門をくぐり広大な敷地に入ると様相は一層無骨になった。門の上部には四角い石を敷き詰めた見張り場があり、数名の門兵が彼らを見下ろしていた。内の一人が駆け下り、一行に軽い礼を取って先を示した。
城本体は短く刈り込んだ芝生の奥に続いていて、芝生には敷き石が何かの紋章の形に埋め込まれていた。道の両側に並んだ木々は幅を持たせた形に刈られ、そのそびえる木々の倍ほどにも高く城壁が囲んでいる。
「堅牢な造りの良き城のようでございますね」
オヴェリアにアグリアスはそっと呟いた。見上げ、少し笑い、しかしオヴェリアはかすかに震えているようだ。
「オヴェリア様」
「大丈夫。あなたが守ってくれるのだから」
アグリアスはしっかりと頷いて手を伸ばした。オヴェリアは強い力で握り返す。
「暫しこちらでお待ちを」
門兵は静かに立ち去り、しん、と冷える廊下に取り残された一行は言葉も無くとりどりの方向を眺めた。廊下は天井が高く、青色の絨毯が中央に敷かれ、灯り取りの窓が幾つも上方に並んでいる。窓の下からは歴代の城主の肖像が彼らを見つめていた。正面の絵を指差し、あれがドラクロワ枢機卿だとラヴィアンが言った。
絵の中の枢機卿は神々しくまた慈悲深い眼差しをした初老の男だった。彼が今、オヴェリアの命を握っている。アグリアスは背筋を正してその絵を見つめた。
もしも枢機卿の保護が適わなければ。
その懸念は可能性の一つとしてアグリアスの頭にこびりついていた。本気で教会の誠意を疑っているわけではなかったが、騎士としての本能がどうしても危険を予測せずにはいられない。もちろん、王制国家であるイヴァリースで唯一中立の立場を取れる機関である神の家が、王家の継承権争いに翻弄される力弱いオヴェリアを見放すとは思いたくなかった。
そもそも、確執の絶えないルザリアの王宮に置くよりは、修道院で王女に相応しい教育を与える方が彼女のためだとラーグ公に進言したのは教会側であった。デナムンダW世を未だ慕い、その血を受けたオヴェリアの将来を憂いていた者が重臣としてルザリアに残っていたのも後押しとなり、ラーグ公と共に彼らが渋る王を説き伏せた。そして、幼いオヴェリアは神官の腕に預けられ、やがてはシモンの待つオーボンヌへと移り住んだ。
それ故疑うことはむしろ不遜とも言えた。しかし、王がオヴェリアを見捨てたならばどうだろう。
アグリアスが父親から聞かされていた王宮の内情はあまりに複雑だった。オヴェリアを保護しているはずのラーグ公は王妃の実兄であるから、有事の際にはおそらく王妃の子、オリナス王子を中心に動くだろうことは想像に難くない。更には今回の誘拐騒動はゴルターナ公の配下、南天騎士団が実行したものとして世論は一致しているが、アグリアスらはそれすらも偽りであることを知ってしまった。ゴルターナ公にすれば、誘拐劇はそれこそ陰謀、緊張状態にある政敵ラーグの謀である、と主張する機会である。対するラーグ公は世論を盾に、ゴルターナ公を厳しく糾弾するだろう。今回は両公本人には責は無いと、うやむやに決着が成されそうではあるが、今後オヴェリアを巡って厄介事が幾度となく再発する、という恐れは残される。
オリナス王子は幼子ではあるが、王妃の保護の下にあるためにかえって扱いにくい。事実上孤立無援、成年には達しないが子供でもないオヴェリアを利用すれば、彼女自身の意思、という大義名分の上でいくらでも横暴がまかり通ってしまう。それを読んだ上、そして自分達が真実を見てしまったという事実、これらを鑑みればオヴェリアが王族に見捨てられることも有り得るのだ。王が教会にオヴェリアの排斥を宣言すれば、いくら中立機関とはいえ戦争を起こしかねない火種は進んで抱えないだろう。
ゼイレキレの滝でディリータが言った言葉がアグリアスの中で未だ回っていた。「王女は身内に狩られている」。ディリータはそう言った。アグリアスは激しくそれに反駁したが、実のところあまりに核心をつかれた思いだった。だからこそあれだけ激昂したのだ。確かにオヴェリアは狩られかけた。それも、王位継承権を持つがゆえに。あの時叫んだ言葉はそのまま、オヴェリアを狩る理由になるのだと、本当はアグリアスにも分かっていたのだ。
