「食事に手をつけていないのか」
重い木製の扉が開いた途端の男の声にオヴェリアは立ち上がった。ベッドに縋るようにして床に座っていたから足が冷えてよろめく。厚い絨毯は何の役にも立ってはいない。オヴェリアの身内から湧き上がる焦燥と不安が、ない交ぜの火と水のように彼女を責めていた。
「食べないともたないぜ」
硬く踵を鳴らしてディリータが近づいて来る。その音が彼女の愛する騎士達と同じであることが悔しくてならない。あの、強く優しい守護者達はどこに行ったのだろう、無事でいるのだろうか。唇を噛んでディリータを睨みつけるが彼はまともにオヴェリアと目を合わせ、平然と顎を上げた。
「王女に飢え死にとは似合わないが、醜い死に様でもないな」
上背のある彼は常に目線だけで見下ろすようにしてオヴェリアを見る。侮られていると分かるが、オヴェリアには何の反論も出来ない。ラムザは詳しくは教えてくれなかったが、彼には自分にそうする理由があるのだ。貴族の代表として自分がそれを受ける必要を感じるから決して態度を改めろとは言わないが、許容している訳ではない。彼女はしっかりと足の裏を意識し、小さな赤い靴を踏み締めて胸を張った。
「おまえが死んで悲しむ者なんてひとりもいない。それどころか、喜ぶ奴が大半だ。悔しく思わないか?」
オヴェリアは答えずにディリータを睨む。拳を握って真っ直ぐに立つ。いつもそうして自分の前に立ってきた、勇敢な女騎士の背中を思い出す。
「それにどうせ、死ねやしないぜ。何人の見張りが入れ替わりあの小窓から覗いていると思う? 無理せず食べればいい」
「そんなこと、分かっているわ。それなりに居心地良い部屋だけど、あの扉が牢の造りになっていることくらい、分かっているわ」
「相変わらず口だけは達者なお姫様だな」
にや、と笑ってディリータは腕を組む。頭一つ分以上背の高いディリータにそうして覗き込まれると本能的に恐怖を感じるが、オヴェリアも帯の上で両手を組み、毅然と顔を上げて彼を見上げた。
「・・・やはり、あなたも枢機卿と結託していたのね? 私をどうしようというの、ラーグ公に引き渡さないのならどうするつもりなの?」
既に10日近い拘留、自分を取り巻く状況が刻々と変わり続けていることだけを、オヴェリアは知っている。
「本来おまえがいるべき場所に連れていってやる。それだけだ」
何を言っているのか分からないわ、とオヴェリアは顔を背ける。この男は終始謎のような言葉を吐くが、それは気味が悪い程に優しい響きを持っていた。だからアグリアスの言葉を思い出す。決して油断召されるな、甘言は宝石よりも人を誘惑するものです。
「あなたも私を利用しようというのね。・・・でも、私はあなたの言うとおりにはならない」
「おまえに選択肢はない。生き延びるためにはそれしかないぞ」
「それはどういう意味? 可笑しいわね、食事も取らない私が生き延びるための協力をするとでも思っているの?」
ディリータは唇の間から低く笑ってオヴェリアを楽しげに見る。
「それは確かにそうだ」
「お元気そうですな、オヴェリア様」
ディリータが何事かを続けようとした時に野卑た声がした。ドラクロワが粘い愛想笑いの顔を小窓から覗かせた。オヴェリアが緊張してそちらを向き、ディリータが脇に避けて少し頭を下げる。重そうな枢機卿の体の後ろには、「精悍」という言葉以外では表現できないような男が従っていた。
「この娘がオヴェリアか」
彼はそう言って、一歩オヴェリアに寄り、彼女は一気に体温を下げて完全に後退った。そして直感した。ディリータは違う、この男が持つもの、それが「軽蔑」という感情だ。
「王女様、ご機嫌はいかがですかな? もう少し大人しくして頂けるならばこの部屋でなくとも良いのですがね」
今更愛想笑いが何の役に立つのか、糸を引きそうな笑顔を向けるドラクロワに後ろの男とは違う生理的な嫌悪を抱いて、オヴェリアは視線をディリータに向けた。
