「ハイラル団長……」
自ら近寄っておきながら、ノリスは髪をいじりながら言いよどんだ。このところ多忙を極めているディリータの機嫌はひたすら悪い。片付かない山積みの仕事が、亡霊のように常にディリータの頭を支配してぴりぴりと神経を痛めつけているのだ。何よりもこの若き団長を悩ませているのは、自らの不在によって悪化する彼の騎士団の風紀だ。団長が代替わりして間もない黒羊騎士団は団員の出入りも激しく一体感が乏しい。訓練が行き届いていないという根本だけでなく、団員同士のいさかいや報酬への不満の声など、些細だが放置すれば深刻になる問題も散見する中、ヴォルマルフやローファルの命が出ればディリータはどこへでも足を運ばねばならず、黒羊騎士団は彼が戻る度に状態が悪くなっている。既に二週間以上も団員の顔を見ていないとなれば、不機嫌にもなろうと言うところだ。
「なんだ!」
予想以上の大声で怒鳴り返される。ぐっと歯を噛み締めてノリスは耐えた。こういう時に、隣でいつも同じように歯を噛み締めていた者を一瞬思い出したが、険のある顔付きが再び口を開いたことで、すぐにその面影は飛び去ってしまった。
「俺は明日の日の出に出発するんだ、時間が無い! 黙らずに即答しろノリス!」
「ブ、ブリストック子爵がおいでになりました!」
やけくそに背筋を伸ばして叫び返したノリスの前、ブリストックと呟きながらディリータは眉間に皺を増やした。細身の帷子の上に重ねた赤い軍衣がぴりりと揺れ、ノリスはそっと首を竦めた。
「面倒でも会わねばならんな。どこだ」
語尾を溜息に変えながらディリータは言った。
「来賓室でお待ちです」
「子爵、ならばスコットか?」
「いえ、次男のラインハルト様です」
「どっちにしろ、恨み言を聞かせるためにわざわざやって来るとはご苦労なことだ」
自嘲をわずかに唇の端に置き、ディリータは片手に持っていた書類の束をぐっとノリスに突きつけた。
「持ってろ。誰にも見せるな」
「はははい、かしこまりました!」
ノリスの返事を聞き終える前に、ディリータはブーツの底を硬質に鳴らして背を向けた。
待っていたのは、青を基調にした衣服を纏った男だった。年齢はディリータよりも五、六歳上と言ったところだろう。頬が切れそうな立て襟の上着に彼の性格を見てとってディリータはわずか、目を細めて唇を引き結んだ。
「ディリータ・ハイラルです」
丁寧に会釈し、ディリータは男の前に立った。何度か瞬き、青年は目を見開いたまま言った。
「これは……。いえ、お会い出来て光栄です。デルタ・ブリストックの兄、ラインハルトです」
ディリータは立ったままであった青年にソファを勧めて自分も座った。ラインハルトは不躾と取られても仕方が無い程ディリータの顔を凝視したままだ。
「どうしました?」
理由は予想済みだが敢えて聞く。
「いや、あまりにお若いので……」
「年齢はどうにもできませんね。団長代理かとよく問われます」
「侮っている訳ではありません。気分を害されたのならお詫びを……」
「いえ、気になりません」
穏やかに笑みを作り、ディリータはラインハルトの荒れた手を見つめた。あらゆる部分を隙無く装っても、手だけは職業を語る。彼の手はディリータと同じく、特に雄弁に持ち主の背景を語っている。彼はオヴェリア側の王立騎士団の人間だが、ディリータはその手にかすかな親しみを覚えた。聖騎士団に属する者として、いずれ滅ぼすであろう手に。
「それで、御用の向きは」
促すと、ラインハルトはまた何度か瞬いてからすぐに真顔になった。
「もちろん、デルタのことです」
「ええ、そうでしょう」
「本来ならば、父ゼル若しくは長兄のスコットが参らねばならないところ、二人とも先の戦闘で深手を負い治療中で……。次兄の私からではありますが、まずはお礼を言わせていただきたい」
ラインハルトはその場で立ち上がり、ディリータが止める間もなく深く頭を下げた。
「不肖の弟が大変にお世話になりました」
仕方なくディリータも立ち上がり、兄として礼を尽くしに来た男の側に寄った。
「おやめ下さい。誰しもに有り得ることです」
