「寝てるのか?」
ドアを開けられ、拓海は何度か瞬きをした。
「え、起きてます」
涼介は半分開いた助手席側のドアの向こうにいた。拓海の顔を見下ろしてから、ふいっと背を向けて歩いて行く。慌ててシートベルトを外して表に出た。暑い。動きの無い空気特有の粘りが拓海にまとわりついた。
一瞬どこにいるかわからなくなり辺りを見回す。天井に一本だけ蛍光灯が点いているそこは、幅四メートル程のガレージだった。車の正面は広さがある地下空間で、順路だの矢印だのが書かれた看板が灰色のコンクリートからぶら下がっている。鉄枠に横板を渡してある、工事現場の通行止め表示のようなものがFCの鼻面に置いてあり、ガレージの入り口に「お忘れものはありませんか」と書かれた細い紙が貼り付いている。その上には、「空」と書かれた緑色の表示灯がぼんやりした光を放っていた。
「藤原」
呼ばれて振り返ると車の背後、壁にぽかりと開いた階段に涼介が立って拓海を見ていた。彼の横には白い看板のようなものがあり、室内らしき写真と幾つかの数字が見える。休憩七千六百五十円、宿泊一万二千七百円。それが高いのか安いのか全く理解できなかった。脳の働きが悪くなっているのかと思い、二回目じゃわからなくても仕方ないのかもしれないとも思い、いやそんなことは今はどうでもいいんじゃないだろうかとも思った。
のろのろと階段に向かう拓海を確認してから涼介は先に上がって行った。二十段ほどの階段を上りきると明るいアイボリーに塗られた細い廊下が現れ、その奥にあるこげ茶色のドアを涼介が開けている。先に入れと促され、隙間を抜けながら顔を見上げると、彼は斜め上辺りに視線を向け、何も見ていない振りをしているようだった。
中に入って拓海は少し驚いた。懐に余裕のある女子大生が一人暮らしをしています、とでも言いたげな小奇麗でオーソドックスな家具が置いてあるフローリングの部屋だったからだ。どうやら自分は最初の時、既に部屋選びの時点で失敗していたらしいと気付く。そして涼介のそつの無さがうらめしくなった。もう何度目かなどとは数えもしない程度には利用しているんだろう。妙なむかつきを腹の底に置いて靴を脱ぎ、つかつかと窓辺に寄ってカーテンを捲くった。窓は開かない造りのものだが、割れてしまったとしても手くらいしか出ないように白い格子が付いている。その間から十七号線と新幹線の高架がクロスしているのが見えた。高崎だ。
「風呂、入れよ」
淡々とした声を出す涼介は小さい冷蔵庫からビールを取り出している。拓海は距離を取りながら小声で言った。
「……飲むんですか」
「泊まるからな」
言い、ちらりと視線を当ててくる。
「おまえはどうするか知らんが」
黙っていると、かしゅっとビールを開けて一口飲み、あからさまに馬鹿にした声色で言った。
「ここはそういうのができるんだ。安心して好きにしたらいい」
むっとした。残念ながら『そういうの』の意味はわからなかったが、とにかく涼介はここを利用したことがあると言っているのだ。涼介のテリトリー内に連れ込まれてしまったことといい、何から何まで気に入らない。
「……風呂、入ります」
顔を背けたままバスルームに向かった。壁が透けたり足元が見えたりといった特有の妙な造りにはなっておらず、落ち着いた木製の扉で隔てられた密室の中でほっとしながら息を吐いた。
「あーもー……どうすっかな……」
どうもこうもねーよなと言いながら乱暴に服を脱いだ。
「うわーなんだこれ……」
今の状況を忘れて拓海は腕組みをして唸った。
映画でしかお目にかかったことのない、大理石の風合いをもたせた白くて高級そうな丸いフォルムのバスタブ、バスルームの壁の一面は透けないガラスブロックでできている。更にその脇に付いている扉を開け、また拓海はうめいた。ウッドデッキだった。高い衝立で表からは見えないようになっているそこには、観葉植物と共に木製のリクライニングチェアが二脚置いてあった。感心しながら観察していると、椅子の間に置かれた小さなテーブルの上に置かれた籠の中身に気が付く。こんなところでヤル意味はあるのだろうかと首を捻りながらバスルームに戻った。
