確かに私の感情は愛しているという言葉に置き換えられる。だがそれで全てを説明することは難しい。ラムザの横顔を見ているとしんしんと心がそう訴える。
彼は、わずかに背を向けて眠っている。頬にかかる髪に触れるとひどく柔らかい手触りが返ってきた。子供や少女のように瑞々しい髪は、今は昼間の眩しさを失って濡れたように暗い。
暖かさが戻ってきた季節に、私は話をしたいと言った。私達は川が流れるように会話をしてきた。いつも跡形もなく消えてしまうような。ここが戦場だからだ。我々は戦いの場には不似合いなことをしている。だから話を、と。ラムザはそれに応えようとしてくれている。
しかし彼にはより必要なものがある。こうしてすぐに肉体に偏ってしまうのはそのためだ。くだらなくも暖かい物事をたどたどしく語り終えれば、私達は黙り、彼は少し申し訳なさそうに笑う。私は心の通りに、構わないと呟く。そして私達は胸を合わせる。
触れる髪の柔らかさに指先が痺れるようだ。そのうっとりとした感覚のまま、彼の首筋を辿る。滑り落ちた背の、赤。
治らないと聞いた。それは正しくもあり間違ってもいる。これは完全に塞がっているからだ。薄く透明な皮膚が中の色を透かしているだけのもの。他の肉よりも弾力のない弱々しい赤の線は、熟れた果実か繊細な菓子のようなうるみで彼の背を彩っている。
赤い傷。彼の本質に刻まれた傷。それによって彼は変わり、茫洋とした生き方を選択するという矛盾に満ちた。彼は選択せざるを得なかった。漠々とした砂原に似た、道の無い場所を。
この背中に泣いた時、私は少なく無く卑怯な者だった。語る彼の乏しい表情、何かを熱愛する視線、真情からの自己評価の低さ、そういったものだけに泣かされたのではない。私は安堵した。あの男さえも、その傷を癒せなかったことに。
治すと言った言葉に嘘は無い。嘘ではなかった。だが私は泣きながら、無理だと、確信する自分を見た。無理だろう。治せはしまい無理だろう。なぜならこれは、傷ではないからだ。
ラムザがかつて、容易く他人と肌を合わせていたことを私は知っている。彼ら、彼女らは、この背中に悲しみを感じたか。あるいは無関心に視界から外したか。なににせよ、そういう者達の耳には聞こえない音がある。その音は、痛みとも拒絶ともつかない発される熱情を知ろうと、そろりと指先を乗せる時にだけ聞くことができる。
おいで、触ってもいいよ。
目を細め腕を伸ばして誘うのは彼の中の子供。
おいで、触ってもいいよ。一緒に血まみれになろうよ。
あるかなしかの笑みを唇に置いて囁く子供は、一瞬後には泣きじゃくる。同時に懐の剣を相手の喉元にひたりと当てて、頬に頬を摺り寄せながら楽しげに声を立てて笑う。
これは傷ではない。
脅迫だ。
あなたのそれは愛なのかと、おまえのそれは哀れみなのかと、凍った湖に映る空と同じ色の目が脅すのだ。
あの男はラムザを愛していたのだろう。勘違いだとラムザは言った。だが、相対する者の悲しみに打たれその肌の温みに泣くことが愛ではないとするならば、一体どれほどの愛がこの世に残ると言うのか。
あの男はラムザを愛していた。きっと守ってみせると少年らしく誓い、そしておそらくは自らその誓いを捨てた。彼らの間に想いが無かったと言うなら、あの男は己の固く老いた目をどう説明するつもりなのだろう。
私にはこの傷は治せない。なぜならこれは、傷ではないからだ。
だからせめて耳をそばだてて声を聞いていようと思う。一夜の相手には何の脅威も無く、執着する人間には底冷えする恐喝となって響くそれを。私を脅し、途方に暮れさせるその声を。
唇を肩に近い赤に触れさせると、ラムザは寒さに震えるように体を動かし目を開けた。
「……暗い」
「日暮れだ」
何度かの瞬きを済ますと、ラムザは一度顔を伏せて身を縮めた。起きたくないらしい。
「わかってる」
ふてくされた声を出してから、彼は埃っぽい板に両手を突っ張り首を逸らして頭を振った。不揃いの髪が浅い光を浮かべて私の目の前に散る。その姿勢のまま顔を傾けて見つめてくるので、私も床に手を付き身を乗り出した。温い刃物のような舌が唇に触れ、口を開けると躊躇無く入ってくる。舌先を舐め合ってから上下に重ね、深く押し付けて絡める。知っていることを全てやってみせてから姿勢を戻すと、ラムザは不服そうに言った。
「キスだけは上手いね」
「お互いに」
あからさまに不機嫌な表情になってラムザは黙った。私の昔の恋人の顔を思い出しているのだろう。やがて散らばった服を手に取る彼に私も倣い、支度の最後に剣を腰に下げた。足の下で廃屋の古びた板が鳴った。
帰ろう、と呟きが聞こえ木箱の上に置かれた剣に手が伸びる。そして左に傾きながらラムザは立ち上がった。
「アグリアスさん?」
武器の重みに負けるおまえの体に見惚れていたと言えば、もっと拗ねるのだろう。私は顔を左右に振ってラムザの髪に手を触れた。
「早く伸びるといい」
長いのが好きなの、と掠める視線を受けながら軋むドアを押して表に出た。
「さあ」
先のことなど何一つ私は知らない。知らないまま、行こうと思う。
振り返れば夜が追ってくる森を背負い、ラムザはやはり左に傾いでいた。
確かに私の感情は愛しているという言葉に置き換えられる。
それで全てを説明することは難しいと分かっていても。
彼の斜めに立つ姿を目にする時に湧き上がる、押さえることの難しい衝動、その存在を否定できる者はどこにもいない。彼自身にすら、それはできない。
私を追い越して行くラムザの横顔は、ただ、美しかった。
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