季節は春の盛りを過ぎ、陽光は日増しに強まっている。長い休暇を終えた傭兵達が大都市ドーターを目指して出発したのは、雨上がりの空が青く晴れ渡った朝の事だった。
先頭を歩くラムザの横に軽快な足取りのラッドが並び、一言二言と交わしてから両手を揉み合わた。
「なあなあ、ラムザちゃんよ」
「ラッドの装備は買わない」
ぴくりとも反応せずにラムザは答え、ラッドは大げさに肩を落とした。
「そんな事言うなって。考えてみろよ、この俺がプラチナソードを持ってないんだぜ? こりゃすごい損失ってヤツだ」
「ラッドはもう充分強いから今のままでいいんだ」
「またまたー、おまえにも貸してやるからさ」
「僕はもう持ってるから」
「……ずるいんだよ」
「仕方ないだろ、イズルードが僕のを持って行ったんだ」
「聞いたかよ、ムスタディオ!!」
がばっと振り返ると、ラッドは後ろ向きに歩きながら両手を広げた。
「えー、俺?」
斜めになっていた髪をアグネスに結い直されていたムスタディオが、顎を逸らしながら言う。
「隊最強の刺客に、おもちゃみたいな剣しかくれねえ隊長なんてあり得ねえよな!」
「や、俺は剣の事は分かんないし」
「うん、って言ってりゃいいんだよ、おまえは!」
「えー」
ムスタディオの髪を離したアグネスに、うるさいよと膝を蹴られてしぶしぶラッドは前を向く。
「ラムザちゃーん」
「だめ」
出発前に散々に話し合い、ムスタディオとジャッキーの装備を充分な物にすると決めてある。ラッドが装備にごねるのはいつもの事で、誰も本気にはしていない。そもそもラッドはガフガリオンから譲り受けた古代の剣を何よりも大切にしていて手放さないために、新しい剣を購えないのだ。今まで何度も剣を替える機会はあったのだが、その度に『やっぱりいいや』と愛用の剣を抱えて店を出る。
「じゃーさ、帷子を新調していい?」
小首を傾げて媚びるラッドに額を押さえながら、ラムザは承諾した。
「そうだね……繕ってあるのしか持ってなかったっけ。古いのをムスタディオにあげるならいいよ」
「貧乏臭い事言うなよ、二つくらい持たせろって」
「長逗留で実際貧乏なんだから仕方ない」
「ちっ分かったよ、ケチ隊長」
むっとラムザがラッドを睨んだと同時にムスタディオが両手を振り回した。
「お、俺は帷子はちょっと……」
「ちょっとなんだよ、ラッド様の血と汗が染みこんだ価値ある一品が気に入らねえってのか!」
「そうじゃなくて! 重いと走れないじゃないか」
「慣れろ! そして走れ!」
「うう……」
困った顔でムスタディオはラムザを窺う。苦笑しながらラムザは顔だけで振り返った。
「こればっかりはラッドの言う通りだね。重いけど、この間みたいな怪我はしなくなるから」
「ああー、うう……」
ウィーグラフの一閃で二週間以上寝込まされた記憶には抗えないようだった。
「俺の取り柄は身が軽い事くらいなんだけどな。がんばってみるよ」
「おまえは筋肉が付きにくい質みたいだから、帷子着けてればちっとは鍛えられるだろーよ」
「あーうー」
「あ、街よ、見えてきたわ」
最後尾からジャッキーが通る声を上げた。彼女の指す西の地平にドーターが見え隠れしている。ドーターの標高は近辺の街に比べて低い。スウィージの山々から流れ落ちる霧によって蜃気楼のように揺らめき、そこに陽が当たれば金色に輝くので、ドーターが最も美しいとされるのは今のような春の夕暮れ時だと言われている。
「綺麗な街よね。あたし、丁度この季節に遠くからドーターを見て、あの街にしようって決めたのよ」
珍しく昔話を呟くジャッキーをアグリアスが振り返る。
「そういう生き方も良いものだろうな」
ドーターから視線を外してジャッキーは笑った。
「そうよ、真似してもいいわよ」
「考えてみよう」
「その時は言ってね。アグリアスだけじゃ何しでかすか分かんないから、あたしも一緒に行ってあげる」
「それは助かる」
笑みを交わす二人を見ながら、アグネスは無言で目を伏せた。流浪の人生を選ばざるを得なかったジャッキーを思って丸められる背をラムザが軽く叩く。