そして洗面スペースに上がった瞬間、まるで本当のマンションのようにピンポンとベルが鳴った。
誰がどうしてと慌てふためいて湯気の中に戻り息を潜めていると、ドアの開閉音の間にかすかな会話が聞こえた。なんだろうと不安に思いながらそろりと出て体を拭く。それきり何も聞こえない。別の人間を呼んだという訳ではなさそうだ、と思ってから別の人間ってなんだよ、と呆れつつ袋詰めの何かがたくさん乗っている洗面台を見回した。
「……あった」
目的のものは足元の籠にビニール袋に包まれて置いてあった。白いバスローブだ。この間の部屋にあったピンクのハート柄よりは数段マシだと思う。
「こんなの着たらやる気満々に見える、よな……」
しかし、嫌なら帰れと言わんばかりのさっきの言葉が脳裏に蘇り、拓海はビニールに包まれたバスローブをむんずと掴んだ。帰ってなんかやるもんか。そう呟くと、滅菌済みと書かれたビニールを力いっぱい引き千切った。柔道着のように気合を入れて紐を結び、ええいと扉を開ける。足元だけを見ながらぺたぺたとフローリングを歩いてベッドに向かい、どすんと座ると斜め向かいのソファセットに座っている涼介と目が合った。あちらもどうやらヤケクソになっているらしく、今まで一度も見なかったタバコを吸っている。販売機は部屋には無いから、さっきのベルを鳴らしたのはそれを持ってきた従業員だったのだろう。拓海と目を合わしたままタバコをもみ消した後、ふんと声が聞こえそうな勢いで視線を外して涼介はバスルームに入って行った。
ドアが開く音が聞こえた。ベッドの上であぐらを組みテレビのリモコンを無意味にいじっていた拓海は、冷たい金属を当てられたように背筋を伸ばした。予想よりも早い。どうしようとリモコンに視線を落とした瞬間、ばちっと部屋の電気が消え、拓海はうおっと声を出して小さくバウンドした。
まだベッドの周りの照明は落ちておらず、黄色い光の中をバスローブを着た涼介が歩いてくる。妙に足が長く見え、急いでテレビ画面に顔を向けると手からリモコンを奪われて電源をぶちりと切られた。
――ヤバイ……。
額に冷や汗を沸かせていると、涼介はベッドを周って拓海の左側にさっさと横になった。その直前に何か小さいものをサイドテーブルの上に放ったように見えたが、大して気にする様子も無く布団を被って涼介は言った。
「俺は寝る」
「……はあ」
拍子抜けしながら布団を捲くった途端にベッド周りの灯りが消え、拓海はシーツを手探りながら横になった。
再び秋名湖で経験した静寂が訪れる。クーラーが強めにかかっているようで、顎まで布団を被っていても暑くない。空調の音を聞きながらじっと天井を見つめていると、窓やら部屋の足元にある非常灯やらのおかげで意外と光が残っていることに気付く。おそらくこの距離なら互いの表情くらいは見分けられるだろう。
――どんな顔してるんだろ。
自分だけがこまめに心臓を跳ねさせているのは癪だった。思い切って横を向き、またびっくりして体が揺れる。涼介は片腕を枕にし、凝視するように拓海を見ていた。
「寝ろよ」
ぞんざいに言ってしかし視線は外さない。
「……涼介さんこそ」
こうなると寝返りを打つという簡単な動作でさえ、深読みされそうで気安くできない。我慢比べのように目を見合ったまま一晩過ごすのかとげんなりしたところで、涼介が仰向けになった。
どうしよう、いや、どうもしなくていいはずだ。しかし目を離した途端にとんでもないことが起こりそうで、暗く翳っている顔から目線が外せない。