「ええ、それは私もよくわかっています」
彼は再びディリータの誘導に従ってソファに座った。二人は何度か視線を合わせ、しかしどちらからも言葉を切り出せずに壁紙や絨毯を見つめた。掛け時計の秒針の音がやけに大きく聞こえている。その規則正しい音は目の前の男と同じ性質からできている、そうディリータが思った時、静かにラインハルトは言った。
「最期は……苦しみましたか」
「私の手で楽にしてやる程の時間もありませんでした」
ラインハルトにはそれで充分だったようだ。わずかに顔を背けて彼は何度も頷いた。
ディリータにとって、それは腹立たしい戦闘だった。相手はたった三人の女、しかも王女を守りながらの逃走。追った部下は次々と廊下に横たわり、しかも死んではいなかった。私のためにこれ以上殺さないでと叫ぶ王女の甲高い声が、遠くからでもよく聞こえた。
城門に向かえばまだ門番という砦が残っていた。しかし相手も素人ではない。登城の際に確認していたのだろう、当然のように裏へ裏へと周り正確に最も手薄の場所を目指して行く。
女達の足は速かった。王女は二人の女に両脇を抱えられて足が浮いていた。それを前になり後ろになって守っていたのは鋭い緑の目の女。編んだ長い髪が天井に触れるほど高く跳躍し、何人を相手にしても負けるなどとは考えもしない顔付きをしていた。全力で追うディリータがじりじりと離され、気が付けば部下は全ていなくなっていた。
そこに、前方からチョコボが突っ込んできた。騎乗している者は鞍の上に足裏を置いてしゃがみ、思い切り鞭を打った。突進するチョコボから小柄な体が跳ね、同時に緑の目の女も跳んだ。王女の悲鳴とチョコボの鳴き声が交差し、金属音が激しく響いた。ディリータはチョコボに突き倒された女達から王女をがむしゃらに奪い取り、その首に刃を当てて顔を上げた。
その瞬間、思った以上に近い距離で剣が少年の体に埋め込まれるのが見えた。いや、と力なく絶望の声を上げて王女は顔を両手で覆った。
その時点では、ディリータにはほとんど勝機は無かった。王女を抱えていた二人の女はディリータに剣を突きつけており、彼女達の上官が最後のディリータの部下に勝利したその時点では。
「……っ」
一瞬の怯みだった。女は何に対してか、刹那だが確かに動揺して少年を凝視した。敵の隙に反射的にディリータの足が蹴り上がり、ほぼまともに額の中央をかかとに打たれて緑の目の女は壁際まで跳ばされた。王女を抱える反対の手でデルタの剣を拾って振り向きざまに部下の女の効き腕を斬り、そこでオヴェリアが逃げないからもうやめてと泣き叫んだ。その悲鳴に被るように駆けつけたライオネル城の兵士に女達と王女を引き渡し、ディリータは少年に踵を返した。
だが、何をしてやるにも、出血が酷過ぎることは一目でわかった。
「デルタ」
「……す、みませ……」
「いや、よくやった。王女は取り戻した」
「そ、ですか……ああ、少しは役に……」
「もうしゃべるな。治療を始める」
ライオネルの兵士が首を振っていた。しかしディリータはポーションを撒き散らし、己のマントを毟り取ると胸の傷に押し当てた。
「ハイラ……団……」
「大丈夫だ」
「あなた、らしくも、ない……」
「うるさい。黙ってろ」
「ふ、ふ……」
かすかに笑い、デルタはディリータを見上げた。もう焦点は合っていなかった。そのまま数秒、彼はことりと頭を傾けて絶命した。
「そうですか……。せめてもの慰めです」
「デルタは」
いや、デルタ君は、と言い直そうとした。しかし、ラインハルトはそれでいいと頷いた。
「兄君にお聞かせすることではありませんが……。デルタを初めて見た時、正直使い物にならないと思いました。しかし実のところ、彼は非常に気性が強く適切な指導をすれば、するだけ伸びる良い軍人だとわかりました。最近は私の右腕と呼んでも良いと思うほどでしたよ」
「そこまで持ち上げていただかなくとも」
「いえ、真実です。一年も経たずにあれだけ剣術を磨き抜いたとは今でも信じられない」