「急ごう。夜になるまでに宿を見つけないとね」
「野宿の間違いじゃないのかい、貧乏隊長」
顔を逸らし、アグネスは僅かに笑った。
翌日は二手に分かれて行動を開始した。常套の情報収集組と、買い出し組だ。うるさいから、とのラムザの独断でラッドは情報収集に回され、ぶつぶつと文句を垂れ流す背をムスタディオとジャッキーが笑いながら追う。残った三人は点在する武器屋を見比べながら半日を過ごした。
「一番安かったあの店は、あまり信用出来ないと思う」
アグリアスが思案顔で言う。
「そうだね、あたしも同感だ。食堂の隣にあった店が妥当じゃないの」
「うーん。確かにそうなんだけどね……それじゃあ、帷子が買えないな」
「仕方ないね。ムスタディオにはその分丈夫な胴当てを選べばいいさ。ラッドの口はあたしが縫っておくから」
「よろしく」
苦笑のラムザに同じ顔でアグリアスが頷く。
目的の物を買い整え終わったのは、まだ日が高い時間だった。ラッド達とは日暮れの鐘の頃に屋台群のある路地で待ち合わせをしている。空いた時間をどうするかとなれば、根が真面目なこの顔ぶれでは自然、付近の観察へと足が向く。一旦宿に戻って荷物を置くと、歓楽街に向かって三人は歩き出した。
「それにしてもにぎやかなもんだね。ルザリアよりも良いんじゃないの」
アグネスが活気ある人々を見回しながら呟く。
「難民が少ないね。どうしてだろう」
「難民は、王都に集中するものらしい」
目深に被った緑色のローブを喉元で押さえながらアグリアスが言う。ラムザもまた、紺色のローブを輪で頭から留め付け、目元は前髪で隠している。
「王の側なら、慈悲がもらえるだろうという考えだろう。もちろん、有力な宗教家のお膝元にも殺到する。ドーター市は元々交易の商人が興した町を豪族が市に引き上げた場所だから、住民の自立心が強い反面、むやみな慈悲深さは無いように思う」
「なるほどねえ。本来は住みやすい所だろうに」
筒状の帽子にほつれた赤毛を押し込み、アグネスが小刻みに頷く。
「前にも思った事だけど、貴族の割には市井に詳しいね、アグリアスは」
「アカデミーで習った事もあるが……私は本当に旅暮らしがしてみたかったんだ」
へえ、とラムザとアグネスが同時に声を出す。
「近衛となると決まった時、生涯職務を貫くつもりだった。それは即ち、基本的に王都から離れられないという事。私はオヴェリア様にお付きしたから移動もあったが、地図を見たり旅帰りの者の話を聞くのが好きだった。……オヴェリア様も、そういった話を喜んで聞いて下さったものだ」
僅か、アグリアスの表情が痛そうに歪む。別れて以来滅多に口にしないオヴェリアという名は、やはり今でも彼女の主の名なのだ。
「会いたいね、姫様に。大きくなったジェリアを見せてあげたいよ」
敢えてはっきりとそう言うアグネスに、アグリアスは少し肩の力を抜いた。
「本当に。ただ、お元気でいらっしゃる事を祈るだけだ」
アグリアスの目がそっと弓型に微笑み、ラムザを見た。それに小さく頷き、ラムザが口を開こうとした時だった。
「おい、ラッド! どうしたんだよ!?」
焦った声に三人は振り返った。
「おや、もう見つけちまったね」
アグネスが走って行くムスタディオの背を追う。が、跳ねるように彼を追い抜くジャッキーの姿に思わず足を止めた。
「何よ、あれ」
「追おう、面倒な事になったのかもしれない」
「ラッドのヤツ……!」
ち、と舌打ちしてアグネスが駆け出す。頷き合ってラムザとアグリアスも後に続いた。前方には人だかりが出来始めている。二人はローブを深く被り直し、その中に割り込んだ。
「誰か! この悪党をどうにかしておくれ!」
甲高い声に人波が揺れる。通して、とアグネスが太った男を押し、ラムザがそれを助ける。
「うるせえ、離せババア!」
ぎょっと三人が身を竦ませると同時に、五十がらみの女を押し退けるラッドが見えた。彼は明らかに激高しており、戸口にしがみつく女を地面に放ると強引に押し入って行く。
「なんなのよ!」
アグネスの声が聞こえる。
「ああ! どうしよう、アグネス!」