目を閉じて静まっている彼の顔は、どこかの光を受け鼻筋や輪郭が白く浮かんで硬質な印象だ。言葉の足りない自分には未だ、格好いいとしか表現できない。その顔の中でも一番整っていると感じるあの薄い唇と、何度もキスをした。あの中に熱い舌が入っていることも知っている。あの時は我ながらみっともないほど怯えたが、よく考えてみれば気持ちが悪いとは思わなかった。むしろ、妙な気分になりそうでそれが恐ろしかった。なつきとはキスだけは数をこなしたのに、彼女にした深いものよりも涼介にされたあの口付けの方が気持ちが良かったなんて、何かが間違っているとしか思えない。
緩く閉じていた唇がわずかに開き、まぶたがひくりと動いた。そうなるように設計されている人形がぱちりと瞳を見せるように、完璧な動きで濡れた黒が空気にさらされる。薄い刃が切りつけてくるような眼差しが拓海の頬辺りを掠め、来る、と思ったが何も反応できない。ごそりと音がして涼介がこちらを向き肩が動くのがわかった。伸びてくる左手の動きは極緩やかだ。避けようと思えば容易にそうできる手が顎の下に触れ、指の背で耳まで撫で上げ後頭部に手のひらが当たった。いよいよ目を見開き、拓海は目前の顔を凝視した。
引き寄せるように近寄るように距離が詰まり、焦点を失って顔がぼやける。触れる寸前で傾いたそれは、タイミングを外すように一気に視界を覆った。まぶたが反射的に閉じようとする動きよりも速かった。きつく押し当てられた唇からするりと舌が侵入し、後頭部の手のひらが首を辿って背中に降りてくる。どうしようもなく絡みきった視線の処理ができずに黒い湖面をただ見続ける拓海の頬に右手が触れ、腰の左手に強い力が入った。角度が深くなって肺の中身を吸い出される錯覚に襲われた瞬間、水音と共に唇が離れた。
は、と拓海が息を吐くのを待っていたかのように再び唇が触れる。何度も軽く押し当てられ、その度に生々しい音が立つ。頬の手がじりじりと耳へと移動し、荒っぽく髪を掴まれたと同時にキスの深度が増した。じゅ、とひどく耳障りな音と一緒に吸われて舌先同士がまともに触れ合う。痒く同時に痺れる感覚に拓海が首を竦めるとあっさり唇は遠ざかる。そして喉を塞ぐようなキスがまた襲う。
軽く、深く、繰り返し触れる唇。入り込んでは逃げるように絡みきらない舌。秋名湖でされたような長いキスは一つもない。いつの間にか焦れ始めた拓海は、上顎を押しただけで去っていく柔い肉を思わず追った。体を離すような素振りが許せず、手を伸ばして肩を掴む。自分から舌を突っ込めば涼介はやんわりと受け止めて目を細めた。息も忘れ、中途半端に差し出されるぬめった肉を己のものにしようと必死で吸う。そこにきてやっと、湖面の黒は閉じられた。
どれくらい夢中で舌を追っていただろうか。手のひらのべたつきに気付いて拓海は顔を上げた。そして下を見てぎょっとした。両手で涼介の頬を押さえつけて体の上に乗り上げている。盛大に唾液が零れて痩せた頬と手のひらを粘着質に汚しており、慌ててそれを拭おうとした時、背中を抱く涼介の腕にぎちりと力がこもった。落下するように耳元に顔を伏せた拓海のバスローブの肩口を握って顔の汚れを拭ってから、涼介は両腕で圧し掛かる体を強く抱いた。
「しようぜ、藤原」
耳の中に吹き込むように、低く涼介は言った。
「リードしてやる。抱けよ」
二人の視線がもつれた。刹那に涼介は唇を引いて笑い、何かを言いかけた拓海の唇にそれを押し付ける。そっと髪を撫で、空いた手で拓海の右手を掴んで乱れたバスローブの隙間に潜らせた。そして乱暴に布団を蹴り落とす。
「嫌だったら言え」
合わさった唇の間でそう呟きが漏れた。されるがまま、拓海は手のひらを脇腹に滑らせていく。冷めたイメージだった肌の温度は高い。過不足無く筋肉がついて引き締まった腹を越え臍を通過してわずかの後、拓海の指は強張った。
不思議だ、と思う。奇妙な感触だがよく知っているもの。浅く長いキスに時折意識を霞ませながら、涼介の性器を指先に熱く感じる。重なった彼の手が慎重に動いて、指を曲げさせ握らせようとした。なんでこんなことになっているんだろうと今更に考えながら、拓海は決定的な雄の証拠に指を絡めて緩やかに扱き始めた。半ば立ち上がっていたものは容易に体積を増し、口付けの合間の息継ぎが熱を上げていく。