それには、イズルードが実に奇妙な形で関わっている。イズルードは、デルタがディリータに恋着していることに強く興味を持っていた。あてつけでも嫌味でもなく、純粋に興味をそそられたらしい。父親だけに支配されている息子にとって、デルタのように他人に依存する種類の人間は、自分と似た状況下におかれているように見えて放っておけなかったのかもしれない。
ディリータの後を追い、彼のために走り回っているデルタをイズルードはよく助けてやり、時間を惜しまず剣術の稽古にも付き合った。俺は意外と教える才能があるんだな、などと言っていたのをディリータは不意に思い出した。それほどデルタは良く伸びた。その理由を、これまでもこれからも、ディリータは知らぬふりをするだろう。
「他の団員にお聞きになっても構いませんよ。副団長に何かあれば、私はそこにデルタを推すつもりだった。反対する者はいないだろうと思ったからです」
「ハイラル団長」
「ディリータとお呼び下さい」
「ではディリータ殿」
あくまでも儀礼を失わず、ラインハルトは弟と同じ色の目をディリータに向けた。
「今私は、本当にあなたに対する感謝の気持ちしかありません。どのようにお礼を申し上げれば良いか……」
「いいえ。全て、デルタが成し遂げたことです」
「あれは、とても依存心の強い子供でした」
膝の上で両手の指を組み合わせ、ラインハルトは溜息交じりに呟いた。
「父も若い時分はそういう者だったようです。それが変わったのは本当に信じられ、尊敬できる上官に出会ってからだということです。それが後に母となりました。そういう家庭ですから、兄二人と両親の強過ぎる守りの中であの子は育つことになり……。アカデミーに入れるのも、私は反対でした。ついていけるはずがないと確信していました。実際、ぎりぎりの成績でなんとか卒業したもののどこにも行き場がなく、兄スコットの強い推薦と丁度数が足りなくなっていた時期だということで、ほとんど無理やり黒羊騎士団に潜り込ませたのです。それが、こうして勇敢に死を迎え……上官のあなたに褒めていただけるような、軍人と言っていただけるような者に成れた……あのデルタが……」
彼は泣きはしなかった。それだけ一気に話すとじっと自分の手を見つめていた。ディリータもまた、ラインハルトの手を見つめた。
「子爵」
ディリータが言うと、心得たとばかりにラインハルトは顔を上げた。彼はほのかに笑っていた。
「お時間を取らせました」
「いえ」
同時に立ち上がり、一つ握手を交わした。そして戸口まで先導しようと背を向けたディリータの耳に、あ、とラインハルトの呟きが聞こえた。
「ディリータ殿、もしご迷惑でなければ受け取っていただきたいものが」
形見分けは困るな、そう思ったのが顔に出たのだろう。苦笑に近い表情で、それでもラインハルトは懐から小さな箱を取り出した。指先で摘めるような小さな箱の蓋が開くと、中には片方だけのピアスが入っていた。
「……」
「片方は本人と共に埋葬しました。デルタはこれを殊に気に入っていたようです。戦場で失くすと残念だから片方だけ家に置いておくと言って、これを母に預けていましたが、おそらくは形見として置いていったのだと思います」
「それは、受け取れません」
「いいえ、どうしてもあなたに」
「母君にお返し下さい」
「この手紙を」
は、とディリータは赤く光る小さな石から目を離した。ラインハルトはいつの間にか一通の手紙も差し出していた。
「お読みいただけるとわかっていただけるやもしれません」
困ったことになったとディリータは小さく嘆息した。部下の死を見届け家族に伝える、それは上官の義務だとディリータは思っている。しかし、ここまでは義務の範疇には、無い。
「短い手紙ですので、どうか」
身なりからして決して地位が低くはないだろう相手に懇願され、ディリータは渋々と頷いて手紙を手に取った。確かに一枚きりの簡単な単語が並んでいる手紙だった。深く呼吸を繰り返してそれを読み終えたディリータは、諦めたようにラインハルトを見上げた。
「わかりました。受け取りましょう」
「ありがとう、ございます」
満足そうに笑み、ラインハルトは箱に蓋を被せると手紙とともにディリータに渡した。それらはささやかすぎる重さをディリータの手のひらに与えた。