「あの方はヴォルマルフ殿だ。俺を使う立場にいらっしゃる」
ディリータは冷静にオヴェリアの嫌悪を見据えて淡々と言い、ヴォルマルフは全てを無視し笑ってオヴェリアをねめつけた。
「高価な服を上手く着ているな。その姿勢といい、表情の硬さと純真さといい、良い王女の代役を雇ったものだ。やはり環境が人を育てると言うのは本当の様だな」
オヴェリアは目を見開いた。彼は代役、と言ったが、彼女にはほとんど意味が伝わらなかった。何の勘違いだろうと、オヴェリアは素直に言った。
「・・・何を言っているの?」
「王女の身代わりという大役をおまえは充分にこなしている、と褒めたのだ」
オヴェリアは両手で自分の体を抱いた。底が白く凍ったような青い目に、彼は決して冗談を言う人間ではない、と悟る。そしてディリータもドラクロワも彼の言葉を訂正しなかった。まだ頭は理解出来てはいないまま、体が先に反応して呼吸が速くなった。そしてびりびりと指先に小さな稲妻が走り、視界が歪んで濁る。
「身代わり・・・?」
自分はオヴェリアとして生きてきた。疑ったことすらなかった。耳を刺す、場違いな程朗らかな笑い声が目の前の枢機卿から流れるのをオヴェリアは茫然と聞いた。
「ヴォルマルフ殿、この娘はまだ知らないのです」
「そうか・・・。哀れな娘よ」
彼らは笑っていた。その笑い声は汚らしい染みのようにオヴェリアの耳から忍び込んで脳裏を暗く染める。それに反して視界が真っ白になり、足の裏が歪んだように感じた瞬間、腕に強い衝撃があり、オヴェリアは辛うじて意識を戻した。脇に退いていたディリータがいつの間にか自分の腕を掴んで支えている。まさか、とディリータが呟き、枯葉色の目が驚いたように自分を見ていることに気付いてオヴェリアの体に力が戻った。知らなかったのは自分だけでは無い、それは空しい救いであったが、オヴェリアはそれに縋った。
「・・・どういうことなの?」
苦痛の声をオヴェリアは漏らした。ヴォルマルフは影のように不吉に自分を見下ろしている。
「いいか、よく聞け。おまえはオヴェリアではない」
「え・・・?」
「本物の王女はとうの昔に死んでいる。おまえはその身代わりとして、調達された娘なのだ」
「そんな! ウソよッ!」
無駄と知りながらオヴェリアは叫んだ。ディリータの腕を振り払ってヴォルマルフに詰め寄る。近づく毎に濃くなる、体臭のようなヴォルマルフの暗い威圧感に握った両手がぶるぶると震えた。
「嘘ではない。おまえはオヴェリアではないのだ。ルーヴェリア王妃をよく思わぬ元老院のじじいどもがおまえを作り出したのだ。いつの日か王位を継がせるための身代わりとして、な。邪魔な王妃を追い出すための策という訳だ」
ヴォルマルフに演説を譲ってドラクロワは微笑みながらオヴェリアを見ている。ディリータはぴったりとオヴェリアの後に付き、沈黙していた。
「やつらのやり口は実に周到だったよ。上の二人の王子を病死に見せかけて暗殺し、おまえを王家に入れた。病弱なオムドリアに新たな王子ができるとは思えなかったのでな、自動的に王位はおまえのものになるという計算だ」
ヴォルマルフは昔を懐かしむ目で虚空に視線を投げた。すばらしい芝居の脚本を聞かせるように、彼は両手を広げた。
「ところがオリナス王子が誕生した。・・・いや、未だに王子がオムドリアの子であるかどうかなどわからん。ラーグ公が実妹を王の母にするため、外から『種』を用意したのかもしれんな。まあ、そんな事例は良くあることだ。無いおまえを存在させる事と大差ない」
かつかつとオヴェリアの周りを一周し、暗い覇気を彼女に取り憑かせてヴォルマルフはオヴェリアの隣に立った。
「いずれにしても、元老院のじじいどもの計画は台無しになったのだ。だからおまえは修道院に放置され、誰からも忘れられたのだ」