やがて涼介の手が離れていってもそれを止めようとは思わなかった。浮き出している血管や湿り始めた先端は生々しく、嫌悪とまではいかないが納得できないざわつきが胸に広がる。それでも、少しずつ速く大きくなる息の音が、拓海の手を止めさせない。
促されるままに涼介の右肩に頭を乗せ、横抱きにされる。肘で曲がった手が指先で髪を梳く。やがて拓海のバスローブの紐が外れ、涼介の指が潜るように臍を押してから下着の中に入って拓海の性器に触れた。摘むようにくびれを擦り、そろそろと根元まで辿る。出どころ不明な罪悪感に眉間に皺を寄せるとそこにキスが落ちた。上目で視線を合わせれば、情欲にうるんでいるとばかり思っていた目はひどく優しく見返してくる。
ふと、子供扱いされているのかもしれないと感じた。でも今は、そうされたい。
汗ばみ始めた首筋に額を擦り付けると根元をしっかりと掴まれた。期待通りの快感に溜息が漏れる。それを何と思ったのか、涼介は拓海の頬を舐め上げた。
作ったような唇を割って這い出してくるいやらしい赤。
暗い部屋の乏しい光を全て集めて見せつけてくる、視覚を犯す赤。
欲しい、と拓海は舌を突き出した。二つの赤は互いの快楽に耳を澄ますように静かに重なった。
それぞれの先端が濡れ始めた頃、涼介の手は再び拓海の手に重なった。更に下へと向かう感覚に拓海は視線を眼下に流した。涼介は片膝を立てながら奥へと導いていく。ごく、と唾液を飲み、拓海は人差し指が押し当てられた場所に神経を凝らした。
「男同士はここを使う」
すり、と表面を撫でてみる。冗談じゃないと思った。
「……入るんですか、こんなとこ」
「……たぶんな」
それ以上は目で伝え合う。押し当てさせている手が離れ、急に不安がこみ上げて顔を向けた先、サイドテーブルに伸びた腕が何かを摘み上げた。
「手、出せ」
涼介は小さなビニールパックの端を歯で噛み千切った。押し出されたジェルが指に乗る。ぬるぬると絡ませながら、そう言えばそれは、ホテルの設備ではなく涼介自らがそこに置いたものだと思い出す。始めからそのつもりだったんだろうか。必ず誘いに乗ると確信していたんだろうか。
あらゆる側面で拓海よりも経験が豊富だろう涼介は、こういうセックスでさえ初めてではないのかもしれない、そう思うとぐうっと喉元に熱がこもった。
――やっぱ……なんかずりぃ、涼介さん。
拓海の前髪を掻き上げる長い指の間から、真剣さを含んでもの言いたげな、黒く濡れた目が見え隠れしている。べたついた自分の手に視線をやってから、拓海はもぞりと体を起こした。
涼介の下半身がまともに目に入る。興奮しきった男性器の先端はまだ濡れ続けているのかと気になってするりと指先で撫でた。一瞬光った糸がジェルなのか体液なのか、見分けがつくはずもない。拓海は深呼吸を一つして狭い場所に指の腹を押し当てた。
そっと押し付けると弾力を感じる。視覚で調べるには明かりが足りない。まじまじと見ることができたとしても何がわかるでなし、覚悟を決めて力をこめた。何度か角度を変えて押している内に、ぬるっと滑って一つ目の関節まで入ってしまった。あ、と声を出したのは拓海の方、埋まった指先を早くも持て余して涼介に視線を投げ出した。
「根元まで入れてみろよ」
冷静な指示にとりあえず頷く。深く呼吸をする涼介の顔は挑戦的な角度に顎が上がっているが、指先に感じる緊張が拓海を少しだけ落ち着かせた。
「じゃ……入れます」
言わなくていい、とばかりに鼻で笑う音を聞いてから少しずつ指を押し込んでいく。生暖かい感触は柔らかいとも硬いともつかず、できるだけ動かさないように根元まで入れた。
「藤原」
自分の名前が特殊な単語のように感じられ、びくりと顔を上げた。
「……腹側だ」