日が経つごとライオネルに近づくごとに、アグリアスの喉元や胃の辺りに熱い焦りが押し寄せては締め付けるようになった。自らの負傷に痛む体を幸いに部下を失った想いに蓋を閉め、ただ、オヴェリアの安全を、とその使命のためだけにライオネルまでやって来たのだ。ここで希望が潰えたとなれば、アグリアスは自分が平静でいられる自信がなかった。
だからこそ、最悪の事態を想定した打開策をアグリアスは模索していた。短い旅の途中でラムザと話し合う、というほどでもなくしかし真摯に語った中で、アグリアスはライオネルに救いがなかった場合、父親ではなく近衛騎士団団長としてのオークス侯爵に保護を願おうと思ってることを話していた。ラムザもそれを考えていたらしく、最悪の場合、ライオネルからの逃走の手助けと近衛騎士団団長の領地までの護衛を申し出ていた。今回ジャッキーとラッドが宿に残ったのは、彼らが枢機卿に会う理由がないからだけではなく、城内に拘束された場合の救出役としての別行動、というところが本当の理由だった。
ただし、枢機卿が見放すような者は、例え王女とはいえども侯爵ごときが守りきれるものではない、という現実も、アグリアスは認識していた。
隣に立ち、うっそりと瞳を曇らせているアグリアスをラムザは小突いた。
「オヴェリア様が不安がってる」
言う通り、王女は自分の騎士達が無口になり宛ても無く視線をさ迷わせている有様を目だけで追って、強く組み合わせた両手を胸の上で震わせている。自分が狼狽すれば彼女達の負担が増えることを理解して、必死で不安を押し殺しているのだった。アグリアスはふう、と息を付き、ありがとう、とラムザに言うとオヴェリアに歩み寄った。
「緊張いたしますね」
手を取って解いてやる。すぐさま握り返してくるオヴェリアは笑おうとしているが、それは成功しそうにない。アグリアスも失敗していると思いながらも笑顔を作り、オヴェリアを見つめた。
「アグリアスの手、いつもより冷たいわ」
熱くはないが暖かい肌をしているはずのアグリアスの手はすっかり冷めている。オヴェリアはそれを暖めるように両手で被った。
「ここまで無事に来れたのだもの。きっと神様はお見捨てにならないわ」
自分に言い聞かせながらも縋るようだ。ここまできて生半可な慰めはアグリアスには言えなかった。
「例え誰が見捨てても、私はいつまでもお側におります」
「それなら私は世界中で一番安全ね」
オヴェリアは微かに笑った。少女としての不安よりも王女としての責務が辛うじて勝っている。オヴェリアの静かな横顔とそれに被るようなアグリアスの長い髪を見つめながら、ラムザも久方ぶりに何者かに祈るのだった。
そのまま長く待たされた。客室すら使わせてもらえないことにアリシアが不満を漏らし始める。自分達の真意を観察するためにこの場に曝されているのかもしれない。ラムザは辺りを見回したが、これといって不審はない。しかし、何か良くない視線を感じるのは気のせいだろうか。
「捕まっちまったってことはないよな・・・」
おろおろと見回しながらムスタディオが言った。その声は存外に大きく響き、オヴェリアがびっくりして振り向いた。間髪いれず、アグネスがばちんとムスタディオの頬を叩いて黙らせる。
「いて・・・ごめん・・・」
「バカ! バカ! 大バカ! 何言ってんのさ!」
「・・・ごめんって」
鼻息を荒くするアグネスを逃れてムスタディオはオヴェリアの側に寄った。ごめんなさい、大丈夫、きっと、と彼なりの気遣いをするがオヴェリアの不安は却って煽られたようだった。
「私一人が怖いのじゃないかと思っていたの。一緒ね、良かった」
二人は互いに困った顔で顔を見合わせた。もう一度、ごめんなさい、と言いかけるムスタディオを遮るように、ラムザが彼の肩にもたれかかった。
「武器を取り上げられなかっただろ。大丈夫」
