「今回はうんと誉めてやらないとなあ」
「おまえはいつだって甘いじゃないか」
「おまえこそ・・・あ、見えた! あれじゃないか?」
珍しく中堅の聖騎士達がざわつきながら流れていく。ランベリー近郊での内紛を制圧した3つの師団より帰営の連絡が入って半日程経った。ランベリーは領内への軍事的、経済的な国府の干渉を嫌がる土地柄だ。代々の領主が敬虔なグレバドス教徒で、毎年教会に多大な寄付を納めてきたつながりから、有事の折には要請が無くとも神殿騎士団が出兵する習いだった。
本部棟の前に出迎えの列が出来始めていた。門前に急ぐ者の目当ては第1師団の副師団長であるメリアドールだ。太刀筋と同じく真っ直ぐな気性は清清しく、彼女にひそかな想いを寄せる年若い者達は多い。しかし、けん制し合っている平団員を軽く押しけ、一番良い位置を中堅の騎士達があっさり盗んだ。まだ幼いといって良い年頃で入団したメリアドールを可愛がり、鍛え、励まして育てた兄分達だ。彼らはメリアドールの素直で一途な心持ちを愛しみ、真剣に話し合った結果紳士協定を結んで彼女に選ばれるのを待っている。彼らの存在が若い連中の血気を押さえて娘の安全を約束するので、ヴォルマルフも黙認している、そんな一群だった。もちろん彼ら求婚者は次世代の幹部と目される優秀な者ばかりである。
「あ」
「・・・勘弁してくれよー」
「そうなのか、やっぱりそうなのか!?」
「落ち着け、まだ決まったことじゃない!」
「だがしかし!」
彼らの落胆のざわめきは、はっきりと姿を現した先頭の集団に混じるメリアドールの隣を見て発せられたものだ。このところ活躍の目立つウィーグラフ・ホルズがメリアドールと談笑している。副師団長と、その直下の部下である組長が仲良く歩いているのは喜ばしい風景だが、紳士協定組には一大事である。
ウィーグラフは元は黒羊騎士団で隊長を任させており、先の紛争で辛うじて生き残った者の一人だ。深手を負って敗走を余儀なくされたグリムス男爵を背負って帰営したウィーグラフが、満身創痍のまま急を知らせたおかげで男爵の家族は最期の別れに間に合った。無理を通したために一月ほど寝込んでいた彼に、ヴォルマルフは気前良く第1師団の組長職を与えた。
「ヴォルマルフ様と男爵は親友でいらしたもんなあ」
「国府の骸旅団に対する処遇にもお怒りだったし」
「あいつは重用されるぜ」
「気骨がある上、腕も良い」
彼らもまた、実力を認めざるを得ない相手には潔く賞賛を与える気骨の騎士達であった。
ウィーグラフは骸騎士団の頭目だった経歴を買われ、一年ほど前に聖騎士の職を得ていた。国府の捕縛の手をかいくぐって辺境まで逃げていたものの、傷と病に行き倒れていたところを神殿騎士団員が見つけたのだ。極秘裏に本部に移送されたウィーグラフは寡黙に処刑を待っている風情だったが、結局登録上の名を変えて団員として採用された。幹部達の計らいであった。
国政上、神殿騎士団にとって現在の骸旅団は討伐の対象だが、かつての骸騎士団は戦友であった。五十年戦争末期、多くの聖騎士達が骸騎士団の協力によって窮地を逃れることができた、という経緯があるからだ。味方に順列をつけず、イヴァリースの旗さえあればいつでも加勢をしてくれた民間の義軍に神殿騎士団は高い評価と信頼を寄せていた。終戦後、国府が骸騎士団に対して何の恩賞も与えず、打ち捨てるように拒絶した時には神殿騎士団は大いに同情したものである。援助を申し出ようにも神殿騎士団自体も疲弊し、建て直しを計らねばならなかった状況、そうこうしている内にかつての義軍は骸旅団と名を変え、盗賊まがいの行為で復讐を始める愚か者が続出してその名を落ちぶれさせてしまった。こうなっては神殿騎士団として表立った支援は出来ない。しかし、ウィーグラフのように本来の骸騎士団としての誇りを失わない、性根が正しく腕に見込みのある者は密かに神殿騎士として迎えられていたのだった。