「ウソよッ! 絶対にウソだわ! 私には信じられない・・・」
心底からそう言いたかった。しかし、王家の泥沼をシモンによって聞かされていたオヴェリアには、それは真実であるだろうと知れた。ヴォルマルフは身を屈め、オヴェリアの声に絶望を嗅ぎ取ってその耳に囁いた。
「どう思おうとおまえの勝手だ。我々にとってもおまえが本物であるかどうかなどどうでも良い事だな。我々は『王女』という強力なカードを手に入れた。それで充分だ」
ヴォルマルフは腰を伸ばすとディリータに顎をしゃくった。かすかな頼りの気配が背後から消え、オヴェリアはとうとう足の力を失って厚く暖かい絨毯の上にぺたりと座った。そこは燃える氷の上だった。
「・・・あなたたちは私をどうするつもり? 一体何をさせたいの・・・」
力無くオヴェリアは俯いたまま呟いた。ディリータのブーツが目の前を通り過ぎていく。
「何もしなくていい。今のまま『王女』でいてくれればそれで良い」
笑い含みの声にオヴェリアは茫然と顔を上げた。強引に引き起こされて立たされ、ヴォルマルフが腰を折って最敬礼を贈ってくる。ドラクロアがまた、女のように高い嫌味な笑い声を上げ、オヴェリアは目眩に足を踏み変えた。
「せいぜい代役を上手く務め上げることだ。贅沢な暮らしを報酬にやろう」
侮蔑の言葉にも毅然と顔を上げることは叶わない。がくがくと座らぬ赤ん坊のように視線が泳ぎ、目の奥に激しい熱がこもって涙の予感がした。
神よ、助けて下さい。
縋る者はそれしかない。しかし乱れた髪越しに思わぬものを見て、オヴェリアは泣き叫ぼうと開いた口を閉じた。同情でも軽蔑でもなく、ヴォルマルフの背中に視線を固定して怒りのあまりに無表情になっているディリータがそこにいた。
自分のために彼が怒っているなど有りえないとは思う。しかしそれは信じるに足る直感だった。
奇妙な力を得て、オヴェリアは最後の踏ん張りに賭けた。例え自分が何者であろうとも、矜持を捨ててへつらうことは出来ない。これまで通りに王女として振舞え、というのなら、これまで通りに王女として扱わせなければ。そうでなければ、死ぬ事も許されずに飾り物としての生涯に繋がれてしまう。最終的にそのように転ぶとも、一個の人間として生きて死ぬために、運命の選択は自分の手でしたかった、いや、せねばならないのだ。
背筋を伸ばした。目の前に他の誰にも見えない彼女の護衛達の背中があった。それを真似て顔を上げ、乱れた髪を手で撫でつけるといつものように帯の上で両手を組んだ。そしてヴォルマルフを見据え、あらん限りの力で言った。
「私はアトカーシャ家の血を引く者! 誰にも命令されたりはしないッ! 施しも受けはしないわ!」
ほう、と彼はオヴェリアを見下ろした。ただの小娘、どこか田舎の農村で畑の側の籠から盗んできたのだろう名も知れない力無い者だが、この矜持は褒めても良い、と目を細める。
「では、どうする? 今すぐここから出て行くか? ラーグ公に捕らえられれば即、処刑だろう。我々は手助けをしたいだけだ。おまえが王位につくためのな・・・」
「この国が落ち着くのならば処刑されても構いません」
オヴェリアは冷静な声で答える。争いの手駒になるくらいならば、ここで死ぬのもいい。自分の存在を根底から否定される衝撃に比べれば、絞首台の縄は優しいだろう。
ヴォルマルフは面白そうに「王女」を見た。彼女の思考を察して次の言葉を待っている。
「でもそれでは貴方達には何の利益もないでしょう? これだけの大騒ぎをして私が処刑になるだけで対面を保てるの? 特に枢機卿、貴方はどうなさるのですか? 城下の民に、保護した王女の手を引いて処刑台に案内した、と思われてもよろしいのですか?」
ドラクロワの顔が確かに引き攣った。
「その若い身で死を望まれるか? 我々の『協力』を拒まぬのならば、」
