「あ」
前方の景色にディリータは思わず声を上げた。
白を基調とした石の廊下は中庭の陽光を明るく照り返していた。その中にくっきりと、硬質な男の姿があった。ベオルブ家の次男、ザルバッグだ。彼は武装をしたままで、午後の日の光に黒い鎧がきらめいていた。赤金のブーツが硬い音を聞かせている。
ベオルブ邸は要塞と言って良い作りの堅牢な屋敷であり、家人の装いも常に威厳を持つべきとされている。一見して軍人と分かるようなダイスダーグを見慣れているディリータだったが、前方の男の姿には息を飲むような思いを持って呟いた。
「すごい……」
二十四歳のザルバッグは十二歳のディリータには信じられないくらいの大人だった。自分には持つ事すら苦労しそうな重い鎧を軽々と纏い、金糸の刺繍も鮮やかなマントをなびかせる姿は、神々しいと言うに相応しかった。
そしてなによりもザルバッグの異質な姿に、表には確かに戦争があるのだと、ディリータは初めて知ったように感じた。生まれる前から当たり前のように戦いが存在しているために、非常時であるという感覚を失うのは子供ならばありがちな事だ。この堅牢な屋敷に守られていた日常の中にはっきりと目に見える形で戦争が現れた事に、ディリータは説明のしようが無い衝撃を受けていた。
廊下の隅で、柱の一部になろうとでもするように動かないディリータを見つけ、ザルバッグは軽く手を上げた。近寄ろうとしたザルバッグの背後で高い声が明るく廊下に響いた。
「にいさま!」
この屋敷で最も幼い主人であるアルマだった。ザルバッグは足を止め、少しばかり眉を寄せた。血筋を誇るようにと、上品なドレスを身に着け立ち振る舞いを躾けられているはずのアルマは、ドレスの裾を持ち上げながら跳ねるように駆けている。
「アルマってば、走らないで!」
後ろから慌てた様子のラムザが追っている。彼はいつものように動きにくそうなかっちりとした上着を着ているが、短めの細身のズボンから膝が覗いているので、様子だけはアルマよりもよほど子供らしい。アルマはラムザの声が耳に入っていないようで、軽やかに走ってザルバッグの前で止まり、持ち上げているドレスの裾をそのまま横に引くと、首を傾げて挨拶をした。
「お帰りなさい、ザルバッグ兄さま!」
嬉しさで弾んだ声に、お説教を始める表情だったザルバッグは身を屈めて苦笑した。
「元気そうでなによりだ、アルマ」
「……お帰りなさい、兄さん」
追いついて並んだラムザは気まずげに頭を下げアルマを突付く。不思議そうな様子の小さな妹の姿に、ザルバッグはとうとう笑った。
「ははは、ラムザも『兄さん』が大変なものだと分かってきたようだな」
ええ、まあ、とラムザは言葉を濁し、ザルバッグは二人の頭を撫でて歩き出した。アルマはその手を素早く握り、矢継ぎ早に近況報告などを話し始める。アルマ自身が久しぶりに実家に戻った嬉しさも手伝っているのだろう、いつになく活発な様子の妹をザルバッグ越しに見ているラムザは穏やかな笑顔だった。彼女の紅潮した頬やうきうきとした軽い足取りが自分の妹と重なって、ディリータもまた微笑む。ティータもまた、ディリータの手を引いて庭や屋敷の中を歩くのが好きなのだ。
「ディリータ」
呼びかけにきちんと礼をしてから顔を上げると、ザルバッグの大きな手が今度はディリータの頭に乗った。
「また背が伸びたな」
「お帰りなさい、ザルバッグ様」
「なんだつまらぬ、おまえは兄さまとは呼んでくれないのか」
ディリータは照れ、小さな声で、兄さま、と言った。ザルバッグは軽く笑ってもう一度大きく髪をかき混ぜた。
他愛のない報告を次から次へと紡ぐアルマに微笑みを向け、メイド達が丁寧に頭を下げて通り過ぎる。ザルバッグが選ぶ道筋に、ダイスダーグの部屋に向かっているらしいとディリータは気が付いていた。ラムザも当然分かった様子で、ディリータに視線を向けると肩を竦めて苦笑した。
「兄さま」
ザルバッグの左手を捕まえたままのアルマが首を傾げる。彼女もまた、不安げな顔をしていた。
「明日の朝はお会いできるの……?」