一般の団員にはウィーグラフの経歴は伏せられているが、皆がそれぞれ何らかの管理役職を得ている紳士協定組は彼の素性を知っており、むしろ好意を持って迎えていた。しかし、よく考えてみれば父親っ子だったというメリアドールには丁度良い年頃でしかも若い時分のヴォルマルフに似て真面目すぎるほどの不器用な男、こうして始終行動を共にする二人に対して彼らが危機感を覚えるのに時間はかからなかった。
「ああ、メリア、あんなに楽しそうに・・・」
「泣くな! 凱旋なんだから嬉しいに決まっている!」
「泣いてるのはおまえだよ・・・」
「誰かが言ってたが、ウィーグラフは戦で妹御を亡くしているのだそうだ。メリアはその妹御に似ているらしいぞ」
「なんだと! それではもう決定か!? ああっそういえば、ヴォルマルフ様の亡くなった奥方は元上官でいらしたと聞いたことがある! 歴史は繰り返すんだ! ・・・どうしよう」
しかし、彼ら馴染みの者を見てメリアドールが手を振りながら駆け出すと、全員が一斉に顔を輝かせた。
「ただいま戻りました! 皆元気だった?」
メリアドールが息を弾ませ、乱れた黒髪に手をやりながら目の前に立つと、浮き立つ気持ちを押さえて彼らは大人のフリを始めた。
「相変わらずだよ。ご苦労さま。無事でなによりだ」
「ヴォルマルフ様は朝方ライオネルに発たれたよ。メリアの働きをとても喜んでおられたから会えなくて残念だとおっしゃっていた」
メリアドールの笑顔に言い様のない翳りが混じったのに気付き、彼らは急いで話を変えた。ランベリーは寒かったか、バルクの新しい銃の威力はどんなだったか、民間人の要求は何だったか。続いて門をくぐった師団長達が弾んだ声で彼らに再会の挨拶をかける。互いに次々と手を差し出した。1人はメリアドールの直属の長である姉分の騎士で今回の遠征での総師団長、残る二人はこれもまた、紳士協定組だった。視線でなにやら会話しながら彼らは頷き合った。
「皆無事か」
本部棟の扉を押し開け、神殿騎士団団長補佐の一人であるクレティアンが張りのある声を響かせた。その声に全ての者が弾かれたように駆け出して整然と列を成して踵を揃えた。最近まで王都ルザリアでの会合に参加していたクレティアンは、ヴォルマルフがしばらく本部を離れるにあたって団長代理として呼び戻されていた。ルザリアの王宮では、オヴェリア王女の誘拐事件以来神経質になったルーヴェリア王妃が警護の強化を近衛師団に命じており、神殿騎士団もまたこれに協力していた。
「15名が負傷致しましたが大事ございません」
総師団長のマリアナが一歩前に出る。
「エルムドア侯爵が無事帰還なさったと伝達があったぞ。おまえ達への感謝の言葉も頂いた」
「もったいなく存じます。戦場では噂に違わぬ剣技をお見せ頂き、我らの出番は実に少ないものでしたのに」
「このような内紛にも自ら剣を取られたのか」
「反乱の民もまた自分の民と、兵の過剰な攻撃を戒めるためだった、と聞いております」
「ご立派な方であることだ。その人となりが伝われば、内紛など今後は起きるまい」
遠征参加者に対する型通りの労いの言葉を終え、クレティアンは祝宴の用意があると告げた。これは、気を緩めて楽しんで良い、という許可である。再会の抱擁と歓声が飛び交う中、クレティアンは各師団長にそれぞれ実のある言葉を掛け、団員の中を流れ歩いてメリアドールの黒髪に行き着いた。
「大儀だったな。良く副師団長を務めたとマリアナが言っていた」
「過分のお言葉、いたみ入ります」
「ヴォルマルフ様はしばらくライオネルにご滞在だ。オヴェリア様の処遇を検討されるとのことだ。戻られてから誉めてもらうといい」
「・・・はい」
メリアドールの諦めたような笑顔にクレティアンは苦笑する。彼女の瞳は夜更けの空のような翳った薄藍に見える。それは長い睫毛のためだけではないだろう。祝宴が用意された食堂に向かいながら肩を叩いて慰めてみるが翳りは消えない。