理性的なラムザの言葉にアグリアスが同調しようと口を開きかけた時、兵とは違う、どこか慇懃な足音が聞こえた。皆が一斉にその方向に首を向けた。
「こちらでしたか。大変お待たせをして失礼仕りました。皆様こちらへどうぞ」
執事らしい女の言葉にアグリアスが先頭に立った。
「我らには何の害意もございません。だた、枢機卿におすがりすべく参りました」
「分かっております。先だっての洪水の後始末に兵を回したため、どうも気の利かない者ばかりが残りまして。客室にお通ししてお休み頂くよう、申し伝えておきましたのに」
――嘘だな。
ラムザは女の声の響きに含むものを感じて思った。アグリアスも眉を寄せたまま黙している。ここは、いわゆる安全な場所には違いはないが、住みよい場所でもなさそうだった。
「こちらの執務室で枢機卿がお待ちです」
申し訳ありませんが、と執事が扉の前の木箱を示す。
「武器、装備の類はこちらに。ご退出まで私が管理致しますのでご安心を」
ここでとうとう、と各自が仕方なく武器を外していく。オヴェリアが天使の指輪を外そうとするのをアグネスがそっと止めた。更に片目を瞑ってみせ、自分のリフレクトリングを木箱に入れる振りをして後手にオヴェリアに握らせた。
「枢機卿、オヴェリア姫ご一行がおいでになりました」
「おお、お待ちしておりましたぞ」
執事が扉を開けるよりも一瞬早く、ノブが動いて枢機卿自らが姿を現した。穏やかな笑顔で皆を見回し、両手を広げて招き入れる。
「猊下、ご謁見をお許し頂いて、本当にありがとうございます」
思い余ったようにオヴェリアが言った。ドラクロワは静かにうなずき、
「ささ、ともかくもこちらに。御付の方々も気を休められるが良いでしょう」
アグリアスの目にほんのわずかな安堵が宿った。こうして出迎えてくれる心持が彼の人となりを語っているのではないか、それを頼りに心から礼を取った。
各人に椅子を勧め、枢機卿はやはり穏やかにアグリアスの奏上に耳を傾けた。彼はオヴェリアの行く末を真摯に案じながら話を聴き終えると暫し黙考の様子を見せた。誰も言葉は無く、ただ枢機卿の閉じられた目が開くのを待った。
「そのような次第であったとは」
沈鬱な声が漏れ、アグリアスがまず背筋を伸ばした。
「分かりました、アグリアス殿。そうとなれば私が手を貸さぬわけには参りますまい」
「・・・・では!」
「早速にも聖地ミュロンドに遣いをやりましょう。教皇猊下に直訴奉るのです。ラーグ公の不正を暴き、オヴェリア様のお命をお守りすべく手を打ちましょうぞ」
「ああ・・・、ありがたきお言葉・・・しかし、教皇猊下はお聞き届けくださるのでしょうか」
「ご案じ召されるな。この私が全力で口添え申しあげる故。貴公がそのように心乱されてはオヴェリア様のお気は休まらぬというものですぞ」
「全く、仰せの通りでございます・・・」
恥じ入ってアグリアスは視線を落とした。未熟な自分がどれほどオヴェリアを震えさせたことか。しかしドラクロワは明るく笑い声を上げた。
「老僧の小言などをお気になさるな。お若い方には珍しくはないこと、自らを捨てて主君を案じる良き臣下に恵まれ、オヴェリア様はお幸せであられることです。ともあれ、無骨なばかりの古い城ではありますが、聖地よりのご返答を賜るまで、ごゆるりとおくつろぎ下され」
「猊下・・・」
オヴェリアが立って枢機卿に近づいた。跪き、ローブの裾を手に取って唇を当てた。
「お心遣い、本当に感謝致します・・・本当に、本当に・・・!」
涙を見せるオヴェリアに枢機卿は慌てて椅子を立った。腰を浮かせたアグリアスは、枢機卿がやはり膝を付く姿に胸をつかれて立ち竦んだ。
「やんごとなきお方がそのように無闇に膝を折られるものではありませんぞ。お心は充分に頂きました、どうぞお立ち下され」
オヴェリアの両手を取り、労わりながら肩をさすって立ち上がらせる。部屋に満ちた緊張が氷解する音が聞こえるようだった。枢機卿は噂に違わぬ慈愛の人であったと、騎士達もまた涙に視界を曇らせた。
「全ては聖アジョラのお導き。ご安心召されよ」
「はい、聖アジョラの守護がいつも猊下の上に注がれますように・・・!」
