バトル開始

 二通目の手紙が来たのは給料日の前日だった。一通目にはハガキで返事を書いたが今度はどうしようかと考えている内に栃木の遠征日がやってきた。そうなると日常的な思考能力はゼロになり、気が付けば五月になっていた。
 ――返事……。
 他のことを考えている余裕なんかない。そうは言ったものの、手紙は一度読んだ後に机の上に放ってあるからたまには目に入る。引き出しの奥に投げ込んで忘れてしまおうと思っても、なぜか手を触れることがためらわれてそのままだ。
 少し離れた場所で涼介と松本が何か話をしている。次はどこを変えるんだろうか、薄いピンク色の封筒を無理やり頭の外に追い出して、拓海は座っているボンネットの表面を撫でた。
――あ、まただ。
 色が変わって間もないそれは、何かの拍子に異様な疎外感を拓海に与える。車だけが走って行ってしまうような感覚に首を竦め、小さく息を吐くと手の中の缶コーヒーを持ち上げた。エンジンの時もそうだったが、ハチロクがハチロクで無くなっていくように思えてしまう。
 残った液体を飲み干してしまうと立ち上がってゴミ箱に投げた。かしょんと寂しい音がした。振り返って見る車は澄ました顔をしているように思える。またこいつが速くなったと思えば嬉しいのに、時々やってくる焦燥感が拭えないままだ。乗りこなせないまま凄まじい速さで変化していくハチロクは、手探りで踏み入れたドライバーへの道を走っていく自分に似ているのかもしれない。
「藤原」
 どうした、とかかる声に見上げると涼介がミネラルウォーターのボトルを手にして隣に立っていた。暑いのか、長袖の白いシャツを捲り上げている。どこから見ても拓海よりも男として完成しているだけに、折り曲げられたシャツの袖から覗いている赤っぽい肘の頼りない色が目を引いた。
「なんでも、ないです」
「そうか」
 多少は慣れたがまだ近くに寄るとアガってしまう。やっぱり俺、顔が赤いのかなと思いながら少し俯いてバンパーに膝をくっ付けた。
「不安なのか」
 相手がプロのレーサーと聞いて不安にならない訳はないな、そう呟いてから涼介は水を飲む。
「不安とかじゃなくて」
 拓海は言いかけてやめた。車に置いて行かれるような気がする、なんて言うのは熱心にハチロクをチューンしてくれているメカニックや涼介にあまりにも失礼だと思う。
「……よくわからないです」
「プレッシャーが煽るのは不安ばかりじゃないからな。おまえはその辺りが上手くできていると思う」
「……」
「啓介は血が上ったり下がったりで騒がしいぜ」
 ほらとボトルを持った腕が伸びる。真剣な顔でメカニックと話している啓介はいらいらとした仕草でタバコを探し、しかしちょっとそれを見てからまたポケットに戻している。
「藤原」
 あ、また出した、と啓介を見ながらハイと返事をした。
「藤原」
「ハイ」
 妙に声が近いと思いはした。しかしそれ以上は考えることもせずに隣に顔を向けた。
「……」
 これは事故なのだろうか。
 停止した思考を動かそうと試みる前に、ビデオ五十回見ろよ、と言い置いて涼介は歩いて行ってしまった。
「……今、口と口でぶつかったよな……?」
 ハチロクが答えてくれる訳もなく、唇を触ってみても何かが変わっているはずもない。
 アニキーとでかい声が響く赤城の駐車場、拓海はフロントガラスに映る街路樹の影を見下ろして首を傾げた。







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