ジャッキーの悲鳴じみた声。
「まずいって、まずいって!」
動転しているムスタディオの括り髪が見え隠れしている。アグリアスと共に最後の人垣を押しやり、ラムザは彼らの側に寄った。
「どうしたんだ、ラッドは!」
「あ、ラ、えと、ランディ」
両手を振り回してムスタディオがたどたどしく偽名を呼ぶ。
「分からないの、店を覗いてたと思ったら、突然走り出して!」
「あんたー! あんたあ、そのならずもんを捕まえとくれえ!」
転んだまま店の中に怒鳴り続けている女とラムザを見比べ、ジャッキーが頭を抱える。
「店?」
「あの馬鹿、娼館だって言って!」
「娼館……?」
アグリアスが唇に指を置いた時、再びラッドが戸口に姿を現した。何かを引きずっている。
「てめえ、ウチの商売もんから手を離せ!」
女の亭主らしい男が薪らしい棒きれでラッドの背を力任せに殴った。
「うるせえ! こいつは品物なんかじゃねえ!」
聞いた事の無いようなラッドの割れた怒声にすくみ上がるように、ジャッキーが一歩下がる。が、彼女が身を引いたのは違う理由故だった。
「え」
気の抜けた声を出し、ムスタディオが腰を屈めた。ラッドに引きずられている赤いドレスの女の顔を覗き込む。
「……や、いや!」
細い声、必死の抵抗で土に爪を立てる女の顔から半透明のケープが落ちた。
「……ラヴィアン?」
毒々しいまでに濃い化粧を施した女が、はっと顔を上げた。そして、ぶるっと大きく身を震わせると一点を見つめた。
「ああ……」
彼女の目の前に、すっと跪く緑の影があった。
「ラヴィアン」
アグリアスが差し出す手からラヴィアンは逃げた。剣の切っ先を見たかのように仰け反り、しかし、ラッドに捕られた手に止められて地面に突っ伏した。
「ラヴィア、」
「いやああああ!」
空いた片手で顔を覆い、髪を掻きむしってラヴィアンは絶叫した。白い頬に涙が流れ、砂埃が張り付く。
「落ち着いて」
呆然と見下ろしているラッドの手を叩いてラヴィアンを離させると、アグリアスは嗚咽する細い肩を引き上げる。身を捩り、逃れようと藻掻く女をしっかりと抱いた。
「大丈夫だ」
「……ないで」
「ラヴィアン、無事で良かった」
「お願い、です、こんな姿を……見ないで下さいませ……」
切れ切れに漏れる声に頷きながら、アグリアスは土で汚れた淡い茶色の髪を撫でた。
「なんて事してくれるんだい!」
成り行きを見守る人々を突き飛ばしながら、きんきんと怒鳴る娼館の女主人が足音荒く二人に近づいて来た。慌ててムスタディオが女の前を遮るが、恐ろしい目で睨まれて後ずさる。
「どういうつもりだい、ウチの商売もんを泥まみれにしてくれて!」
「それだけじゃねえ、あの野郎、扉一枚蹴り破りやがった。こいつは高くつくぜ!」
禿げた頭をばりばりと掻きながら、亭主も負けじと声を張り上げる。
「待って下さい」
両手を広げてラムザが二人の前に立った。
「どうしようってんだ、坊主」
見下した目でラムザを睨んで太った二つの体が腰に手を当てる。
「彼女は僕らの仲間だったんです。探していたんです」
「それがどうしたい、今はウチの稼ぎ頭さ」
ふん、と丸い顎を逸らして女主人は吐き捨て、つかつかとアグリアスに近寄る。
「返してもらおうか。それとも仲良くあんたも一緒に働くかい?」
野卑た笑いでアグリアスの肩を掴み、揺する。
「……行って下さい」
消え入るような声でラヴィアンは告げ、かつての上官の胸をそっと押した。よろよろと立ち上がろうとする体を支え、アグリアスは背を真っ直ぐに伸ばしてアグネスを呼んだ。
「聞いてんのかい! さっさとその子をよこしな!」
近寄るアグネスにラヴィアンを凭せ掛け、アグリアスは女主人に向き直り、身を屈めた。耳の側で何かを囁く。
「ふん、あんたらみたいなゴロツキが何を、」
「こちらへ」
女の肩を押し、アグリアスは人波を掻き分ける。
「アグリアスさん!?」
「少し、待っていてくれ」
片手を上げてアグリアスは女と共に角を曲がって行った。
「どうなってんだ!」
亭主がラムザに詰め寄り、唾を飛ばす。