「え」
「腹側を押しながら……こいつの付け根あたりまで探っていけ」
己の性器を撫で、涼介は片眉をひくつかせた。
「……付け根」
「あんまり強くするなよ」
目的がわからないまま言われた通りにする。く、と肉を押しながらゆっくりと押し下げる。何かが起こりそうな予感にちらちらと涼介の顔を窺っていると不意に胸が上がった。同時に指先の感覚が変わったような気がしたが、しゅうっと息を吸う音とその直後の声にそんなものは吹き飛んだ。
「えっ、何、何ですかっ」
「……そこ、だ」
「そこって? どこ?」
バカ、と呟く涼介はひどく苦しそうに見えた。
「あ、止めま、」
「待て」
ふうっと一息吐きながら拓海の手首を押さえてくる。
「今触ってる辺り……適当に探れよ……前立腺があるから」
「ぜ、ぜんりつせん?」
呆れた様に見返してくる顔に否応無しにすみませんと謝らされる。
「……こいつを立たせるヤツだ」
「あっ知ってますっ」
「そうだろうよ……」
いいからやれと片手を振り、涼介は起こしていた頭をシーツに落とす。少し上がった喉が白く浮かび、ぞっとするような熱が下半身に走って拓海はぶるぶると頭を振った。
「え、と、」
指先と涼介の反応に集中しながらもう一度押し込み、じわじわと撫で下げていく。再び体が揺れ、声が漏れたところをしっかりと記憶した拓海はしかし、はたと手を止めた。これからどうしたらいいのかわからない。ここを触っていれば広がるんだろうか。いやそれはちょっと無いような気がする。
「あの、す、すみま、」
「個人差はあるが慣れると感じる場所らしい適当に擦りながら指増やせ」
早口で言って涼介は口を閉じた。まずい、この人もいっぱいいっぱいだと冷や汗をかきながらうろうろと指を滑らせる。ジェルが足りないような気がして一旦指を抜くと、二人同時に溜息が漏れた。放り出されている小袋を探し出して中身を絞り、少し迷ったが中指と人差し指を揃えた。慣れてきた目に映るその場所はあまりに狭く、心中で謝りながら指先を曲げ、爪を立てないように埋めていく。涼介の呼吸に合わせると上手く入るようだ。滑る内部を小刻みに行き来しながらさっき覚えた場所に辿り着いた。弾力が増すこの辺り、と指の腹を擦り付けるとかすかなうめきと一緒に目の前の硬い肉がほんの少しだけ跳ねた。そうか、と思い至って空いた手で撫で上げ緩く握る。少しずつだが、理解できているように思いながらまた指を抜きジェルを足した。
「大丈夫、ですか」
すぼめた三本の指をごくわずかずつ沈めながら聞く。
「……ああ」
しかし、涼介の足は反射的な動きで何度も閉じようとする。頬に当たる引き締まった腿をちろりと舐めると、固く閉じていたまぶたが薄く上がった。
――切られる。
いつも緊張するこの視線。目も喉も切り裂いてどこまでも潜ってくる、そのひやりとした切っ先は今、心臓まで届いている。あと幾らも数えず命を盗られてしまうに違いない。
横隔膜が収縮して赤を隠した唇が空気を飲み込み、その後に長く押し出される。それを見計らって指を進めるとすぼめた指先は埋まった。が、どうしても残りの半分を飲み込ませる勇気が出ない。続けろ、と告げている目に怯んでいる間に彼の手が伸びてきた。性器を宥めていた手を引き寄せられ、肉に捕われていた指がぬるりと抜ける。
大儀そうに半身を起こした涼介は、申し訳程度に体に引っかかっていたバスローブを脱いだ。拓海がそれに倣ってもがくようにしながらタオル地の布から腕を抜くと、腰に両手がかかって下着が下ろされる。
膝立ちの姿勢で無防備に曝された性器に指が置かれた。それは潤滑剤に濡れてひやりと冷たく絡み、首を縮める拓海の顎から頬へ舐めるようにねっとりとしたキスが触れていく。ねだった舌を叱るように軽く噛まれ、同じように耳たぶにも甘い痛みが落ちた。
「来いよ」
最後の鎖を切る眼差しに拓海はたじろぐしかない。
「でも」
「藤原」
