第三の男

 解散の宣言を聞き終えたメンバーがそれぞれの車で散っていく。十分もすると駐車場に残っているのはプロジェクトの関係者だけになっていた。
 額の汗を拭いながらFDのエンジンルームを覗いているメカニックと啓介を見るともなく目に映し、拓海は愛車の脇にしゃがんでいた。隣では、随分長い間無言のままの涼介が資料を見つめている。
 松本は自分の車のタイヤをいじっているからハチロクはお役ご免だろう。いつもならさっさとクルマに乗り込んで麓にノーズを向けているところだ。しかし。
 ――話しかけてもいーのかな。
 いいに決まっている。むしろ涼介は拓海からの反応を待っているはずだ。自分が作り概要を説明したばかりのデータ集を、今この場で読む必要など無いということは拓海にも理解できる。
 ――でも声が裏返りそー……。
 高崎のホテルに泊まって以降、涼介からの連絡は全く無かった。今日の臨時ミーティングは史浩が電話で報せてきたし、次の遠征先は啓介からのメールで知った。いつものことだと言われればそうなのかもしれない。しかし、自分達の間に起こったのはただ事ではないはずだ。二人でとんでもないことをしでかしたというのにそれきり無反応というのは、避けているということじゃないだろうか。キスと同じに勢いあまった事故のようなセックスを、涼介は後悔したということじゃないだろうか。
 しかし、そんな考えを頭一杯に詰め込み、自分のスニーカーばかりを見つめながらミーティングを終えてハチロクの側にしゃがむと、当り前のように涼介がやって来て隣に立った。それから十五分、梅雨が明けて急に上がった気温にじりじりと汗を滲ませながら、どちらも動かないままぼんやりとてんでの方向を眺めている。
 ――なんかもー訳わかんなくなってきた。
 だんまりの涼介がめくるページの音が上から降ってくる。溜息らしき吐息も落ちてきた。お互い焦れているのがわかっていて、どちらが先に動くかをじっと待っている。やりきれなくなり、拓海は立ち上がると涼介の顔も見ずに自動販売機に向かって歩き出した。
 これまで拓海はこういう性格の人物との交流をかなり徹底的に避けてきた。なつきや樹のような、失敗するにせよ成功するにせよとりあえず動いてみるというタイプが断然相性がいい。これだけ関わっても涼介への対処法などさっぱり浮かばず、ああまだ手紙の返事書いてねえな、アレどこにしまったっけと遠い出来事に逃避しながらポケットに手を突っ込んで小銭を探した。
「藤原」
 せっかく探し出したコインが指先から逃げていく。
「単刀直入に言う」
 ぬっと長身が背後に立っていた。
「ハ、ハイッ」
 いたずらを見つかったように首を竦め、回れ右して顎を上げると、いつも通りの無表情がそっぽを向いていた。そんな言い方をしたにも関わらず、涼介は喉に言葉を詰まらせ口を軽く開けたまま何度か呼吸だけをした後、一度唇を噛み締めてから拓海とまともに目を合わせた。
「また、ホテルに誘ってもいいか」
「……」
「……」
「えっ」
「なんだ、えっていうのは」
 ふっと足元に視線を投げて涼介は苦笑した。
「だ、だって」
 うわーどうしよう、両手を振り回したくなるのを必死で堪えながら拓海はしどろもどろに言った。
「だ、だって、あ、アレ、全然ダメって言うか……え? またし、したいんで、すか?」
「そうだ」
 簡潔に肯定された。言葉を失って拓海はぼうっと涼介の顔を見つめた。無言の時間が過ぎるにつれ、微笑を浮かべていた唇はわずかずつ歪み、堪えるように口角が下方に引かれていった。
「……」
「藤原」
「……」
「なんとか言えよ、おまえが抱いたんだろうが」
 販売機の白い光に照らされる唇は拗ねたように尖っていた。耳たぶ辺りから頬にかけてが赤い。
「あっハイ……」
 涼介さんでも赤くなるんだ、そう思った瞬間に拓海の言語中枢はパーキングにシフトを入れた。
 言葉を待って動かない涼介のシャツの裾を山向こうから吹きつけてくる温い風が巻き上げ、肌の色が見え隠れしている。そこも触ったんだなと霧がかった脳から記憶を拾い集める。そんな場合じゃない、そうじゃない、でもシフトがどうしても変えられない。やがて涼介の顔から赤味がすっと消えていき、元の無表情が貼り付いた。
「わかった」
 くるりと向けられる背は、見慣れない猫背になっていた。真っ直ぐで長い足がすごい勢いで遠ざかって行く。唖然とそれを眺め、拓海は一声を搾り出した。
「そ、」