「うむ……残念だが夕食も共に出来ないな。今夜中にジークデンの砦に移動しなければならないのだ」
「え、今夜中に!?」
ラムザが驚いた声を上げる。
「山越えをすれば充分に着ける距離だ。夜を使いこなせるかどうかで戦いの行方が決まる時もあるのだと、おまえにもいつか分かるだろう」
静かな言葉にラムザが頷き、ザルバッグが満足そうに微笑んだ時、ある意味無邪気にアルマは落胆した声を出した。
「まだまだ話したい事がたくさんあるのに……」
次の角を曲がればもう、ダイスダーグの部屋だった。そのために兄が戻って来たのだと、邪魔をしてはいけないのだと分かっていたからこそ子供達の足は遅くなる。察したザルバッグは一層ゆっくりと進み、アルマは兄のマントを摘んで惜しそうに、あーあ、と言った。
部屋の前に立つと、ザルバッグは身を屈めてまずアルマ、続いてラムザの頬に軽く口付けた。そしてディリータの肩をぽん、と叩いて3人を促した。
「ごきげんよう、兄さま」
「お気をつけて」
兄妹が彼を見上げ、ディリータもお帰りをお待ちしています、と小さく言った。穏やかな笑みで頷いたザルバッグはきっぱりと子供達に横顔を見せた。
行こう、とラムザはアルマの手を引いて歩き出した。その後に付いたディリータは、もう一度ザルバッグの武装姿を眺めようと振り返り、そして目を見張った。扉を開けようとするザルバッグの眼差しが変化する瞬間を見たからだった。
優しい兄だったその人が、恐ろしいまでに凛々しい騎士に変わる様はまるで魔法のようで、マントがするりと扉に吸い込まれるまで、ディリータはその場に縫い留められていた。
面白くて堪らないといった少女らしい笑い声に我に返る。
見れば、いつの間にか合流したティータが、アルマと手を繋いで階段を上って行くところで、踊り場の壁にもたれて二人を見送っているように見えたラムザが、視線はそのままに言った。
「どうしたの、ザルバッグ兄さんと遊びたかった?」
「……まさか」
意味も無く気まずく、ティータの奴、勉強をさぼってるんじゃないだろうな、などと呟いてみる。
「今日はいいじゃない。アルマは明日には修道院に戻るんだから」
ラムザは笑い、ディリータを手招きする。
「ディリータも僕の部屋へおいでよ」
「いや、まだ頼まれ事が残っているから」
「頼まれ事って?」
「ええと、炊事場。在庫の数を帳簿と合わせるから手伝うんだ」
「……そんなの誰かがやるよ」
「誰かって、」
あ、とラムザは通りかかった年配のメイドを呼び止めた。慌てるディリータに構わず話し出す。
「あのね、ディリータが炊事場で何か頼まれたらしいんだけど、今から僕と勉強をするんだ」
まあ、と彼女は笑って手のひらを体の前できちんと重ね、軽く背を曲げてラムザに頷いた。
「わかりましたわ。そう伝えておきます」
「よろしくね」
「困るよ……」
割って入るディリータにも彼女は頷いた。
「ラムザ様のお勉強の方が大事ですよ」
言いながら、気にしないで、とめくばせをする。そして彼女はラムザに丁寧に頭を下げると炊事場の方向に歩いて行った。
「……ラムザ」
睨もうと顔を向けるとラムザはもう階段を上り始めている。首を傾げるように振り返り、
「いいんだよ」
と軽く笑った。
「よくないって……」
しかしメイドは行ってしまった。ディリータは大きく溜息を吐いてラムザの後に従う。
「何度も言ってるよな、世話になっている分、ちゃんと働きたいんだ」
「僕の面倒を見るのも立派な仕事じゃない?」
「だからそれは……」
言いかけて止めた。ラムザが少し不機嫌になっている。少しずつ唇がとがっていく様子は別に怖くもないが、拗ね始めると長い。
「……分かった、今日は付き合う」
「良かった!」
ラムザは笑みを向けると先導する。階段を登りきり3つ目の大きな窓の前を通りかかると、向かいの部屋から妹達の笑い声が聞こえてきた。何気なくディリータがそちらに目をやると、同じようにラムザも背後を一瞥した。しかしそれは、妹達というよりはディリータに向けられた視線のようだった。
