固まりかけた黒いゼリー 1

 明日は休日だ。また樹と予定が合ったので毎度ではあるが秋名湖で会う約束をしている。だが近況報告を済ませれば家に戻るつもりだ。四月には同じ状況下で時間を持て余したが、今は違う。やることがある。
 FDの修理のためにしばらくバトルは無い。しかし、机の上には涼介からもらったプリントや雑誌、これまでの遠征のビデオが積んである。見なければならないものは幾らでもあった。それに加え、自主的にメカ系の知識を仕入れることに拓海は注力している。
 ――けど、今は眠い……。
 少しは慣れたが、夜十時を過ぎると途端に脳ミソがだるくなる。首を振る扇風機をベッドに向け、タオルケットを握って寝転んだ。点けっ放しの電気が気になるが、休日前だと思う程に脳がしびれる感覚への抵抗が薄れる。明るい場所で眠ると必ず一度は目が覚めるからその時に消せばいい。もしくは文太が気付いて怒鳴るだろう。
 うとうととシーツとの一体化を試みる。長くは続かないこの時間が拓海は好きだ。俺は今世界で一番幸せな人間に違いないと思っていると、何かが意識に引っかかった。眠いな、なんだろう、と交互に思考が入れ替わり、ある時点ではっと目が開いた。
「FC」
 思わず呟きが漏れる。間違いない。ひどく近いその音に窓から表を見下ろすと、狭い道からするっと白い車が現れ直ちにエンジンが切れた。
 どうしてだろう、降りていくべきだろうか、でも別に用事なんて無い。かと言って、あらかたの店が閉まったこの時間にあのFCのドライバーが買い物に来るなんて有り得ない。目的は自分に決まっている。
「おい、拓海!」
 文太が二階に向かって大声を出し、やっぱりと呟いた。
「FCの医者の兄ちゃんだ!」
 まだ医者じゃねえよと思いながら拓海は手早くスウェットを脱ぎ、ジーンズとTシャツを身に着けてふすまに向かう。手を掛け、そこで足が止まった。先週の遠征帰りの出来事が重く胸に沈んでいる。昨日のミーティングでは目も合わせられなかったというのに、今夜何を話せというのだろう。
 ひどいや涼介さん、と胸の中で呟いて拓海は階段を下りた。古い床をどすどす鳴らして居間を横切り、文太の視線を避けながら靴を履いてがたつく引き戸から出る。むっと胸元まで暑さがせり上がった。
「藤原」
 自分の名前が嫌いになりそうだ。これを呼ばれると身構えるようになっている。
「……なんですか」
 不機嫌と思われても良いくらいの低音になってしまった。でももういいや、と自分の靴の先だけを見ながら思う。
「少し出られないか」
 穏やかな声だ。どんな顔で話しているのだろう。拓海が黙っていると、構わないぜ、と背後から間延びした声がした。
「連れてけ連れてけ。配達も俺の番だ。どうせ寝てるだけだからなこいつは」
 拓海は内心舌打ちをし、のっそりと真後ろに立っている父親を一睨みした。なんだよと言いたげな視線を振り切り、言って来ると呟くと、お借りします、と涼介が文太に向かって丁寧に一礼した。
「クルマ、出します。国道で待ってて下さい」
「いや一台でいい。俺のに乗ってくれ」
 絶句した後、嫌々ハイと答えた。逃げ場が無くなった。


 ――なんでここ、なんだ。
 暗い水面を半目で眺めながら拓海は黙って助手席に座っていた。窓は両サイドが開かれ、音楽もラジオも流れない車内には、湖のたてるかすかな波の音が地上とは違う温度の風と一緒に通り抜ける。
 ナビシートで秋名湖。しかもこの間と全く同じ駐車位置だ。生々しい思い出を反芻しながら拓海はぴりぴりと緊張していた。涼介は拓海を乗せて走り出してから一言もしゃべらない。何も聞かずに勝手に湖畔に乗り入れ車を止めた。ライトが消えると灯りは街灯だけ、さざなみの立つ湖面は夏場のアスファルトのかげろうに似て歪む。
「この間は悪かった」
 うわ、いきなりそれかよと思いながら、もういいですと答える。涼介はハンドルに両腕を乗せてその上に顎を置いている。
「良いってことはないだろう」
「ホントにいいんです」
 横目で窺うと、すりっと肌の擦れる音と一緒に涼介が顔を動かして拓海を見た。背後を少し上がったところにある車道をさあああっと車が通り過ぎ、涼介の耳辺りをヘッドライドが照らす。
「藤原」
 拓海はびくっと顔を上げた。そのままフロントガラスを睨む。
「はい」
 倒れ込むようにハンドルに上体を預ける涼介がガラスにかすかに映っている。その左手が伸びた。とてつもなく緩やかな動きで指先が近付く。逃げなくてはと思いながら、顔に触れる直前で止まった手を凝視してしまう。体温が伝わるような気がして肌がちりちりと痒くなり堪らない緊張に体を動かそうとした瞬間、人差し指と中指の先が、こめかみからサイドへと髪を梳き耳を掠めた。思わず涼介の顔を見る。
「藤原」
 諦めたような困ったような、見極めのつかない曖昧な表情で涼介は拓海を見ていた。
「ごめんな」
 唇が小さく笑ってそう言った。
 ――近くで見ると、駄目だ。
 緊張してしまうのは、ただその容姿が整っていることだけが理由ではなかった。高橋涼介という男の顔は、表情と目がつりあっていないのだ。それは近くで見つめて初めてわかる。語る言葉ともその場の流れとも違う、だからこそ真情なのだと感じさせる別種の意図がその目に込められている時がある。言葉を飲み込む癖のある拓海だからこそ気が付けたことだが、その意図も真意もさっぱりわからない。
「……なんかずりぃ、涼介さん」
「そうか」
 涼介は顔を戻して暗い水に目を向けた。彼の目はたぶん、固まりかけたゼリーのように重く揺れる湖面と同じ色だと拓海は思う。この人は本当は、会話というものがとても苦手なんじゃないだろうか。いきなり拓海はそんな考えに囚われた。
 二人ともが何かに耐えるように微動だにしなかった。また、車が通った。雨の音のような摩擦音がさあああああと抜けていく。ライトが右から左へと車内を照らして気の抜けたような涼介の表情を苦痛を堪えるものに変えていき、軽薄そうな発音がぽつりと漏れた。
「ラブホ行こうか、藤原」
 イヤだ、と思った。
 手ひどい罵倒を投げ返されることを期待した言葉が。
「はい」
 涼介を睨みつけながら拓海は言った。

 数分間涼介は音を立てずにそのままの姿勢でハンドルに頼っていた。
 そして重そうに両腕を動かし、体を起こすとセルを回した。






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