ようやく安堵が身に染みたのか、涙を零しながら足元を危うくさせるオヴェリアをアグリアスが引き取った。二人は強く頷きあいながら椅子に戻る。
「ときに若き機工士よ」
「ははははい!」
オヴェリアの喜ぶ姿をもらい泣きしながら眺めていたムスタディオが椅子から飛び上った。苦笑して座るように手をやり、ドラクロワはムスタディオに向き直った。
「そなたの願いも承知しました」
「え、本当に・・・」
「前々から恐ろしい噂が耳に入ってはおったのだが何分証拠が出てこなかった。お父上の誘拐は不幸ではあるが、充分な悪事の証明、今こそバート商会を壊滅させるために、我が精鋭達をゴーグに送りましょうぞ」
「ありがとうございます、猊下!」
がたんと椅子をひっくり返して立ち上がり、大きな声でムスタディオは言った。思い切り腰を折って深く頭を下げる。恥ずかしいんだから! と叱りながらアグネスが起した椅子に引き戻した。 枢機卿は笑いながら、構わぬ、と手を振った。
「だが、何故そなたたち親子が狙われるのだ? 訳を聞かせてはもらえぬのか?」
「そ、それは・・・」
そわそわとムスタディオは枢機卿とその足元の煉瓦色の絨毯との間に視線をさ迷わせた。ムスタディオの素朴な人柄は既に良く知れていたから、ここまでの恩を受けて話さないのは相当のものだろう、ラムザは彼を庇うべく口を開こうとした。
「よいよい・・・これであろう?」
「あっ・・・?!」
枢機卿は懐から赤い玉石を取り出した。居並ぶ者の目を一様にその光が射った。クリスタルのようであるが、その光は異質だ。生きているようにかすかな明滅を伴っている。
「どうして・・・」
狼狽してムスタディオが立ち上がろうとし、アグネスがすかさず裾を捉えて座らせる。身を乗り出してクリスタルを見つめるアグリアスが枢機卿の顔を伺う。
「そのクリスタルは・・・?」
「アグリアス殿はゾディアック・ブレイブの伝説をご存知であろう?」
「子供の頃、教会でしばしば教授頂きましたが、あのおとぎ話が何か・・・」
「これはこれは」
ドラクロワは面白そうに笑ってアグリアスをからかうように見た。
「聖騎士殿は教会が嘘を申しておると思われるか」
「まさか、そのような・・・しかし、いかにもなおとぎ話であったと・・・」
「さもありなん。子供向けには脚色の一つもなければ大人しく聴いてはもらえぬからのう。そちの教区には良き伝道士がおったようだな」
軽口はさておき、とドラクロワは机の上にその玉石を置く。アグリアスは困ったような顔をしてオヴェリアを見た。すると意外にも彼女は目を輝かせてアグリアスににっこり笑い、静かに語りだした。
「・・・太古の昔、まだ大地が今の形を成していなかった時代、ルカヴィが支配する世界を救わんと12人の勇者がルカヴィ達に戦いを挑みました。激しい死闘の末、勇者たちはルカヴィ達を魔界へ追い返すことに成功し、大地に平和が訪れました。12人の勇者たちは黄道十二宮の紋章の入ったクリスタルを所持していたため、人々は彼らを黄道十二宮の勇者、ゾディアック・ブレイブと呼ぶようになったといいます。その後も時代を超えて、私たち人間がルカヴィとの争いに巻き込まれる都度、勇者たちが現われ世界を救った・・・。そんなお話だったと記憶しております」
いかにもオヴェリアが好みそうな話だとラムザは思った。母からそんな話を聞いた覚えはあったが、教会に真面目に通った記憶は無いので、その話は新鮮な響きを持っていた。
「さすがオヴェリア様、よくご存知ですな」
「オーボンヌでシモン先生に教わりました。そういえば、聖アジョラもゾディアック・ブレイブを率い、共にイヴァリースをお救いになったと」
「さよう、その勇者達が所持していたクリスタルを我々は聖石、と呼んでおります。そして」
机の上の玉石を手に取る。
「これが、その聖石なのです。伝説の秘石、ゾディアック・ストーン・・・」
まさか本当にあったなんて、とオヴェリアの感嘆の声に、ムスタディオは一層肩を小さく竦めて俯き、ドラクロワの視線がムスタディオに注がれる。