時折ラムザはそんな風にディリータを気にする。小さな我がままを吹っかけてきては、すぐに後悔したかのような頼りない視線を寄越すのだ。
それは、ティータが心細くなっている時の瞳に似ているのだとディリータには思えた。だからといってラムザを弟扱いして慰めれば却って怒らせてしまうという事も、ディリータは知っていた。
結局、ラムザのくだらない我がままに接する時に出来る事といえば、肩を竦めるくらいしかディリータには思い浮かばない。今も自室のドアの前に立って自分を観察しているラムザに首を傾げて見せるしかなかった。
「……別に逃げやしないよ」
「じゃあ、開けて」
じっと見つめられて仕方なく、ディリータはラムザのために部屋のドアを開けてやった。これは、ディリータが仕事を理由にラムザとの時間を削るようになってから始まった事だ。もちろんディリータには、ラムザが自分を使用人と思ってそうさせるのではない、と分かっている。ドアを開けさせるというくだらない我がままを押し通す事で機嫌を取ってもらい、甘やかされた気分になっている、そんなところだろう。
澄ました顔で部屋に入って行くラムザに見られないように、ディリータはこっそりと笑った。
予想通りラムザは勉強などするつもりはなく、部屋に入るなりディリータを椅子に座らせ、机の上に『箱庭』を置いた。
それは、全ての構成物をラムザとディリータが手作りした農村の模型だった。ラムザの腕で一抱えほどの箱の中に、小枝の屋根が乗った農家や、割れた鏡を削って貼り付けた泉などがひしめいている。
これを作り始めた頃はほんの子供だった二人は、彼らの理想をそのまま村に投影した。この中にディリータが最初に置いたものは自分が住むための家で、ティータや両親の部屋まで丁寧に作った。家の脇には家畜小屋を置き、中には本物の羽を丸めた二頭のチョコボをちんまりと収めた。ラムザもまた、自分の家をこの中に置いた。そして、側の畑を父と母が耕しており、自分とアルマは学校に行くのだと楽しそうに話していたものだ。お互いに、現実の悲しみを口に出す代わりに理想にすりかえ、慰め合っていたようにディリータは思う。
「もうすぐ完成だね」
箱に屈みこむディリータの後ろに回り、肩の上でラムザは言う。
「うーん、完成っていう区切りがあるのか?」
模型を睨んでディリータは唸った。作り始めたのは3年ほど前だったと記憶している。当時のパーツは古くなって壊れたり元々作りが甘かったりするので作り直す必要があった。そうやって追いかけていれば、いつまでも終りなど無さそうに思える。今では理想を語るためではなく、いかに本物らしく見せるかという所に、二人の興味は移っているのだ。二人の『家』だけは、作った当時のまま、決して新しいものに入れ代えられはしなかったが。
「ないって事にすれば、いつまでも作っていられるかな?」
弾んだ声に苦笑する。
「……完成させた方がいいかもな」
「ふうん。そうしたら僕に仕事を邪魔されずに済むから?」
「おい、そういう訳じゃないんだ、」
「いいよ、ディリータは完成させた事にしていいよ」
「ラムザ」
「僕はずっと作っているから、いいよ」
まいったな、と目線を上げるとラムザは机の上に座って村の中で手を遊ばせていた。そっと小道を辿り、燃え残ったロウソクの欠片を削った白い鳥を、つーっと鏡の泉の上で滑らせた。拗ねている様子ではなく寂しげに見えて、ディリータは椅子から立ち上がってラムザの隣りに立った。
ラムザは気にしない風に泉から森へ、その脇を流れる川へと指先を進める。水色の細いリボンを置いただけの川は、指で触れられると簡単に流れを変えた。
「これ、錆びてるね」
言って、ラムザはそっと水車を摘み上げた。それは金属で出来た歯車で、古道具を収めた納屋の側で拾った物だった。磨かないと、と言いながら、ラムザは机から降りると引き出しを開けて紙やすりを取り出した。水車がぴかぴかに光っているのは少し可笑しいとディリータは思ったが、黙ってラムザの手元を見つめていた。
「ディリータは、」
細い指先を生かしてざりざりと、器用に小さな部品を磨きながらラムザは呟いた。うん? とディリータは視線を上げ、窓から入る光に歯車をかざして目を細めるラムザを見つめた。