口の端を滑る唇が呟く。掬うように見上げる目がずるずるに濡れている。
「欲しい」
ああキレた、と思った時には縺れて倒れ、食いつくようにキスをしながら足の間に体を入れていた。無抵抗の両足を大きく広げてその間に熱を押し付ける。手を添えながら先端を潜らせようと腰に力を入れ、わずかに沈んだ部分の肉を指先で広げる。忙しなく緊張と弛緩を繰り返している穴にとにかく入ってしまいたい。
折れそう、と冷や汗を浮かべながら少し角度を変えた途端、足を滑らしたような錯覚と一緒にずるっとくびれまで飲み込まれた。
「う、わ、」
スピンだ。この間、秋名の峠で胃がせり上がる思いをしたあれと同じだ。自分ではない外側から振り回されて身動きがとれない。
「きっつ……い、てえ」
緩めてよ、と顔を上げれば汗がどっと背中を伝った。取り繕う余裕も無く顔を歪めた涼介が、腰の両側でシーツを握って耐えている。
「りょ、すけさん、無理、なんじゃ……」
苦労して片手をシーツから引き剥がし、涼介は拓海の腕に触れた。
「平気、だ」
どこが、と言い返す余力などない。肘辺りを握って引き寄せられ食いつく肉を更に割り、二人ともが全力疾走中のような色気も気遣いもない呼吸を垂れ流す。深く噛み合うほど体の距離が縮まり、しかし唇は千里の彼方のように遠い。キスがしたい、胸を合わせたい、あと半分。背を丸め、骨ばった腰を掴んで無理やり根元まで押し入って、拓海は肺の中身を全て搾り出すような息を吐いた。
「はい、った」
返事は無く、拓海の腕を掴む手には軋むほど強く力がこもっている。結合部を痛ませながら身を伏せ、辿り着いた唇を舌先で舐めた。それ以上は届かない。破裂しそうな心臓を重ねて汗でぬめる肌を抱きしめ、髪を掻き混ぜてくる指の動きに目を細める。
「動け、よ」
甘やかす指先とは真逆に、舌打ちしそうな声だった。
「さっさと、いけ」
「入れろっつったり動けっつったり……挙句にいけかよ……っ」
もう一度身を起こして腰を掴んだ。とにかく終わらせないとどうにもならないということは拓海だって知っている。いてえ、と呟くと顔から何かが滴り汗なのか唾液なのかもわからずに拭う。動かせるような余裕など何もないように感じる場所からゆっくりと性器を引き出すと、うう、と涼介が喉を鳴らした。動いてしまえば拓海の痛みは減った。小刻みに揺らし、片手で顔を覆っている人を見下ろした。
「大丈夫、ですか」
「……ああ」
涼介は絶望している人間に似ていた。長い指で額から目の辺りまでを覆って掴み、何度も頭を振っている。動くのを止め、引き縮んでいる両足を撫でて太腿の裏に手のひらを押し付ける。するすると肌を慰めているとほんの少しだけきつい場所が緩む。
「藤原」
指の間からちらちらと視線が漏れる。
「痛い、か」
「……もう平気、です」
そうか、と目を閉じ、涼介は拓海の腕に爪を立てて掴まった。くっきりと眉間に皺を刻んで必死で堪えている姿は拓海の下腹辺りに熱い差し込みを与え、もういきたくなっていることに急に気が付いた。信じらんねえ、と唇を噛み、刺激を逃がすように深く潜って呼吸を整える。ぐうっと内壁を押し上げながらゆっくり抜き差しを始めると、ぎくりと涼介の全身が強張った。
「このへん……?」
胸の両脇でシーツを捩じらせ、拓海は苦しげな顔を覗きこんだ。
「……わからない」
涼介は疲れきったように視線を外す。それを追うように手を伸ばして頬に触れた。汗ばんだ肌は熱く、口元まで滑らせた指先を唇が柔らかく挟んだ。
「涼介さん……」
少しでも感じさせてから終わりたい。う、と泣くような気配を滲ませた声が漏れる場所に擦りつけ、斜めになる体を抱え直す。時折妙な具合に締め付けがきて萎えかけていた涼介の性器が少しずつ上を向いてくる。手のひら全部を使って先端まで絞り上げ撫で下ろしそれに合わせて内部を押し開いた。これでいいのかなんてちっともわからない。手の中でひくりと動く熱の塊をきつく握り、ああもう駄目だと思い切り突き上げた。