「ルカヴィを凌ぐ御力がこの聖石には備わると言います。私などには大きなクリスタルにしか見えませぬが」
「ムスタディオ、大丈夫か?」
ラムザは小さな声で呼びかけた。こんな得体のしれない石にこれほど反応するムスタディオは一体。
「ゴーグの地下でも、これと同じものを見たのであろう?」
ドラクロワの押しに、とうとうムスタディオは折れた。情けない声でゆっくり話し出した。
「・・・はい・・・地下には壊れて動かない機械が沢山埋まっています・・・その石を近づけると死んでいるはずの機械が唸り始めるんです。どんな力がその石にあるのかなんて、俺には分かりません。ただ、ルードヴィッヒはそいつを兵器に利用しようとしてる。親父は聖石は渡さないってがんばってて、それで結局やつらに・・・」
「やはりこれをバート商会が狙っているのだな」
ドラクロワはしたり、と頷き、落ち込むムスタディオを見つめる。
「心配いたすな、若き機工士よ。父上のことはしかと心得た。そなたらには残念ではあろうが、聖石はかように扱いが難しいもの。教会が管理して災いから守るべきであろう。二度と争いの道具とならぬよう、一刻も早く持ち帰ってもらえるであろうか?」
「はい、はい、猊下! 俺は、親父が無事ならそれ以上何も望みません!」
また立ち上がるムスタディオに苦笑し、枢機卿はそれでは、と立ち上がる。
「ささやかながら道中のお疲れを癒す酒宴を設けさせました。オヴェリア様方の居室をご用意する間、御付の方もご一緒にご堪能くだされ」
皆を促し、枢機卿は扉に向かう。オヴェリアが最後まで枢機卿の側に寄り添い、一途な眼差しを向けている。
「本当に、ありがとうございます、猊下・・・!」
「行く末の不安は万人につきもの、姫だけではないことをお忘れなきよう」
「はい、聖アジョラを信じて教皇猊下のご返答をお待ちします」
しっかりと頷くオヴェリアが少し大人に見える。アグリアスは微笑んで自分の主君を誇らしく見つめていた。
謁見室を出ると案内の者に付き添われて彼らは客室に通された。既に酒宴の用意は整い、固辞するラムザらをオヴェリアが強く願って留め、自ら杯を勧めた。全員の喉から安堵の溜息が漏れ、また笑い声がさざめいた。
「本当に皆さんありがとう。今日は私、お礼ばかりを言えて嬉しいわ」
オヴェリアの明るい声に場が華やぐ。
「良い運びとなり、本当に安堵致しましたね」
「これで当面の安全が確保されたと考えても良いのですね」
ラヴィアンとアリシアの笑顔にアグリアスも頬を緩め頷く。
「少しは気を楽にしても構わないだろう。ご酒もありがたく頂戴しなさい。ここは文字通り聖域だから」
例を見ない上司の寛容にラヴィアンとアリシアは控えめに歓声をあげた。早速、互いにいそいそと葡萄酒を注ぎ合う。
「ふうん、聖域ってお酒は禁止されているんだと思ってた」
ラムザのからかいに気まずそうにラヴィアンが言う。
「とても厳しいところは、ね。ドラクロワ枢機卿がお許し下さるんだから、ここはそうじゃないってことよ」
「いいね、大人はお酒が飲めて」
何か拗ねたようにラムザが言う。
「ラムザ殿はご酒は・・・」
今にも彼の杯に注ごうとしていたアグリアスが手を止めた。
「ラムザはまだ17なんだから駄目。飲まさないで」
アグネスがぱしりと言って、ラムザの杯を遠くにやる。それに近衛騎士達は不思議な溜息をついた。余計なことを聞かないのが戦士らの流儀だが、ここにはそうでない者が少なくとも2人いた。
「17!? ほんとに?」
もちろんムスタディオが聞き逃すことはない。
「・・・・どういう意味」
「そうは見えないってことだけど」
「どう見えるかって聞いてるの!」
「”の”って、子供じゃないんだから・・・15くらいだと思ってたよ」
「・・・・・」
「しっかりしてるなあって」
「ああそう!」
「私は20くらいだって思ってたわ。アグリアスと同じか少し若いかなって」
続くオヴェリアが驚くべき発言を繰り出した。彼女は果実酒を手に、少し顔を赤くしている。
