その猫に鈴はつかない

 奇妙な雰囲気だった。
 史浩が腹辺りを擦っている横で、啓介と賢太がヤンキー座りで話をしている。松本が彼らをちらちらと振り返りながらハチロクに向かって来た。
「何かあったんですか」
 運転席を出ると拓海は松本に駆け寄った。

 その日は始まりから妙だった。いつもの駐車場に着くなり、史浩にとりあえず二、三本走ってこいと言われた。メンバーがざわついているようで気になったが、とにかく行けと背中を押されてハチロクに詰め込まれ、仕方なく言われた通りにして戻って来たところだ。
「わからないんだ。俺が来た時からああだった」
 原因は駐車場のベンチの上にあった。両腕を組んで頭の下に敷き、膝を曲げた姿勢の涼介が寝転んでいる。
「史浩さんが何か話しに行っていたが」
「具合でも悪いんですかね」
「だったら啓介さんがあんなに大人しくしてるか?」
「そーいやそうですね」
 賢太の胸を押してひっくり返している啓介は、口を尖らせてはいるがただつまらながっているだけのようだ。その周りでは、やっと名前と顔が合ってきたレッドサンズの一軍メンバーが真剣な顔でなにやら話している。誰が猫に鈴をつけにいくかを相談してるみたいだなとのんきに思っていると、つかつかと史浩が寄ってきた。
「藤原、頼む」
「やです」
 嫌な予感に自動販売機に逃げた。しかし史浩は眉を下げて追って来る。
「頼むって。おまえは大丈夫な気がする」
「やですよー。大丈夫って何なんですか」
「あいつの腐れ縁としての勘だ。というか、なんとなく」
 なんだよそれと胸の中で呟いていると、コイン投入口に硬貨がしゃりしゃりと入っていく。史浩はブラックコーヒーと甘いコーヒーを取り出し口から持ち上げ、拓海に押し付けた。
「どうしたんだって聞いてくるだけでいいから。頼む」
 な、と外報部長に手を合わせられては断りにくい。
「……わかりました」
「サンキュー。それ、おごりだから!」
 当り前だよと思いながら拓海はどーもと言って史浩に背中を向けた。

 涼介が寝そべっているベンチはひどく遠くにあるように見えた。何もそこまで、という遠巻き具合でひそひそやっている二軍メンバーの横を通り過ぎ、やれやれと思いながらベンチの横に立った。涼介はのんびりした様子で体を伸ばして目を瞑っている。
「……涼介さん」
 これ、とブラックコーヒーを差し出した。涼介は一瞬目を開けたが、無視するようにまた瞼を下ろす。
「あの……。どうしたんですか」
 ベンチの端に缶を置き、拓海は史浩に言われたままの用件を告げた。
「……だ」
「え、なんですか」
「だから……だ」
 普段の涼介からは想像もつかないほどか細い声だった。急に梅雨前の蒸し暑さが身に迫り、背中にじわっと汗が滲んだ。これは本当に具合が悪くなったのかもしれない。拓海は腰を曲げて耳を澄ませた。
「すみません、もう一度」
 涼介は唇を動かしたが音はしなかった。心配になった拓海が更に顔を寄せた途端、ぬっと左手が伸びて後頭部を掴んだ。手に持っていた缶ががんごろごろと落ちてベンチの足に当たって止まった。
 ――やられた。
 そう思った時には暖かい唇が拓海の唇に押し当てられていた。温度をはっきり感じるのは初めてだ。俺、結構慣れてきたのかも、などと半目で考えていると腕が離れた。
「涼介さん……」
 ベンチの脇にしゃがみ、膝の間にがっくり頭を落とす。なんだか何もかもがどうでもよくなった。きっと今なら飛べるはず。
「なんで、こういうこと、すんですか」
 よく聞こえるように区切りながら言ってわざとらしい溜息を吐くと、涼介は薄い視線を向けた。
「藤原」
「なんすか……」
 涼介も拓海に負けないなげやりな目付きになっていた。
「俺は今、羽目を外しているんだ」
「……は?」
「羽目を、外してるんだ」
「……はめ?」
「だから放っておいてくれ」
 言葉の意味がさっぱりわからずしばらくそのまましゃがんでいたが、涼介は動く気配もしゃべる気配もない。もう一つ息を落っことして代わりにコーヒー缶を拾うと立ち上がり、再び駐車場を横切った。額に汗を浮かべ、ばたばたとプリントで自分を扇いでいる史浩に向き合う。
「どうだった」
 期待に満ちた史浩の目が、拓海をわずかに慰めた。
「……はめをはずしているんだそうです」
「は? 羽目? なんだって?」
「いまおれははめをはずしているからほうっておいてくれっていってましたあー」
「おいおいおい、なんだあそりゃあ!」
 史浩の表情がくしゃっと悲しげになるのを見届けて満足し、拓海はハチロクへと足を向けるのだった。

 その三十分後、やおら起き上がったレッドサンズのリーダーは何も無かったように次回の遠征の概要を語りダブルエースに下見のビデオを渡すと、あっという間に愛機に乗って走り去ったという。







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