足下の水を見ながら拓海は小さく舌打ちした。昨日の早朝、ハチロクの前をぶっ飛んで行った車が頭から離れない。その前日のバトルも、名前もわからない動物のおかげで転がり込んできた運だけの勝ちだと思う。これが個人的に受けたバトルなら、今頃とんでもない焦燥感で思考停止に陥っているところだろう。
――勝ててよかったけど。
ツキも強さの内だとあの男は言った。プロだからこその言葉かもしれない。それに何より、東堂塾との初戦の時よりも涼介は喜んでいた。あんな風に肩を叩かれるなんて思ってもいなかったから、いつも以上に言葉が出なかったのが悔やまれる。FCを使ってのレクチャーやバトルに自分を選んでくれたこと、礼を言うべきことは山ほどあったのに。
ふーと細く息を流し、まぬけな顔で水に浮かんでいるニセモノの白鳥を見上げる。
――次も勝ちたい。
涼介はあんな表情は滅多に見せないと史浩が後で教えてくれた。付き合いの長い親友でさえ見ることの少ない顔をさせることができたということに拓海の胸はじんわりと温まる。
――喜ばれるって、嬉しい。仕事も今のところにして良かった。
先週の母の日前後、幾つもの花束を運んだ。それらを受け取った女性達は、まるで拓海からのプレゼントであるかのように笑顔を見せて礼を言い、更にその内の何人かはちょっと待ってと台所へ引っ込んで缶ジュースや飴玉を持って戻ってきた。母親との縁が薄い拓海にとって、忘れ難い仕事になった。
――そういや、父の日ってのもあるんだよな。
何かやろうかライターか酒くらいしか思いつかねーけど、などと考えながら桟橋に繋がれたスワンボートに乱される水面を眺めていると不意にそこに影が差した。なんだろうと思って眉を寄せて目を凝らせば、真横に人が座る気配がした。
「あれ」
「何してるんだ」
「いやあの……。涼介さんこそ何してんですか」
「秋名湖を見に来た」
はあそうでしょうねと思いつつ、拓海は自分と同じ格好で桟橋にしゃがむ涼介を横目で見た。突然の出現に動揺の色が隠せない拓海をよそに、緑色の薄いカーディガンを羽織った涼介は珍しくどこか気の抜けた様子で背を丸めている。眠そうにも見える顔は午後の光が散っている浅い湖面に視点を定めていた。
「仕事は?」
「休みです」
「そうか」
何か話さなきゃ、話したい。涼介と二人で話せる機会など滅多にないのだ。話題話題と頭の中で探している間に無言の時間が積み重なり、ただでさえ控えめな拓海の言語能力は留まることなく低下していく。
「藤原、今度のミーティングだが」
助かった話しかけてくれたと瞬時に食いついて右を向いた。
「ハ、」
『イ』は出口を塞がれて喉の奥に引っかかった。傾いた白い顔がゆっくりと遠ざかっていくのを認識しながら、拓海はもう一度水を見た。小魚がぴちんと跳ねた。
「この間使ったファミレスでやる。場所がわからなければ史浩に連絡してくれ」
「……」
「じゃあ八時に」
かすかに会釈だけをした拓海をちらりと見下ろしてから、涼介は板を鳴らしながら桟橋を戻って行った。FCの排気音が遠ざかっていくのをぼんやり聞きながら、あの人はどうしてこんなことをするんだろう、そして、どうして自分はその理由を聞かなかったんだろうと考えた。
たぶん今は、喉に『イ』が詰まっているからだ。
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