オヴェリアは首を振って言葉を遮った。
「私は今、貴方の保護下に収まるしかないの。貴方が処刑したいのならそうすればいいのです。王位につかせたいのならつきましょう。・・・どちらにしろ、私一人では出来ない事。確かに手助けは必要ね」
背中に恐怖が這い上がる。怖い。彼らの中で自分を維持していく自信は全く無かった。しかし、オヴェリアは震える唇ではっきりと告げた。
「私の手助けをして『ちょうだい』。・・・この意味がお分かりになりますか?」
「それが言える立場とでもお思いか?」
怯んだドラクロワが俯き加減に顔を背けて言った。
「立場を考えるのは、貴方の方ではなくて?」
真っ直ぐに視線を向けると、ドラクロワはもぐもぐと口の中で何かを言いながら隠れるようにヴォルマルフの背後に回った。これが絞首を決定付ける事になろうとも、後悔は無かった。オヴェリアはまだふわふわとしている床を必死に探って体をヴォルマルフに向けた。
「あなたは一体何者なの?」
「我々はラーグ公の味方でもなければゴルターナ公の陣営の者でもない。ただの『協力者』だ」
「私は正当な王位継承権を持つ者です。あなたが誰か分からないまま身辺を任せることは出来ないわ」
「はなから信用する気はなさそうだが。保護は受けても良いと?」
「私を国と思い、品位と敬意を持って仕えると誓うのならば。その上で、王女としてするべきことはいたしましょう」
「なるほどな」
「ヴォルマルフ殿」
苦々しくドラクロワが大きな腹を揺すって扉に体を捩った。
「王女様にはもう少し頭を冷やしてもらいましょう。現実をきちんと認識すれば我々の『協力』を素直に請う気にもなられましょう・・・。」
「うむ・・・。ディリータ」
ヴォルマルフは先ほどから少しも動かないディリータを手先で呼んだ。俊敏な動作でディリータはヴォルマルフの前に立ち、尊敬の欠片もない目を軽く伏せて頭を下げた。
「この大したお姫様をおまえに任せよう。枢機卿のためにも、せめて大人しく王位に収まるように矜持を折っておけ」
「かしこまりました」
口先だけでディリータは言った。オヴェリアにはそれが伝わった。
「ご機嫌よう、王女オヴェリア様」
ヴォルマルフは顔も見ずにそう吐き捨てると豪華な牢屋から出て行った。のしのしとドラクロワが後を追い、ディリータは素早くオヴェリアの目を見つめて顔を傾ける。
「俺がおまえをふさわしい場所に連れていってやる」
彼はそう囁いた。
「行くぞ、ディリータ!」
ヴォルマルフの声に反応してディリータはきっぱりとオヴェリアに背を向け、立ち尽くすオヴェリアの目の前で重い扉が低く響きながら閉じた。
一人だけの部屋の中、オヴェリアは全身の力を抜いてベッドに倒れる。投げ出した手足はまだ震えている。呼吸が速く指先が冷たい。
何もかもが夢だったら良いのに。
涙を流しながら、しかし何に泣いているのか、オヴェリア自身にも分からなかった。一つの局面を乗り切った事への安堵なのか、自分の存在の不確かさになのか、それとも絶望の未来に対してなのか。
現実味のない霞む視界、オヴェリアの足元には何も残ってはいなかった。ドラクロワが少しだけ怯み、そのお陰でディリータが自分の側付きになったこと。それだけがオヴェリアが決死の覚悟で得たものだった。
ディリータは自分を連れて行くと言った。今のオヴェリアに彼は両刃の剣にしか見えなかったが、どこかに連れて行きたいのならそれまでは守るつもりなのだろう。僅かではあっても庇護を自分の力で勝ち取ったのだ。
「ねえ、がんばったわ、私、がんばったでしょう?」
嗚咽の合間にオヴェリアは呼びかけた。今も彼女の前に毅然とした背中が見える。
――ご立派でしたよ。
優しい声が聞こえた。涙は止まらなかった。
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