「く、う……っ」
耐え切れずに絞り出された声と同時に二の腕に爪が食い込み、涼介はがくがくと全身を震わせた。食い千切るように締め付けられ、拓海は震え続けている体を抱えて滅茶苦茶に揺すぶりながらいきたいように射精した。快感は確かにあったが焦点がズレたように感覚は奇妙に遠かった。
「りょ、すけ、さん」
彼は死んだように手足を弛緩させて目を閉じている。左手が濡れているように感じて顔に近づけるとよく知っている臭いがする。涼介も達したのだろうか、信じられない。荒い呼吸に振り回されながら呆然と見下ろし、はっと気付いて拓海は身じろいだ。
「ぬ、抜くから……」
早く楽にしてやらないと。そればかりが頭に回り、腰を掴んで一気に抜き去った。二人一緒にあっと大きな声を上げてしまい、体を捩って堪える涼介の腰を慌てて擦る。やっちまったと思っても抜いてしまったものは仕方が無い。涼介さん、涼介さんとただ名前を呼びながらひゅうひゅうと息を継ぐ開いた唇に口付けた。
――やっと……キスできた……。
どっと疲労が押し寄せ、べったりと体を擦り合わせて脱力する。何もかもがぐちゃぐちゃだ。泣きたい気持ちなのかもしれない。塩辛い首筋を吸いながら互いの呼吸が静まっていくのを黙って聞いた。
「藤原」
気力の無い声は目的を持たずに耳元に零れる。始めた時と同じように右腕が首の下を通って髪を掻き混ぜる。齧りつくように涼介の体を抱き足を絡め、拓海はまぶたの重さに素直に負けて目を閉じた。
盗られる。
ぞっとする寒気と一緒に意識が浮上した。腕の中から何かが抜けていく。いやだ、と縋りつき、顔を上げると目が合った。黄色い明かりの中、不安定に揺らめく目は灰色に光っている。
「すぐ戻る」
手のひらが何度か頬を撫でる。拓海の腕を解き、涼介はベッドに一度座った。何かを考えるように首を傾げていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。二、三歩歩き、傾いでいく体を側の壁で支え、小さな歩幅でバスルームへと入って行った。
「……辛そう」
気まずさに視線を落とし、シーツを見てぎょっとした。腹這いになって顔を寄せる。ベッドサイドのボタンを捻ったり押したりして明かりを強めてもう一度確認するが、やはり思った通りだった。
「うわ……怪我させた……」
薄い黄色のシーツの上、精液が固まった汚れの間に掠れた赤っぽい筋が幾つも残っている。小さな丸い点状の染みも見つけ、最悪だ、と呟いた。途中までは気遣いしたはずだが、最後は訳がわからなくなっていた。乱暴に抜いてしまった時に随分痛がっていたのを思い出す。
「どうしよう……」
シャワーの音は淡々と続いている。自分があれだけきつかったのだから、涼介の負担は想像に難くない。痛みを堪えてじっと丸まっている姿を想像し、拓海は思わずベッドから飛び降りた。
「涼介さん!」
洗面スペースとバスルームを隔てるガラスの引き戸を叩く。
「大丈夫ですかっ」
返事は無かった。その代わりに引き戸がするりと開いて顔半分が覗いた。
「どうした」
「いえっあのっ大丈夫かなって……」
濡れた髪を額に貼り付けた涼介は、拓海がよく知っている無表情な顔つきに戻っていた。
「風呂くらい一人で入れる」
「あ、はい、でも……」
「何を心配しているのか知らんが、俺は平気だ」
どこか憤慨した様子でそう言うと、涼介はばちんと扉を閉めてしまった。怒っているのか本当に平気なのか、判断がつかないままベッドに座り、足の間に頭を落として項垂れた。
「ホント、最悪……」
明らんだ窓から零れる朝の光が、フローリングに細い帯を描いている。枕元のデジタル表示は六時過ぎだった。無断外泊は初めてだ。今更文太に連絡を入れても起こすなと怒鳴られそうで、ベッドにひっくり返ってぼんやりしているとシャワーの音が止まって扉の開く音がした。
「藤原」