「ノリス!」
「は、はい!」
どうしてこういつも、四歳も年下の『子供』に首を竦めさせられるんだろう、そう思いながら目一杯首を縮めたノリスは、勢いよく近付いてくるディリータの側へと早足で向かった。
「その書類、見たか」
「まさか」
「どうして見ない!」
「は!? 誰にも見せるなと……」
「だから、おまえが見るんだ! ったく仕方の無い」
「す、すみません!」
「夕食を会議と兼用で行う。それまでに完璧に頭に入れておけ」
「は、はいっ」
近付いてきた勢いのまま、ディリータはノリスの横を通り過ぎて歩き去っていく。呆然と見送ってから、大量の紙を抱えたノリスもまた静かな部屋を求めて歩き出した。
「失礼します」
ノックの音でディリータは顔を上げた。
「なんだ」
無感動にノリスを見つめると、彼は思った通りに首を竦めた。教育が上手くいき過ぎたらしい。
「用は」
「は、はい、あの、先ほどの書面の件で……」
「わからんのか」
あ、いえ、と口篭ってからノリスはぐっと顎を引いて開き直った大股で近付いてきた。
「こちらですが……。現状の数と合わないのですが購い足しても構わないということでしょうか」
指で示された場所を覗き、ふむとディリータは頷いた。
「それは一月前の数字だ。足りないなら好きにしていい。責任は俺が持つ」
「わかりました」
期待していなかったが、ノリスはそれなりに手順を踏んだ仕事をするようだ。ディリータはちらりと恐縮した彼の顔を見つめてからゆっくりとした動作で椅子から立ち上がった。
「他に質問は? 俺は軍議に参加せねばならないんだが」
「あ、はい、以上です、すみません!」
「謝るな」
苦笑を滲ませてノリスの前を行き過ぎようとした。
「団ちょ……」
恐る恐るという風情で声が掛かり、ディリータはまた眉間に皺を刻むことになった。
「つい数時間前に、黙らずに言えと言ったはずだが」
潜めたような低い声にまたノリスは首を竦め、そして泡を飛ばす勢いで言った。
「団長の耳が気になったんです!」
「……ったく、おまえは」
視線を見返してディリータは足を止めた。
「す、すみません」
「いいんだ、放っておいてくれ」
「申し訳、」
「もういい……」
睨むこともせず、赤い軍衣の裾の繊細な白い刺繍を午後の陽に光らせながら、背中を向けたディリータは部屋を出て行った。その耳には、軍衣と同じ釜で染めたかのようにぴたりと同じ色の石が留め付けられていた。
そしてそこから垂れた一筋の血もまた、石が流したかのような赤だった。
二人が出て行き無人になった部屋の中、どこかから薄く入る風に揺らされて机の上から一枚の紙が落ちた。
かさりと密やかな音はその重さと似て、何度か表裏と返りながら風に飛ばされた手紙は部屋の端に放置された軍靴のかかとに当たって止まった。
「 親愛なる皆々様
母上、お膝の具合はいかがですか。そろそろ訓練師を引退せよという
神からのお言葉かもしれませんよ。
父上、兄上方がこの手紙を読まれる頃には、おそらく僕は皆様のどなたよりも
ずっと南にいるはずです。
北部生まれの僕においては、軍人として体調不良などという恥をかかないように
気を配るばかりです。
僕が生まれた家を出て暮らすようになって三年です。
ようやく人としての何かを見つけ始めたように思います。
少し前から見え始めた何かが、ようやく手に届くような心持ちであります。
僕は、やっと知ったのです。尽くすという言葉の本当の意味を。
僕は今変わろうとしています。
皆様への愛は赤子の頃から変わりません。違う形の美しいものを見つけたのです。
孤独で不機嫌で、しかし誰よりも崇高な魂。
まさかそんなものを見つけられる僕だとは思いもしなかった。
ですから、この先僕はどう生きるかなどと考えることはありません。
この光を追って守り、決して離れないのです。
どうか皆様の上にいつも神のご加護がありますように。ファーラム。
デルタ・ブリストック 」
手紙はただ、風に揺れている。
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