薄暗い廊下 2

 日が落ちても、それはそれとして訓練になるとディリータが主張したために演習はいつになく長かった。この程度で体力が尽きるような鍛え方はしていないが、遅い湯浴みを済ませて部屋に戻るとイズルードは思いの他疲れている自分に気付く。ただ単純に睡眠不足だからだった。
 慣れない酒を含んでみても大した助けにはならなかった。眠れない理由がはっきりしているだけに諦めるしかなく、とてつもなく長い夜にいよいよ疲れきってやっと目を閉じる事が出来るのも一時、起床の銅鑼が鳴る。
 でも、今夜は眠れそうだな・・・
 寝台に座り、濡れた髪をかき上げる。母と同じ色だから短く切った髪。すると、むき出したうなじが髪を結い上げた時の母のそれと似るという。武術を磨けば剣士だった頃の母の敏捷な立ち回りに生き写しだと褒め、得意な魔術も同じだと目を細める、
 父。
 今夜はきっと部屋に来る。ローファルと酒宴を持っていると聞いたから確信している。まだ素面では越えられない、それは救いなのか、それとも。
 ぎゅっと自分の体を抱く。本当に知らなかった。他の家の子もそうなのだと信じていた。家族の秘密なのだと優しく約束させられ、姉のメリアドールにさえ言ったことはない。いや、姉もきっと父とそうしていて彼女が何も言わないのはやはり姉弟でも秘密にしなければならない大切な事なのだと、むしろ得意になってその秘密を抱えたのは11歳になって間もない頃だった。

 それが、禁忌の行為であると知ったのはアカデミーに入ってすぐの事。教会の教義にはっきりと示された近親相姦の罪。親兄弟と体を繋いではならないという、その一文を目にした時の衝撃は今でもイズルードの胸に刺さったままだ。教義の授業中に昏倒して椅子から転げ落ち、救護室に運ばれた時からずっと抜けない。
 だから休暇の折、思い詰めた挙句に父に問うた。しかし泣きながら詰め寄るイズルードにヴォルマルフは不思議な笑みで答えるだけだった。二度と触れさせまいと心に決め、それを告げても父の声は変わらずに優しく、名を呼ばれ差し伸べられる手にあっさり抵抗を忘れた。罪だと認めず、愛しているだけだ、と呟く声に奇妙な程安堵した。涙を吸い取られるままに体を預け、どうして、といくら問うても答えてくれない父にしがみ付いていつものように抱かれてしまった。
 唯一つイズルードに与えられた答えは、自分が母、キリアルーナに似ているという事だけだった。

 キリアルーナ・ゴラルドは類まれな才を発揮した剣士で、元は神殿騎士団の団員であった。ヴォルマルフよりも若かったが上官として彼を向かえ、上官のまま団を退いて彼の妻となった。ヴォルマルフは公私ともに一途な青年であったから、妻をこれ以上なく尊敬し愛して尽した。
 50年戦争の末期、イヴァリースはオルダリーア軍の本国侵入を目前にして、国家の存亡を賭けての最後の戦いを迫られていた。国家が滅べば教会もまた滅っするとして、教皇は神殿騎士団に天騎士団の後押しを命じた。神殿騎士団は退役者から縁故の者まで総動員し、南北天騎士団と共に最後の砦とも言えるゼラモニアの防衛にあたった。
 その寄せ集めの兵士の中にキリアルーナの姿もあった。彼女は頑強に止めるヴォルマルフを説き伏せ、自ら志願したのだった。夫の危惧は当たり、妻はかつての軍功を買われて一師団を与えられ、ゼラモニアの最前戦に配属された。ヴォルマルフは既に団長職に付いており、だからこそそれを止めることも留めることも出来なかった。
 間もなくキリアルーナからの連絡は途絶えた。ヴォルマルフを筆頭に立てた最大の部隊はやはり最前戦にあり、ゼラモニアの北部から海路を使ってオルダリーア本国への侵攻を試みていた。苛烈を極める戦い、様子を見させるための早馬すら戦闘に借り出されたらしく戻らなかった。手紙だけを携えた報せ鳥がヴォルマルフの陣営に飛び込んだのは一月後、血に塗れたその皮紙が伝えたのは「双方全滅」。息絶える寸前だったのだろう、激しく乱れた文字だったがヴォルマルフにはそれがキリアルーナのものだと一目で知れた。
 苦戦は続き、血を吐く思いで戦い続けたヴォルマルフも間もなくゼルモニアからの撤退を余儀なくされた。その後瞬く間にゼルテニアまでがオルダリーア軍に占拠されるに至り、イヴァリースに残された道は和平交渉を残すのみ、バルバネス・ベオルブの奔走が始まったのである。