「そんな顔をするな。気持ちは分かるがな」
例えばこれがイズルードの帰還であればヴォルマルフは必ず出迎えただろう。あるいは出立を早めて帰営途中の隊に寄って行くくらいのことはするはずだ。こういったイズルード贔屓にはヴォルマルフ自身に自覚も悪気も無いから余計に質が悪い。
「いえ、なんという事も・・・」
肉親の愛情を求め、居場所を求めて神殿騎士団へ飛び込んだメリアドールには、強さの裏に限りない脆さが見え隠れする。初めて宿舎を訪れた時から、彼女が決して自分からは父親に触れないことが、不意にクレティアンの頭を過ぎった。彼女は、父の意志で触れられることをいつも望んでいた。そしてその願いは滅多には叶えられることは無かった。
「イズルードは? 姿を見ませんが」
気を取り直すようにメリアドールは明るく言った。彼女と弟の関係は一見冷静に見えるが、実際にはとても親密だった。クレティアンの目には、メリアドールはイズルードを大切にすることで父の愛情を得ようとしているようにも見えた。
「ああ、あいつなら書類に埋もれて机で寝ていたよ。可哀想だから起こさなかったが、出迎えさせた方が良かったな」
「ふふ、そういうことなら構いません。書類仕事はあの子が一番苦手な分野ですから」
メリアドールは面白そうに言って笑った。後で寝顔を見に行こう、と呟く。
「どういう訳だか、ディリータが処理しきれずに残した仕事を引き受けたんだ。簡単だが煩雑で、いくらやっても終わらないと零していたよ」
「ディリータ? 今、ウォージリスに行っているはずですよね。いつの間に仲良くなったのかしら。気が合うようには思えませんが」
「私も思わないな。まあ、イズルードは人が良いから放っておけなかったんだろう」
「最近のディリータは確かにちょっと働き過ぎでしたものね。でも止められない雰囲気だった・・・」
「あれの考えは得体の知れないところがあるからな。まあそれも今回限りだ。補佐を付けることになった。ヴォルマルフ様がライオネルから連れ帰られる予定だ」
「随分と待遇がよろしいのですね」
「監視者でもある」
クレティアンは声を低くして言った。メリアドールは少し目を見開いて彼を見上げた。
「バルマウフラを知っているだろう。あれを付ける。それとハザンとフレイも」
「え、あの人達は“立ち枯れの木”でしょう?」
「そうだ。『“草”の容疑がある者を監視するあって無き存在』を、こんな表舞台には立たせたくはなかったが、ディリータの素養を鑑みると彼女達くらいでなければ勤まらん」
メリアドールは心配そうにクレティアンの袖を引いた。彼はその手をローブの影でそっと握る。
「困るわ・・・“草”の容疑がある人とイズルードが親しいなんて」
「大丈夫。イズルードは馬鹿ではないよ。充分警戒するように言ってあるしね。それに、そもそものディリータの容疑は“鏡像”だから」
鏡に映るものは完璧に見えても必ず全てが左右逆転している。目立った嫌疑はなくとも真意が見えない者、しかも素質がある優秀な者を特に“鏡像”と呼ぶ。
見つめ合い、メリアドールの夜更け色の瞳に少しだけ安堵が浮かぶのを確認してクレティアンは顔を上げた。にぎやかしく紳士協定組が向かって来ている。名残惜しくメリアドールの手を離すが、彼女はいつまでもクレティアンの小指を触っている。目を細めて見下ろすと、彼女は一度ぎゅっと指を握ってから離した。唇が、後で会ってね、と動いた。
「今晩、部屋に行くよ」
そっと耳打ちしてクレティアンはメリアドールに背を向けた。彼女を追って食堂に入って行く紳士協定組に余裕の笑みを向ける。
「悪いな。協定ってのは、結んでいない者には意味が無いものなんだぜ」
彼が呟く言葉を聞く者はいない。