「あのアマが女房に何かしやがったら、すぐに軍を呼ぶからな!」
「あの人は何もしない」
すっと表情を無くしてラムザは言った。
「少し待てと言った。あなたも聞いただろう」
薄く細められた目に間近から射抜かれ、亭主は僅かに怯えたように身を引き、それを隠すようにゴロツキが、と吐き捨てる。
「ラヴィアン、俺……」
肩を落としてラッドがアグネスの後ろに忍び寄った。びくりと体を揺らし、ラヴィアンは顔を背ける。
「待って、ラッド」
「俺、」
「いいから」
ジャッキーに袖を引かれ、ラッドは俯いてラヴィアンから背を向けた。ムスタディオが眉を下げてラッドの肩を叩く。
野次馬がじりじりと引いて行く。亭主はいらいらと足を踏み鳴らし、ラムザは微動だにせずアグリアスが消えた方向を見つめている。微かに聞こえるのはラヴィアンの啜り泣きだけ、やがて宿の前には当事者だけが残った。
「あ、戻ってきたわ!」
最初に気付いたのはやはりジャッキー、軽く手を振る。
「なんだあ、あいつ、様子が……」
「あんた! 何してんのあんた!」
大きな声で亭主を呼び、女主人はアグリアスを置いて走って戻ってくる。その手には、重そうな皮袋が抱えられている。
「なんだ、どうしたんだおまえ、」
「全く気の利かない男だね! この方々にお茶でも差し上げな!」
満面の笑みでそう言い出す女房を、小さな目を瞬かせて亭主は眺める。
「この方々ぁ? どうしちまったんだよ、おい」
「これ! これ、持ってみなよ!」
ずしり、と重い袋を手渡す。その中身をちらと確認した亭主は目を見張った。息を飲み、アグリアスに目をやる。
「こりゃあ……一体……」
「詫び代も入っている。商売の邪魔をしてすまなかった」
丁寧に夫婦に頭を下げるアグリアスを、仲間達はただ見守る。女房が亭主に何かを耳打ちし、二人は顔を見合わせてにやりと笑い合った。そして、勢いよく女は言った。
「まあまあまあ、もういいじゃありませんか! そうだ、ウチは食事も出してるんですよ、ちょっとお寄りになりませんか」
おそらくはとっておきの笑顔でアグリアスに手を差し出す。
「いや、先を急ぎますので」
穏やかに微笑み、アグリアスは六人を指先で呼んだ。訳が分からないまま、『ゴロツキ』達は彼女に従う。ラヴィアンが汚れた顔を夫婦に向けるが、二人は既に彼女を見送る体勢に入っていた。
「元気でお暮らしよ、リーザ!」
ラヴィアンの通り名だろう、女主人は愛想の良い声のまま手を振った。
「兄さん達、いつでもウチに来て下さいよ、好きな子選んでもらって、たっぷりお世話させてもらいますからねえ!」
宿に連れ帰ると、酷い動揺を乗り越えたラヴィアンは震えながらも化粧を落としたい、と言った。ジャッキーが付き添って井戸へ案内して行き、残りの者は部屋の一つに集まり、しかし集まったものの、言葉もなく立ち尽くしていた。
「俺、最悪だ……」
ぽつりと漏らして、ラッドがくずおれるようにベッドに座った。膝の間に頭を埋めて抱え込んでしまう。
「そんな事、無いよ」
重く溜息を吐いてアグネスが窓に寄る。茂みに半分隠れた小さな井戸端で、ラヴィアンが水で濡らした布で何度も顔を拭っている。何度も、何度も。
「良く見つけたね。随分様子が変わっていたのに」
ラムザがラッドの隣に腰を下ろした。指が血色を失う程に強く髪を握ってラッドは唸った。
「座ってたんだ……」
床に言葉を零すように、ラッドは一言ずつゆっくりと発した。
「見せ窓の前には、沢山の女がいた。ソファに寝そべったりそこらに転がって、俺に手を振ったりしていた。でも、一人だけ、椅子に座っていたんだ。背筋を伸ばして、何もない壁を見つめて、すごく穏やかな横顔だった。だから気になって顔をよく見て……」
「そうか……」
口に手を当て、アグリアスが皆から顔を背けた。ベッド脇の机を睨むように俯くと被っているローブから金髪が流れ落ち、彼女の顔は隠された。
「何かに耐える時には背を伸ばせと、私が言ったんだ」
机に置いた片手をきつく握ってアグリアスは呟く。
「辛ければ辛い程、平気な顔をしていろと。小さくなれば押しつぶされる、だから胸を張っていろと」
