない、だからおまえはまだ未経験だと納得させた」
「納得したんですね……」
「したな。おかげで次の年、彼女ができてもうすぐキスできそうだからアニキで練習させてくれって言い出したぜ」
「れ、練習したんですか」
「何が悲しくて弟に実地でキスの講習をしてやらなきゃならないんだ。図解して納得させたさ」
「図解……」
 どういう図解だろうかと想像し、人体模型を思い出して少し気持ち悪くなった。そしていつでも納得させられてしまう啓介が気の毒になった。
「ああそうだ藤原」
「ハ」
 顔を横向けながら、あっと思った。これはもしかしていやもしかしなくても。
 しゃがんだ姿勢から首を伸ばして顔を傾けている涼介が至近距離にいた。寸止めの位置で目を細めたのがひどくはっきりと見えた。
 ――あ、くっついた。
 俺ってものすごく頭悪いかも、と思いながら拓海は硬直して涼介の唇を受け止めた。これまでのように一瞬で終わると思ったそれは、じりっとアスファルトをにじるどちらかの靴の音が二度聞こえても続き、最後に尖った舌が上唇の右半分を舐めた。
「……」
「おい、コーヒー零れてる」
「え、あ!」
 傾いた缶を握り直し、慌てて口に持って行く。今更とは思うが、もうさせないとがじりと飲み口を齧って涼介を睨んだ。涼介は長い足を見せ付けるようにゆっくり伸ばすと、悠然とハチロクの鼻先へと歩いて行く。そして顔だけで振り返り、勝ち誇ったような声色で言った。
「おまえ、天然具合も啓介といい勝負だな」
 ――もう絶対に油断しない、絶対だ!
 親の敵のように缶を齧りながら、拓海はとうふの文字に誓った。







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