「だって、私のことをお兄さんみたいな目で見ていたもの。それに、ラムザさん、あの、うーん、これは止めておくわ」
「聞き捨てなりません、おっしゃって下さい」
なぜかアグリアスが絡む。彼女は酒は口にしていないから酔っているわけではない。
「どうしてそんなにムキになるのかしら、まあいいわ、私酔っ払っているもの、平気よね」
「うわあ、オヴェリアさま、そろそろ不味いんじゃないですか」
ムスタディオがとても楽しそうに言う。
「あのね、ラムザさんって、女の人のことをとてもよく知っているのよ」
「不味いですよ、アグリアスさん止めないと」
とにかくムスタディオは嬉しそうである。アグリアスは止めない。
「私、ラムザさんとアグリアスが話しているの聞いてしまったのよ。テントの中からだけど」
ぎょっとしてアグリアスがオヴェリアを見る。
「私が誘拐の間に、ディリータさんに何かされたんじゃないかって心配していたの。詳しいことは聞こえなかったけれど。だから次の日、ラムザさんに言ったの。聞きたいことがあるなら聞いてって」
ラムザはぐっと黙り込んで手元のパンをやたらと口に放り込んでいる。
「それで?」
期待を押し殺した実に分かり易い声色でムスタディオが先を促す。
「ラムザさん、こう言ったの。誘拐犯におかしな事をされませんでしたかって。アグリアスが心配しているって」
「それでそれで」
「ムスタディオ、ぶっ飛ばすよ」
アグネスが重々しい声で言うが、ムスタディオはもちろんオヴェリアも聞いてはいない。
「私は言ったのよ。おかしな事ってなあに、よく分からないわって」
「そしたら?」
「仕方なさそうにラムザさんは言ったの。僕が言いたいのは、つまり、これからのオヴェリア様の人生に大きな傷がつくようなことをされませんでしたかっていう事ですって」
「ふーむ」
したり顔でムスタディオは頷く。
「ね? こういうことって、よく分かっていないと言えないと思うの。だから、こう答えたのよ。それなら大丈夫、私は元の私のままよって」
「はー、良かったですね。俺、どきどきしちゃった」
「あんたのは違う意味でしょっ!」
アグネスが頭をごつんとやり、ムスタディオはぶつぶつ言いながら椅子を引きずってアグネスから離れた。アグネスもなにやらぶつぶつ言ってラムザを睨んだ。なんで睨むんだよ、とラムザもぶつぶつと抗議する。
「そうか。実はあの後、ラムザ殿が断言的に大丈夫だと教えてくれたのだが、そういう事があったのか」
夜警の折に話した際には、ラムザは関わりたくなさそうだった。オヴェリア自身が絡んでいったとはいえ、先ほどのような言葉で確かめたのだと聞けば、ラムザの気遣いが窺われて嬉しかった。アグリアスはそう思って彼を見たが、ラムザは相変わらず食べ続けて誰の顔も見ないようにしていた。
「アグリアスは私をちっとも分かっていないんだから」
「え・・・」
オヴェリアがぷん、と頬を膨らませている。
「あのね、アグリアス。王子も王女も帝王学を学ぶのよ。結婚のために別の国に行く事だってあるんだから、そうなったら一人でなんとかしなくちゃいけないでしょう、それはもう詳しく学ぶのよ」
「・・・は・・・・? 恐れながら何を・・・?」
「帝王学っていうのはね、内政と外政について、そして一番大事なのは後継ぎを残す方法なの! どうやったら子供ができるかっていうことや、それを断ったりする方法ももちろん教えてもらうんだから!」
自慢そうに顎を上げるオヴェリアに、いや、ああいう時に断れるかどうかという点にはかなりの疑問が、とアグリアスはしろどもどろに言い、一同はどう反応していいやらと顔を見合わせた。
「ディリータさんは紳士だったわ。ちっともおかしな事なんてなかったもの。そりゃあ、最初は随分手荒なことをされたけれど、あれは誘拐だったのだもの、仕方ないじゃない」
それは何かが違うんじゃ、とムスタディオが吹き出しながら言う。
「まあ、ご無事でなによりでございましたね」
アグネスも苦笑する。もうご酒はお止め下さいとアリシアがオヴェリアの杯を取り上げ、代わりに果実水を手渡した。