しん、と部屋は静まる。やがて軽く頭を振ってからアグリアスは真っ直ぐに立ち、ラムザは彼女の指にそっと触れた。
「大丈夫だよ」
頷き、アグリアスは目を閉じた。
「それにしても、よくあれだけのギルを用意出来たね」
「気にしないで欲しい」
「今更だね。あなたには謎が多くても構わない事にする」
一度強く手を握ってから離し、ラムザは振り返った。二つの足音が近付いて来た。
「さあみんな!」
部屋に飛び込むなり、ジャッキーは大きな声で言った。
「お帰りって言って!」
泣いたらしい、赤くなった目元で精一杯ジャッキーは笑った。そして、ドアの後ろに戻った。代わって押し出されたラヴィアンは痩せた頬に長くなった髪を落としてはいたが、彼らの知る顔だった。そして、予備の服を寄せ集めて着せられた格好は、彼らと同じ『ごろつき』に充分見えた。
「お帰り、ラヴィアン」
「お帰り……」
「これで全員揃ったんだよな!」
ほらラッド、とムスタディオが彼を引っ張り立たせる。されるがままに棒立ちになり、ラッドはしばしラヴィアンを見つめた。
「ラッドさん……」
呟きに、彼の足が動く。反射的に身を引くラヴィアンを何者かから奪い返すように抱き寄せ、ラッドは絞り出すように言った。
「もうどこにも行くな」
「私は……」
「行くな」
はい、とラヴィアンは息を震わせた。そしてラッドの胸に顔を押し当て、声を上げて泣いた。
「償いたかった……」
夕食の後に再び部屋に集うと、問われる前にラヴィアンはそれまでの出来事を語った。行く先もなく街を渡り歩いている間に僅かな手持ちのギルが尽きた事、それでも再び剣を握る気持ちにも、父母の元に帰る気にもなれなかった事、そして酒場の裏で残飯に近い物を分けてもらっていた時にあの夫婦に出会い、誘われるままに宿に入った事を。
「自分でも、何をやっているのか分かっていませんでした……」
ラヴィアンは静かにそう呟いて、膝に置いた両手を見下ろした。
「ただ……底まで落ちて……アリシアにお詫びが出来たような気がして……楽になったのです」
彼女は俯いた。握った両手は震えていたが、重荷を降ろしたように唇に微笑みを浮かべている。
「楽に、か」
無表情なラムザはそっぽを向いている。アグネスが肩を上げ、ラヴィアンの顔を覗き込む。
「で、これからどうするのさ」
「……」
「あたし達は、ラヴィアンが加わってくれれば嬉しいけど」
また涙ぐんでいるジャッキーがひっそりと言う。
「全てはおまえの自由だ」
アグリアスが足を組替える。
「私は、おまえがあの宿にいる姿を見たくなかった。それだけだ。後は自分で決めるといい」
突き放すように言ってアグリアスは立ち上がった。胸元の金具を外してローブを椅子の背に掛け、テーブルの中央に置かれた茶器に手を伸ばす。ラヴィアンはその姿を目で追った。
「アグリアス様……私は……」
「でもね、ラヴィアン。私は今嬉しい。おまえともう一度、こうやって話が出来る事が」
湯気を立てるカップをラヴィアンの前に置き、アグリアスは微笑んだ。う、と息を詰まらせるラヴィアンの頭を慰めるように撫で、隣に座り直す。
「よく考えなさい」
アグリアスの肩に額を寄せ、ラヴィアンはしばらく無言で泣いていた。やがて顔を上げ、不思議そうに見上げた。流れるままに金髪を肩に散らしているアグリアスは首を傾げる。
「……ない」
「どうした」
ラヴィアンはアグリアスの背後を確かめ、そんな、と眉を寄せた。
「髪留めが……」
「髪留め?」
あら、とジャッキーが覗き込む。
「無いわね。いつも裏返しに付けてたアレでしょ?」
アグリアスは髪を結い纏めるために髪留めを使っていた。装飾が引っ掛かっては不都合だからと、金具が表にくるようにして留めつけていたので、一同にその髪留めの印象は薄い。
「どうしたの?」
髪を触り、アグリアスは笑った。
「昨日、ドーターに来る間に無くなっていた。どこかに引っ掛けたんだろう」
「あらあ残念ね」
「アグリアス様!」
悲鳴のようにラヴィアンが声を上げ、皆驚いて彼女を見つめる。
「まさかあれを、」