穏やかに呼ばれて起きあがると、涼介は昨日の服をきちっと着込んでいる。
「シャワーを浴びておけ」
「あの……」
「今更色々考えるな。いいから行ってこい」
はあ、と溜息で答えてすれ違う。タオルを手に髪を拭いている涼介の顔から特別な感情は読み取れず、拓海は黙って浴室に向かった。
自分の体に付着したものに大なり小なりショックを受けながらシャワーを済ませ、服を身につけて部屋に戻った。ベッドの上には昨夜足蹴にした布団が乗っており、その上で涼介が俯せになってだらしなくタバコを吸っている。しばしベッドサイドで眺めていると、座れよと布団を叩かれて言われた通りにした。
「大丈夫ですか……」
あれだけ触れ合ったというのに、今は手を伸ばして背中を撫でることもできない。ちらちらと顔を見ていると、涼介は深く煙を吸ってから吐き出した。
「もう言うな」
面倒くさげな発音に喉が塞がる。大丈夫であるはずがないのは拓海が一番わかっている。それでも言葉で確かめたい気持ちと、確かめてどうするという呆れた感情に挟まれて、拓海は自分の指先をじっと見つめた。
「吸うか」
気まずさに頷き、白と青のパッケージを手に取る。好きでも嫌いでもない煙を立てて一口吸い、視線を感じて振り返った。
「なんだ、普通に吸うんだな」
「はあ」
「むせるかと思ってたのに」
涼介は目元に笑いを滲ませている。少し肩の力が抜け、拓海はベッドに上がるとあぐらを組んだ。
「たまに親父のパクってたんで。……でも涼介さん、結構こういうのルーズですね」
「ルーズ?」
「えと。酒も飲ませようとしたし……意外」
「公道で暴走行為をやってるくせに、未成年だなんだとカリカリしても意味無いだろう」
「でも飲酒運転は嫌いですよね」
「あれは一方的に他人を巻き込むからな。一人で死ね、ってことだ。するなよ、藤原」
「うん。俺、アルコールはあんまりだから」
「そうなのか」
普通に話せているのが不思議だ。タバコを灰皿でもみ消し、最後の煙をふうっと飛ばすと腰回りに手が絡んだ。
「仕事は休みなんだろう。もう少し寝てろ」
ひっくり返されるように横になり、大人しく仰向けになると涼介は少し体を被せてきた。当たり前のように重ねられる唇に性的な印象は薄く、どうしようかと浮かせていた両手を背中に回した。引き寄せられ、押し込まれるように胸の中に収まるとなぜかほっとした。ぎゅっと抱きついて溜息を吐いた拓海の背中を涼介の手が静かにさする。
「俺」
もぞもそと頭を上げて視線を探す。
「逆だと思ってたんです」
「逆?」
眠そうな声だなと思う。案の定、涼介は目を閉じていた。
「俺が……抱かれるんだろうなって」
「ふうん」
何の気負いもない相づちがおかしい。拓海は久しぶりに笑顔を作って涼介を眺める。
「どっちでも、同じだろ」
「そうかな。俺は驚いたけど」
「まあ……俺が誘ったからな。もてなすくらいはするさ……」
意味がわかるようなわからないようなことを言う涼介の腕から力が抜けていく。
「じゃあ次は、俺が誘うのがいいですか?」
返事は無かった。
「ねえ、涼介さん……」
次に目が覚めた時には九時前だった。多少慌てる様子の涼介に送られて自宅へと戻ると、店先に文太の姿は見当たらなかった。一晩連れ回したのだからご挨拶を、と言い始めた涼介を冗談じゃないとFCに押し込んで送り出し、疲れたなと呟いて家に入ろうと踵を返すと真後ろに文太が立っていた。
「おう、朝帰り」
「……いいだろ、もう俺社会人なんだし」
「はん、オトナぶりやがって」
「なんだよそれ」
深々と吸ったタバコの煙を吐きかけられ、むせながら一睨みして家の中に入った。
「腹減った……」
台所を見ると、きっちり一人前みそ汁が残されていた。振り返ると文太は店開きの準備をしながら腰痛体操をしている。
「……ごめん」
なぜだかひどく、胸が詰まった。
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