「そうね、本当に皆さんのおかげ。私は運が良かったのね」
アグリアスはやんわりと笑う。
「これからは一層良い方向に向かいますとも」
「そうね、信じるわ」
歓談のひとときを終え、ラムザらは退出することになった。引き止めることもできず、オヴェリアは残念そうにラムザとアグネス、ムスタディオの手を順番に握り、丁寧な礼を述べた。ラヴィアンとアリシアに伴われ執事に先導されるオヴェリアは、振り返り、振り返りして、ラムザらの前から去った。
「ラムザ殿、助力を頂いた事、本当に感謝する。君達がいなければここまで辿り付けたとは思えない」
残ったアグリアスが最後にラムザを真っ直ぐに見て言った。その目線が柔らかいのは彼女が自分よりも少し背が高いせいで、伏せたまぶたの影が瞳にかかっているように見えるからだ、とラムザは思った。
「またご冗談を」
笑って見せ、出来るだけ距離を取ろうとラムザは僅かに後退る。
取り込むか排除するか、迷った後に気が付いた。迷う必要などないのだ。例え取り込めたとしても彼女の道は自分とは違う。初めから分かたれた者が一瞬の邂逅を経てまた別れ行く、それだけの事。真剣に考えた自分が今は可笑しい。
「心から君達の無事を祈る。もう会うこともないだろうが、ずっと覚えている」
もう会うこともない。
言ってアグリアスは傷ついた。その言葉は予言ではなく確信だった。どこまでも交わらない二つの川に、ほんのひと時橋が架かった、それだけの事、自分はきっと覚えているだろうがラムザは必ず忘れるだろう。残念ながら、それほどの執着を持つ理由の答えは、既に見つかってしまっていた。
ずっと覚えている。
それを聞いてラムザは傷ついた。全力で忘れる予定だった。その言葉を聞いてしまえば、忘れていく自分を責めなくてはならないだろう。死んだ記憶を踏み固めて行かなければ歩く事などできはしないのに、忘れてくれるなと言う彼女の心。そんな我儘を聞きたくはなかった。ここにきて、ずっと覚えていたいなどとは思いたくなかったのに。
「あなたは目立つよね。とても強いし」
「なんだ?」
「会いたくなったらいつでも探せそうだなと思って」
自分が何を言っているのかラムザには分からなかった。首を傾けるようにして少し考え、アグリアスは答えた。
「オヴェリア様の居られるところには必ず私もいるだろう」
「ずっと覚えているくらいならまた会えばいいよ。じゃあね」
ラムザはあっさり背を向け、一度も振り返らずに部屋を出た。アグネスがやれやれ、とアグリアスに両手を開いて見せる。
「ああ言っているからまた会うだろうねえ。言ったはずだけどラムザはしつこいよ。気をつけてねえ」
彼女とムスタディオもまた短い挨拶の後に去って行った。アグリアスはじっとしていられずに窓際に寄り、彼らが城を出るのを待った。三人はなんの心残りもなく真っ直ぐ道をゆくように見える。
目の前の硝子が曇り、自分が溜息をついたことに少々驚いた時、ラムザが門をくぐる直前にふっと城を見上げた。そう見えた。小さな窓の中の自分を認めたとは思えない、そんな距離だったが、それでも目が合ったような気がした。彼は最初に会った時と同じ仕草でからかうように手を振り、出て行った。
「あら、どうしよう」
オヴェリアが小さく声を上げた。心地よい部屋には着替えまでが用意され、オヴェリアは感謝の言葉を呟きながら長く着続けたドレスを脱ごうとしていた。隣の水屋で湯を用意していたアグリアスがその声を聞き付けてオヴェリアを振り返った。
「どうなさいました?」
「これ、これよ。返し忘れたわ」
オヴェリアはひらひらと手を振った。左手の指に二つのリングがはまっている。天使の指輪とアグネスのリフレクトリングだった。
「本当に借りただけだったのよ。昨日までは返すことを覚えていたのに」
「有りがちなことです。・・・出立は明日でしょうから、今から宿に届けさせますか?」
「・・・持っていても良いと思う?」
「さあ、どうでしょうか」
「持っていたいわ。こんな旅、もう二度と出来ないと思うの。今思えば何もかもが楽しかったわ。その思い出に持っていたいのよ」