 自分の声を聞いた途端、かーっと頭に血が上って目の前が白くなった。頭蓋骨の中で血流がガンガンと鳴り響く。キレるなよ、と呟いた理性が、腕捲くりしたアドレナリンに殴られて気絶した。
「そんないきなり」
 史浩の目の前まで辿り着いた涼介の背中に向かい、拓海は踏ん張った。
「んないきなり言われて答えられる訳ないでしょおおお!」
 叫び散らしたと同時に拓海は突進を始めた。その形相に驚いた史浩が缶コーヒーを取り落とし、交換し終わったタイヤが松本の手から離れてごろごろと転がって行く。振り返ったレッドサンズのリーダーも、おそらくメンバーの誰もが見たことのない顔をしていたことだろう。その驚愕の表情を見たのは拓海だけだったが。
「ひでー! ひでーよ涼介さん!」
「待て、待て藤原!」
 両手を上げて涼介が戻ってくる。
「だって、だって俺だって苦しかったのにっ! あんなのもうヤだって絶対そうだって!」
「藤原!」
「あんなん見てさア! 俺からどうこう言える訳ないじゃん!」
「落ち着け藤、」
 肩を掴もうとする手をばしっと跳ね除けて涼介の胸元を掴む。すごく驚いている顔が妙にエロい。もうどうでもいい、なんだかよくわからないけどキスしよう、そう思ってぐいっと引き寄せた。
 そこで何かが頭の上に落ちてきた。
「……え?」
 ばしゃばしゃと水が降りかかる。涼介のシャツから手を離し、びとびとになっていく自分のTシャツを見下ろす拓海を背後からの飄々とした声が笑った。
「お、正気に戻った」
 最後の一滴までペットボトルの水を振りかけると殻の容器を拓海の手に持たせ、啓介はするりと涼介の肩に手を回した。黒いシャツが拓海の視界を塞いで涼介の顔を隠した。
「アニキー遊び行こうぜ、ゲーセン行こ」
「啓、」
「藤原、おまえもう帰れ。なんかびしょびしょだし」
 なんで濡れてんだ、とでも言いたそうな表情で拓海を見下ろし、ひらひらと手を振る啓介を拓海はぼんやり見上げた。
「……はあ」
「よし帰れ。で、アニキ、最初ファミレスな。でゲーセン。ビーマニ面白いぜ」
「……啓介」
「いーんだよフジワラは。ビーマニやろうぜ、音ゲー知らない? 流行ってんだけど。じゃーUFOキャッチャーでいいから遊び行こうぜ行くよな、よし行こ」
 視線を長く拓海に残しながら、涼介は啓介に促されるまま車溜まりに足を向ける。彼らと入れ違うように史浩が走って来て、どちらに声をかけようかと左右に忙しく頭を動かしてから拓海に向き直った。
「……藤原ぁ」
「はあ……」
「なんなんだ、一体」
「よく……わからないっす……」
 再び言語中枢が麻痺して拓海は俯き、史浩の溜息が地を這う。
「これ使えよ」
 駆けつけた松本がちょっと汚れたタオルを差し出した。
「なんて言うか、まあ、そうだな」
 史浩は眉を下げながらべしゃべしゃと拓海の肩を叩き、言った。
「今日は帰れ、な?」
「史浩さん、行って下さい。後は俺が面倒みますから」
「悪い、松本」
 風邪ひくなよ藤原、と苦しげに笑った史浩はワンボックスに駆け戻って行く。大して意味のないことを話しかけてくる松本に生返事を繰り返しながら見ていると、史浩は周りの荷物をがしゃがしゃとリアシートに放り込んでから大慌てで運転席に飛び乗った。
「俺らも帰ろう」
 な、と穏やかに笑う松本に頷き、拓海は動き出すFCを横目で追いながらハチロクに歩いて行った。


「おい、おい待てって!」
「なんだよーどいてー邪魔だってー」
「ちょ、俺も行く、行くって!」
 FDの鼻先にワンボックスを突っ込み、史浩は必死で声を上げた。
「なんだよー史浩も遊ぶのかよーつーかビーマニ知ってる?」
「ビー? なんだ、どこだって?」
 後ろからすっと出てきたFCの窓が開く。
「史浩」
「涼介ぇ……」
「すまん」
「いやーまあーいいけどなあ」
「ったく仕方ねーなー遊んでやるよ史浩も。ビーマニ知らねーならラムネでも取ってりゃいーや」
 ぐりぐりとステアを回してFDはワンボックスを避ける。
「んじゃ最初前橋で飯食うからそこまで競争な。負けたらオゴリってことで」
「ああ? 前橋のどこだ? って競争ってなんだ、俺ボンゴだぞ!」
「ハンバーグ食べるに決まってるっての。信号多く引っかかったヤツが負けね。そんじゃお先にー」
 ぶおん、とマフラーを鳴かせて黄色い車はさっさと峠を駆け下って行った。
「そうだな啓介……世界はおまえのために回っているな……」
 ぽつりと言った涼介に大苦笑し、行くかと史浩もステアを回す。






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