早暁の暗がりに窓を開け、眼下の演習場を見下ろす。重量のある何物かを引きずった跡が真ん中にくっきりと残っていた。せめてあと倍の広さがあれば良いが、と思うがそれは望むべくもない。
ディリータは手早く身支度を整えると部屋を後にした。訓練だけは引継ぎを済ませたものの、圧倒的に不足している具足類の補充など、自分が採決せねばならない仕事が山積みだ。訓練が始まってからというもの、事務仕事が完全に破綻している。出立までの2日の間で片付けねばならないことを数え上げ、止めた。到底可能とは思えないがやるしかないだろう。
がりがりと頭を掻くがあまり冴えているとは言えない。晩秋の冷えた空気の中で上着を脱ぎ、鳥肌を立てて執務室に向かう。
その時聞き覚えのある足音が遠くに響いた。顔よりも先に足音を覚える癖がディリータにはあった。また、音だけで相手の居場所を正確に聞き分ける事もまた特技であった。初めての音でも、移動速度と位置関係からその人物の体格すら予想できるディリータが、この特徴的な足音を忘れる訳はなかった。
ディリータは迷うこと無く真横の物置に身を隠した。足音の主は右奥の通路を通り、角に差し掛かって少し速度を緩め、そしてまた速めてディリータの潜む前を通過した。自室に向かったようだ。幹部棟に通じるドアが閉まる音を確認してからディリータは廊下に戻った。
ヴォルマルフだった。
物置を出て再び歩き出す。通路の角で足を止めた。右通路奥の左側。左右を空き部屋に挟まれた露骨な場所に、イズルードは居た。
初めてイズルードを従えたヴォルマルフと対峙した時に、あれが噂の愛人かと思ったら息子だった。しかし、それは的外れな感想では無かった。
ディリータは入隊直後から、常に他の隊員よりも2時間程早く起床して実務を開始していた。そのため、今のようにイズルードの部屋を夜明け前に出るヴォルマルフを見かけることがしばしばあった。これは、とすぐに感づき、またヴォルマルフもそれを察したようで顔を合わせてしまった日は必ず団長室に呼ばれた。手や口での奉仕をしつこく強いられ、見たことへの懲罰なのだろうと思っていたが、どうやらイズルードを抱けば抱いたで気が荒れるらしい。ディリータには特に珍しくも傷つく訳でもない行為だが、いい加減面倒になってヴォルマルフの足音を聞くと物陰に隠れるようになった。
実の父親と、か。
意地の悪い興味に駆られて体の向きを変える。足音を忍ばせてイズルードの部屋に歩を進めた。腕を組み、透かし見るように扉の前にしばらく立ってみたが、その部屋は死んだように静まっていた。
泣き声が聞こえれば良いと思った。狂ったように何かを破壊する音を期待した。しかしいつまでもそこは無音だった。
信じられなかった。抱かれ疲れて眠っているとでもいうのか。聖騎士の身分で父親との相姦を甘受しているとでもいうのか。
信じられなかった。聖騎士でなくともラムザは半分しか血の繋がらない兄にすら破壊されたというのに。ラムザは何度犯されても慣れなかった。その度に狂ったように泣いて部屋中を散らかし、半裸でベランダの雪に埋もれて気を失っていた。何時間でも体を洗い続け、自分の腕に焼けた火掻き棒を当て、両手一杯の髪を引き抜き、割れた窓ガラスの上で血だらけで眠っていたりした。目を離すと高い場所に上ろうとするから、屋上へ至る階段の扉には鍵をつけねばならなかった。
自分でも気付かぬ内に深く記憶に嵌り込んでいたらしく、いきなり目の前の扉が開いてディリータは小さく声を上げた。
イズルードは髪を乱し、顔も夜着も酷い有様だった。ディリータと目を合わせて少し驚いたようだった。だが、ほんの少しだけだった。
「・・・ああ、あんたか」
イズルードはそれだけを言った。ドアから通路を見回し溜息をつき、ディリータなど見なかったようにドアを閉めた。鍵すら掛けなかった。
閉じた扉をしばし唖然と見つめていたが、止む無し、とディリータは部屋の前を離れた。
執務室はしんと冷え、触るもの全てが影のようだった。ディリータは暖炉に小さく火を熾して財務帳を開く。予算はある。使っていないのかと思うほどに潤っている数字に不思議なものだと唇を曲げる。おそらく、始末した異端者の財産と同じ額の臨時収入がこの帳面に付いてきたのだろう。
暖炉の火が消えたことにも気付かぬほどディリータは熱心に書面に埋もれたが、目の前にある紙の山は一向に減らず、むしろ手抜かりが見つかる度に新しい書面が増えた。ディリータはうんざりとサインを終えた書面を放り出した。
この勢いで続けても今夜は徹夜になるか。苦笑しながら窓を見れば彼方の稜線が日の出を告げていた。会いたくもない恋しい相手に会うために予定を切り詰め、こうして日の出を見ながら椅子を暖めている自分は道化のようなものだろう。ディリータは椅子の上で背を伸ばし、立ち上がって窓に寄った。
早暁の薄明かりに窓を開け、眼下の演習場を見下ろす。重量のある何物かを引きずった跡が真ん中にくっきりと残っていた。
滲む光の中で見るそれはきれいな一本線ではなく、暴れる生き物を引きずった痕跡で、横には足跡が伴われていた。一ヶ所で酷く乱れ、その生き物が激しく抵抗したことが想像できる。
イズルードの足は土に汚れていた。夜着も髪も泥まみれだった。唇が切れて顎まで血が滴っていた。そして全くの無声でイズルードは目を見開き号泣していた。顔を動かす度に涙と血が混じって廊下に垂れた。ヴォルマルフが通った跡にもやはり泥が落ちていた。父親は逃げ出した息子を追い、演習場の真ん中で打ち据えた後に引きずって戻ったのだろう。
椅子に戻ってディリータは書面に視線を戻す。間もなく大勢の新兵が演習場に飛び出してあの痕跡を消し、体を洗ったイズルードが剣を振り上げて彼らを統率するのだろう。
ドアが開き、複数の取り巻きとともにヴォルマルフが入ってきた。ディリータは仕上がった書類の束を掴むとそれをヴォルマルフに手渡し、入れ替わりに部屋を出た。朝食の銅鑼が鳴っている。
食堂の手前でディリータとイズルードは顔を合わした。何事も無かったかのように朝の挨拶を掛け合う。僅かに腫れた唇だけが名残、彼らを見つけて寄って来たデルタがそれを指摘し、ディリータはイズルードの返答を待たずにデルタの襟首を摘んで椅子に押し込めて言う。
「手が空いた。午前の指揮は俺が取る」
イズルードは、そうか、とだけ答える。
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