「物はいつか失われる」
「今朝まであったけど?」
首を傾げてムスタディオが言った。
「ローブを着ける時に光ってたよ。すごく丈夫そうな金具だったろ、興味があってよく見てたから覚えてるん、だ?」
一つ体を揺らし、言葉を詰まらせてムスタディオは足元を見た。アグリアスのブーツがムスタディオの向こう脛を直撃していた。
「え、ええー!?」
信じられない事態にムスタディオは何度も足元を確認し、もう一度、ええっと声を上げた。とうとう堪えきれずにアグネスが笑い出す。
「あんたもあたしらに馴染んできたもんだねえ、アグリアス」
「この話は終わりだ」
アグリアスはそそくさと席を立ち、追いすがるように立ち上がるラヴィアンを放って部屋を出て行ってしまった。
「全く、仕方ないんだから」
アグネスが笑い、しかしラヴィアンは硬直したように扉を見つめている。
「そんなに大変な物だったの?」
カップを口に運びながらジャッキーが聞く。
「あれは、お母様の形見だと……」
まだ信じられない様子で足元を見ていたムスタディオが、え、と顔を上げた。
「それ以上に、オークス家の女子に代々伝えられてきた大切な物だとおっしゃって……」
私はどうしたら、とラヴィアンは青ざめて口元に手をやった。
「アグリアスがそうしたかったんだから、良いのさ」
立ち上がってアグネスが言い、ジャッキーは優しくラヴィアンの肩を揺する。
「そうよ、今ラヴィアンがここにいるってことが大事だわ」
「私は……」
一筋新しい涙を零すラヴィアンの隣にラッドが並んだ。
「預かったと思えよ」
いつものように頭を傾け唇を引き、ラッドはにやりと笑った。胸の前で両手を組み、ラヴィアンは濡れた睫を上げる。
「預かった……」
「ああ。大事なもん、預かったと思えばいい。返せるかどうかは分からねえけど」
そこで言葉を切り、ラッドは背を向けて小さく付け足した。
「まああれだ、俺が手伝ってやるからよ」
「あらまあ」
「なるほどねえ」
腕を組んで眺めるアグネスとジャッキーをぎろりと睨み、ラッドもアグリアスを真似るように足早に部屋を出て行った。固まったままそれを見送るラヴィアンを覗き込み、ジャッキーは片目を瞑ってみせる。
「いいじゃない、ラッドに任せちゃえ!」
「……私、本当に……なんて……」
言葉にならずにラヴィアンは顔を両手で覆った。彼女を囲み、女達が楽しげに冷やかす様子を横目で見ながらラムザとムスタディオも部屋を後にした。
「えーと」
一歩出たところで、ムスタディオが眉を寄せて溜息を吐いた。
「アグリアスさんに、ごめんって言っておいてくれよ」
じゃ、と頭を掻きながら背を向けるムスタディオに一つ瞬きし、ラムザは小さく笑った。
「アグリアスさん」
井戸の辺りでアグリアスの背中を見つけ、ラムザはそっと呼びかけた。彼女は少し体を揺らしたが、振り返りはしなかった。
「僕は今、どうしようかと思っているんだけれど」
アグリアスに近づきながら、ラムザは囁くように言う。
「ねえ、どちらがいいか分からないんだ」
長い髪が、あるか無しかの風に揺らめいている。
「あなたを抱きしめた方がいいのか、キスをした方がいいのか」
耳の側でそう呟けば、アグリアスは顔を背けながらそっけなく言った。
「両方」
「ああそう」
笑い、ラムザはアグリアスを強く引き寄せて胸に抱いた。肩の上に濡れた瞼が置かれ、髪の間から見え隠れする白い首筋に唇を当てながらラムザは張り詰めた背を撫でた。
「アグリアス」
答えは無く、アグリアスはラムザに体を預けている。
「心配無いよ、ラヴィアンは大丈夫だよ」
身動ぎするアグリアスの体の熱さは、泣いている人のそれだった。
「あれを、持っていて、良かった」
「そうだね、良かったね」
「母が救ってくれたんだ」
「うん」
「償うべきは私だった」
「いいんだよ」
「私、だったんだ」
震える背を支えながらラムザは空を仰いだ。
朧に霞む天には、けぶるように星が舞っている。
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