王女はアグリアスの想像以上に自分の行く末について正確に予想しているようだった。確かにある意味、これほど自由な時間はもうオヴェリアの人生には巡ってこないのかもしれない。
「本当に入用なものならきっと報せを寄越したでしょう。餞別にと贈ってくれたのやも」
そそのかすとオヴェリアもうんうんと頷く。
「そういうことにしておきましょうよ、私、すごく大切にするわ」
「どうであれ、彼らなら笑って許してくれるでしょう」
「そうね、そうよ、私、ずっと覚えているわ。きっと、ずっと」
ずっと覚えている。それでいい。例え二度と会えなくとも、覚えていることで繋がっていられるはず。
自分自身を慰めながら、アグリアスはオヴェリアの手を引き、水屋へ向かった。
「ちょっと何よ! アグネスったら酒くさいわよ! あ! ムスタディオまで!」
「うふふふ。ご褒美にちょっとご馳走を頂いちゃったのさ」
「ずるいー! あんたなんか昔に幾らでも食べたんじゃないの! そういうのはあたしに回しなさいよ、ねえラッド!・・・・ラッド?」
「あ? はあ、まあそうだな、うん、そうだよ、全く」
「何アレ?」
「えへえ、ご馳走並にイイコトがあったのよ、後で教えてあげる」
「あー俺、あんないいもの食うの、もう二度とないよ、酒も美味かったなあ」
「ムスタディオって結構飲むんだね」
「んー、飲む楽しみでもなきゃ、一日中地下に潜ってられねえっていうか。俺は機械いじってられりゃいいんだけど、皆がんがん飲むからさ、付き合いで」
「ふーん。いいよね、大人は」
「何言ってんだよ、俺おまえと1コしか年違わねー」
「18?」
「そう」
「ふうん」
「・・・嫌なやつ! どうせガキくさいって思ってんだろ、そんなの聞き飽きたってんだ!」
「どうでもいいからあんたたちもう寝なさいよ、明日早いんだから」
「あんたらどこに行くんだ?」
「ゴーグに決まってるじゃない」
「・・・そうなのか?」
「一緒にゴーグに行くよ。ここまできたら見届ける義務がありそうだから」
「・・・ありがとう。心強いよ」
「さあさ、あたしらは風呂にでも行こうよ。川遊びばっかりじゃすっきりしなくってさ」
「二人でお風呂に入るの久ぶりねー」
「気をつけろよ、ジャッキー」
「うるさいよ、ラッド!」
「なんで?」
「なんでって、アグネスは」
「そんなガキに変なこと吹き込まない!」
「わーかったって。さっさと行けよ」
「・・・行ったよ、何?」
「アグネスは、女が好きな女なんだってこと」
「え・・・・えぇ!!」
「珍しいことじゃないでしょ」
「えー!」
「なんだよ。おお、まさかおまえ」
「アグリアスさんと二人で薬作ってる時に、ラムザとはなんともないとか言ってたのになあ、そうきたかあ、がっかりだよ。ちくしょー、憧れることもだめなのかあ」
「・・・どいつもこいつも寝たふりしてテントの中で聞き耳立ててるってことだね」
「・・・そういうラムザはあの時あっち行けって言われてたじゃねーかよ。なんで知ってんだ」
「・・・・」
「・・・・」
「いーじゃねーかよ! ささ、俺たちは仲良くおねんねしましょうね」
「・・・襲ってやる」
「来い! 俺の胸に!」
「ラッドじゃないよ!」
「・・・俺?」
「達者でな。俺は席を外し、」
「いやだー! 俺には郷里に残してきた恋人が、」
「いるの?」
「・・・いたらいいなって」
「はいはい、寝ましょうね、僕ちゃんたち」
「ムカツク・・・ラッド、なにそんなにご機嫌なんだよ」
「そう、俺は哀しい時ほど輝く男さ!」
「わかんねーよ」
「ほっとこうよ、僕らであっちを使おうよ」
「やっぱり、あれって二人用か・・・」
「いいじゃない」
「おまえ、目付き変・・・」
「生まれつきだよ!」
「かあちゃん、親不孝の俺を許してください・・・」
「何もしないよ!」
「だから俺の胸に!」
「うるさいよ! あんたら!」
「あ、風呂、隣?」
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