メリアドールが恥ずかしがるので灯りを消した月明かりだけの部屋、クレティアンは胸を彼女の背にぴったりつけて、月光にきらめく黒い髪に顔を埋めていた。手を前に回して乳房を包むと、くすぐったいと彼女は笑って降り返った。こうしてゆったりと抱き合って口付けを交わす時がクレティアンの唯一の安らぎだった。メリアドールにもそう思っていて欲しかった。頬を撫でると目を閉じ、自分に体重を預けるメリアドールは仄かに甘い香りがする。彼女が戦場でつける、敵を惑わすという護身用の香水、シャンタージュの匂いに似ているが、何かが決定的に違った。体を洗ってもシャンタージュの匂いはかすかに残り、メリアドールの体臭と絡み合ってクレティアンをうっとりとさせる香りに変化するのだ。
「灯りをつけたいな」
「・・・だめよ、恥ずかしいもの」
「顔が見たいよ」
「見えるわ」
「見えないよ、やっぱりつけよう」
「あ、だめだったら!」
メリアドールは慌ててクレティアンに抱きつき、起き上がらせないようにキスで拘束した。笑いながらクレティアンはメリアドールに深いキスを捧げる。メリアドールはまだ口付けにも慣れていない。彼の本気のキスを受けると体中の力が抜けてしまう。本来のクレティアンの嗜好からいえば若すぎる恋人だった。
「体、大丈夫かい」
「いやね、平気よ」
「まだ痛そうだよ」
「そんなことないわ!」
彼女は精一杯に強がる。体の関係を持ってから半年ほどだが、互いに忙しくて数えるほどしか寝ていない。抱く度に震えるメリアドールにクレティアンは困惑と同時に底知れぬ愛しさを感じていた。自分にこんな気持ちがあるなど、今まで知らなかった。恋愛にはのめり込めない性質だと信じていたから、セックスは街の遊び女と楽しくやって、仕事として家名にふさわしい相手と子を成す。そういう人生が自分には似合っていると思っていた。
「そんなこと、ないもの・・・」
「メリア・・・」
「クレティアンとこうするのって、あたし好きだもの」
「終わるとほっとしてるじゃないか」
「そんなことないって言ってるじゃない!」
抱きしめると怒って腕の中でもがく。メリアドールはクレティアンが女に慣れていること、自分が初めてだったことをずっと気にしている。飽きられるのではないかと心配で仕方が無いらしく、クレティアンとのセックスを気に入っているのだといつも念を押す。
「私にはどっちでもいいことだがなあ」
「嘘! つまらないんでしょ、本当は!」
「どうしてそうなるんだ・・・私はこうしているだけで幸せだよ」
他の誰に言っても白々しい台詞も、メリアドールが相手なら心底そう思える。ふくれているメリアドールの背中を優しく撫でながら、クレティアンは早口で何事かを言って、ぱち、と指を鳴らした。顔を上げたメリアドールの目の前でクレティアンの指からランプの芯に、小さな炎が飛び移った。
「イヤだって言ったのに・・・」
しかしメリアドールは感心してランプを見つめている。
「ランプの硝子を通り抜けたわ! 一体どうやったらそんなことが出来るの?」
「上手く説明出来ないな。離れた相手に火炎を当てるのと大して変わらないんだが」
「すごいのね、大魔道士って」
メリアドールは、自分の尻を嬉しそうに弄んでいるクレティアンの手を捕まえると両手で包んだ。その腕はあちこちが変色し、幾つもの矢尻痕が残っている。体の他の部分も同様だった。戦場では魔道士は後方に待機することが多いから、遠くに飛ばせる魔法や弓矢を中心とした攻撃を受ける事になるのだ。装備に気を配っても、直接攻撃を基本とする騎士よりも傷だらけになることがしばしばだった。そうした経験がクレティアンを傷に無頓着な性質にしたのだろう、何度か共に戦場に立った際に、彼が自分の傷には手当ても気配りもしないことをメリアドールは知った。その癖は叱っても直らなかった。この先銃が普及したら、また別の形の傷が増えるのだとメリアドールは傷やケロイドを撫でた。撫でる事で治せるのなら何時間でも撫でていたい、そうメリアドールは心の中で呟いた。