 ヴォルマルフはゼルテニアを撤退する際に一時行方不明になっている。生きて戻れとだけ言い置いて部下を南天騎士団に預け、妻の遺骸を求めてさ迷っていたのだった。結局髪一筋も見つけられずに帰営した彼は極秘裏に謹慎処分となったが、教会幹部は事情と武功を汲み、ヴォルマルフから団長職を奪うことは無かった。
 凍えるように寒い冬を抱き合って二人きりで過ごした幼い姉弟は、顔かたちすら変わる程にやつれた父を春とともに迎えた。腐臭の漂う最前線を宛てもなく歩き、土さえ掘り返して妻を探したのだろう、彼の両手の爪は全て無く、代わりに膿を孕んでいた。言葉も失い悲しく笑うだけの変わり果てた父を、幼い子供二人は母を失った悲しみに堪えながら必死で癒そうとした。表面上は快方に向かい復帰する目処も立った父の姿は子供らを喜ばせたが、ヴォルマルフの魂は既に抜け出せない深い闇に囚われていた。
 突然の不幸に見舞われたティンジェル家には、母方の叔母が度々訪れた。この叔母に母の面影を見たのか、メリアドールはよくなついた。これは一種、緊張から逃れるためであったのかもしれない。母親の血を容姿に濃く受け継いだのはイズルードであり、ヴォルマルフの関心は息子に偏った。片時もイズルードを離さない父の姿はメリアドールの幼い心に傷を残し、彼女の孤独は叔母への愛情に変わった。メリアドールは自然、叔母宅で過ごすことが多くなり、次第に外泊も増えた。
 2ケ月に渡る謹慎が明ける直前、離れ難いと言っては嘆いていた父にイズルードは犯された。シーツは血に濡れ、翌日は立ち上がることも出来なかった。しかし父は一層優しく、性も理も分からぬ幼い子供はそれを愛情だと信じた。帰って来た姉は弟の顔色に仰天し、死んでしまうと泣き喚いた。イズルードにとっては、父にも姉にも強く愛されていると感じた最良の日、それが底の無い沼への最初の一歩となった。

 日ごとにヴォルマルフの執着は異常味を増した。思い起こせば父が触る時、必ず姉は居ないのだった。そう、偶然に、いつも、居なかった。そして父は少し酔っていてイズルードの肩を抱き、膝に座らせて顔中に口付け、うなじを味わい、抱き上げて寝台に運ぶのだ。
 姉が巣立つとイズルードは毎晩のように抱かれるようになった。アカデミーへの入学後は休暇時期には必ず神殿騎士団の宿舎に置かれた。他人からは家族が集うためという、極自然な理由に見えたが、実際は夜毎の情事のため。むしろどこよりも安全に息子を抱ける団長の部屋で、ヴォルマルフは幼さを脱したイズルードに本格的な快感を仕込むようになった。アカデミーを駆け足で卒業し正式に宿舎に居を移した頃には、イズルードの体は「ほぼ完全」に仕込まれていた。

 だから眠れない。3日空けばたまらなく欲しくなり、恐ろしくて、ひもじくて、狂いそうに怯えて夜を過ごす。父の特徴的な足音を廊下に探し、まだ聞こえないと安堵し、同時に落胆する。
 イズルードには分かっていた。父は仕上げに掛かったのだ。抱いて欲しいとイズルードに言わせたいのだ。おそらく父も焦れているから今夜は抱きに来るだろう。しかし次はもっと間遠になる。根競べに負けるのは、きっと、自分だ。
「ああ。」
 イズルードは小さく呟いた。遠くに聞こえる足音。決して聞き逃したりはしない。
「ああ。」
 単純に息子として愛されたい。剣の腕を褒められ、自慢の息子だと肩を叩かれ、並んで立つことを真実誇らしく思いたい、それだけなのに。
「ああ・・・」
 こんなに急いで強くなったのに、まだ駄目なのですか、まだ足りないのですか、僕はいつまで母さんの代わりをすればいいのですか。僕が誰なのか、貴方は知っていますか、僕には分からないのです、分からない、貴方が誰なのかも分からない、教えて下さい、貴方にしか教えられないことを、僕にどうか教えて。

 響く足音は扉の前で止まる。ノックに続いて穏やかな深い声に名を呼ばれると足も手も逆らえずに扉を開けるのだ。

「父上」
「どうした?」
「父上・・・」
「何を泣いているんだ」
「とうさん、僕は、とうさん・・・!」
「愛しているよ。私のイズルード」
「僕、僕は・・・!」
「泣かないでおくれ、私のイズルード」
「どうして・・・?」
「愛しているんだよ、イズルード。」


 もう、声にはならない。






FFT TOP