「ザルバッグ兄さんが好きなんだよね」
独り言のようにラムザは言い、また紙やすりを滑らす。
「すごく格好良いからね、ザルバッグ兄さんは」
「……なんだよ、急に」
「だって、ディリータったらずっと兄さんを見ていたから」
違う? と目線でラムザは聞いてきた。なぜだか否定しなければならないような気がしたが、実際にはその通りだったのでディリータは何も言わなかった。確かに、ザルバッグのような立派な騎士に憧れている。あんな、眩しく凛々しい者に憧れない訳が無いと思う。自分がザルバッグを尊敬するように、誰かに褒められるような者になりたい。そうしてティータやラムザを守ってやれるくらい強くなりたいと思う。
そう心で呟くに留め、ディリータは机の上で頬杖をついた。
「きれいになったよ」
ラムザは歯車をまた光に掲げた。その声を追って、ディリータも歯車を見上げた。
「あっ」
ぷちん、と小さく爪を弾いた歯車は、窓を横切って跳んでいった。光りながらそれは転がり、あっという間に姿を消した。
「跳んじゃった……」
慌ててしゃがんだラムザは、勘だけを頼りに絨毯の上を這って行く。ディリータは宙を指先で辿って弾かれた軌跡を想定し、ラムザから少しずれたベッド脇の小さなテーブルの下に手を突っ込んだ。
「あったぞ」
あっさりと拾い上げて顔を上げたディリータの前に、ラムザがやはり這って寄って来た。ほら、と目の前に示してやると、ラムザは歯車を見つめディリータを見つめて眉を寄せ、困ったような表情をした。手も出さず、受け取りもしない様子にどうしたんだろうと思い、同時にいつもの事かとも思ったディリータが立ち上がりかけた途端、さっとラムザが先に起き上がった。
「だめ、そのままでいて」
「ラムザ?」
ラムザは、悔しそうな顔になっていた。立てた膝に右手を置いた格好で見上げるディリータの頭にラムザの華奢な手が乗った。
「……何してるんだよ」
呆れる声を無視して、ラムザはごしごしと手の下の髪を撫でる。僕だって、と小声が聞こえたような気がして、え、とディリータは聞き返したが、ラムザは怒ったように唇を噛むだけだ。訳が分からなかったが、さすがに少し不愉快に思ったディリータが軽く睨むと、ラムザはぷいと顔を逸らして手を離した。やれやれと立ち上がり、歯車を箱の中に戻そうと机に向かった。
「僕だって、すぐに追いつくんだからね!」
大きな声に驚いてディリータは飛び上がった。
「兄さんみたいに強くなるんだから!」
「お、おい、ラムザ?」
「背だって伸びるんだから! 僕だって、ちゃんと立派になるんだからね!」
唖然とするディリータの前で、ラムザは泣きそうな顔を俯けていた。
「僕だって……!」
ぐっと唇を噛み、ラムザは泣きたい気持ちと戦っている様子で震えながら立っていた。やがて、やはり突っ立っているディリータを睨むと噛み付くように言った。
「草笛を吹きに行く!」
赤い顔をしたラムザは部屋の扉を指差した。開けろ、という事らしい。言われるままにディリータは扉を開け、ラムザに道を作ってやった。ラムザは眉をぎゅっと寄せた顔をディリータから背けて扉を抜けた。
「どうしたんだよ、ラムザ……」
扉を持ったままディリータは困り果ててラムザを見つめた。そっぽを向いたラムザはしばらく黙って廊下に立っていたが、
「……一緒に、行くよね?」
と小さな声で言った。怒ったものの、収まりがつかずに自分よりも困っている様子にディリータは肩を竦めた。
「行くよ、どこでも」
ドアを閉じて廊下に立ち、ディリータはなんとはなしにラムザに手を突き出した。
差し出した手は、掠め取られるようにラムザの手のひらに収まり、二人はほとんど同時に階下を目指して駆け出した。
子供達の消えた廊下には、日を映してひっそりと光る歯車が一つ、取り残されている。
うりぼう様、12344HIT、ありがとうございました!
後日談
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