「生活に役立つから? 火打ち石の代わりに私を持ち歩くといいよ」
「馬鹿ね、尊敬しているのよ」
「そりゃ嬉しいね。もう一回してもいい?」
「あっ、もう! クレティアンったら!」
言葉ほどの抵抗もなく、メリアドールはクレティアンを許した。クレティアンの赤銅の髪を胸に抱き、乳房に降るキスに身を震わせる。
「クレティアン・・・」
「無理ならちゃんと言ってくれ。辛いようにはしたくない」
「貴方は優しくて気持ちがいいわ。あたし、貴方とこうしているの、本当に好きなのよ。貴方の砂色の瞳と同じくらい好きよ、分かってね」
「分かってる、知ってるよ」
少しずつ、彼女なりにセックスに感じるようになってきていた。教えることが楽しいことだということを、クレティアンはメリアドールに教わった。手馴れた女とは違ったメリアドールの反応は充分にクレティアンを興奮させる。
肌を辿り、キスで紛らせながら指を核芯に当てる。反応はあまりないが、それはまだ快感よりも異質な感触に気持ち悪さを感じて堪えているからだ。
「声を出してみて」
「イヤ」
「はは、困った子だね」
指を潜りこませるとぎゅっと背中の手に力が入った。可愛い、と呟くと頬を染め、灯りを消してと哀願する。駄目だよ、と笑って閉じようとする膝を広げて体を入れた。
「ダメ、ダメ、見ないで、暗くして」
「綺麗だから見ていたいんだよ」
「クレティアン、お願い」
分かったよ、と言い、一瞬力が抜けたところに押し入った。予告すれば必ず緊張するから、クレティアンはいつもこうして不意を狙う。あ、と鋭く声を上げるメリアドールの尻をなだめるように撫でた。
「メリア、大丈夫かい」
「ええ、うん、・・・恥ずかしいの・・・」
「平気だよ。君は綺麗だ」
「クレティアン・・・」
しっかりと抱いて揺すり上げるとメリアドールは子犬のような声を上げた。慣れていない場所は気遣いが難しくなるくらいにきつく絡みつき、夢中になりながらクレティアンはメリアドールのふくよかな乳房をきつく掴んだ。
「痛!」
「あ、ごめん、」
「いいの、痛くして。痛くして・・・」
「メリア・・・!」
激しく口付けると覚えたばかりの舌がおずおずとクレティアンの歯列に這う。愛しい、という以外に表現のしようのない、焦燥にも似た感情のままにクレティアンはその舌を口内に引き入れて思い切り吸った。震えるメリアドールの体をきつく抱き、整わない呼吸の合間に耳元に囁く。
「愛しているよ」
まさか、自分がそんな言葉を口にするなど、半年前には想像もできなかった。あの夜、心が変わる瞬間を迎えるまでは。
夕暮れ時、呆然とした風のメリアドールの背中を見つけ、クレティアンは本部棟脇に足を向けた。近づくと彼女は足元を見つめて声も無くただ泣いていて、クレティアンが声をかけると彼をぼうっと見上げた。慰めるために涙を拭ってやり、震えているので抱きしめ、しがみついてくるのでキスをした。そんな始まりだった。最初に寝た時には、欲情よりもヴォルマルフの娘を抱くというスリルの方が印象深かったほどにクレティアンは冷静だった。
それから3月ほど経った夜のことだった。メリアドールを訪ねようとして、ふと花でもやろうと思いつき、演習場に出た。昼間、木立の間に花を見た気がしたのだ。夜目にランプをかざして茂みに屈んでいると何かの気配を感じた。花を探しているなどと説明をするのは馬鹿らしかったので、クレティアンは深く考えずにランプを吹き消した。
イズルードが歩いて来た。早足で、逃げているようにも思えた。彼ならば知られても構わないと立ち上がりかけた時、背後をヴォルマルフが追っているのに気が付いた。屈み直して気配を消していると、ヴォルマルフが手を伸ばしてイズルードに触った。何気ない動きに見えたがイズルードは異常な反応を返して立ち止まり、ヴォルマルフは息子の腕を取って茂みに向かった。イズルードは成すがままに敷地を隔てる壁際に立たされ、両手を壁についた。
こんなところで折檻でもするつもりかと、クレティアンはあえて姿を見せようとした。が、凍りついた。ヴォルマルフが迷いもなくイズルードのベルトを外し、下着まで引き下ろすと後口に指を押し込んだからだ。イズルードの性器を握って擦り上げながら、耳元で何かを囁いている。その顔はぞっとするほど優しい顔だった。イズルードは強く目を閉じ、唇を噛んでいた。
不幸なことにクレティアンの位置からは二人があまりに良く見えた。仄かに辺りを照らす月と闇に慣れた目をクレティアンは恨んだ。目を閉じても二人の息遣いが却って生々しく、ただ音を立てないようにじっと固まり、クレティアンは最後まで見届けた。四つ這いになって尻を高く持ち上げられたイズルードがヴォルマルフに犯され、もの慣れた様子で喘ぎながら吐精してその飛沫が土に染みをつくるまでを彼は見届けた。
放心するイズルードをヴォルマルフは愛しそうに抱きしめ、口付けを与え、後始末をして衣服を着せた。そうして息子を抱きかかえるようにして去った。彼らが消えてもしばらくクレティアンは動けなかった。情けないことだが腰が抜けてしまい、気が付くと頭を抱えてうずくまっていた。
あってはならないことだった。街の噂でヴォルマルフがたまに少年を買っていることは聞いていたが、そんなものは人それぞれの嗜好であるし、遠の昔に妻を亡くした男が遊び相手を求めることを、責めることが出来る者などいるはずもない。しかし、実の子を犯すことだけは、あってはならなかった。今更ながら自分の信仰の深さを思い知り、衝撃に胸を押さえてクレティアンは立ち上がった。
足に力が入らない。よろよろとランプを取り、朦朧と火を付けるとその灯りが目を焼いた。赤い視界に、メリアドールが泣いていた夕暮れが脳裏を過ぎる。もしかすると、彼女は父と弟のただならぬ関係に気付いているのかもしれない。そして確かめることも事実として認識することも出来ないままに、慢性的な絶望を抱いて父の愛情に飢えている。
今夜だけはメリアドールの顔を見られない。同情を持ったまま抱くのは嫌だった。しかし、クレティアンの足は彼女の部屋に向かった。扉を叩くとすぐに返事があってメリアドールが顔を出す。彼女は嬉しそうにクレティアンを見上げ、そして、あ、と気付いて彼の手を見つめた。
「可愛い」
全く記憶に無かったが、クレティアンは赤い花を握っていた。
「ああ、君に・・・」
メリアドールは少しびっくりしてクレティアンを見つめた。瞳にかすかな涙が浮かんだ。
「ありがとう」
たった一本の雑草のような花を受け取りメリアドールは頬擦りした。一粒、涙が落ちた。その瞬間、クレティアンは猛烈な悲しみと愛しさに沸騰してメリアドールを抱きしめた。
「・・・クレティアン、花が潰れてしまうわ」
「いくらでも取って来てやる、いくらでも・・・」
半分開いた扉の間で二人は長く抱き合っていた。
メリアドールは眠っている。囁くような寝言を言う。クレティアンは彼女の髪を梳きながら柔らかい頬に唇を寄せた。悲しみや寂しさで繋がる関係など、空しいものだと言われるのかもしれない。しかしそういう感情は愛しさととても相性が良い。なにより、自分の愛情をこれほど喜ぶ相手をクレティアンは知らないし、メリアドールもまた無条件の愛情を求めている。彼女の肌を柔らかくて気持ちが良いと思える自分が存在するだけで充分だ。
クレティアンは起こさぬようにそっと恋人を抱きしめた。油が尽きかけ、揺らめいていた灯りがとうとう消えた。
「おやすみメリアドール」
また、囁きが聞こえた。クレティアン、と一言だけ。この囁きのためなら何も惜しいものはない。クレティアンは恋人の香りを胸一杯に吸い込み、目を閉じた。
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