「蒸すね……」
呟いてラムザは薄曇の空を仰いだ。幾重にも重なった灰色の雲からは今にも雨の雫が滴りそうだ。
「じゃあ後でな」
「気をつけて」
おまえもな、と頷いて駆け出すムスタディオを見送り、ラムザは荷物を背負い直した。
初夏に向かうドーターの風は湿気を孕んで生暖かい。ゼグラス砂漠でからからに乾いた風は北側の山脈に遮られ、海からの湿気が競り勝つ季節だ。一人スラムに足を戻したラムザは、汚れた薄いカーテンが窓辺に揺れる民家の前を足早に通り抜けて入り組んだ路地に踏み込んだ。
スラム街の宿に一泊したラムザ達は、翌日午後に出発した。先を急ぎたいと一番強く望んだのは、修道院での一件を知ったラヴィアンだった。彼女にはもう少しの時間、落ち着いた場所で気持ちの整理をすることが必要だと誰もが思ったが、それと同時に、過剰な労りは重荷になるとも察せられ、最終的にアグリアスが早い出立を支持したことで、予定は一日遅れに留まった。
この先は当分野宿が続くだろうとラムザはラヴィアンに伝えた。彼女は笑い、行きますとだけ答えて間に合わせの装備で身支度を整えた。何かを隠すように、しかし開き直ってもいるように、ラヴィアンは以前と変わらない実直なアグリアスの部下の顔を取り戻すと控えめな態度で隊列の最後についた。無理をするなとは誰も言わず、ただアグリアスがぴたりと彼女の背後に付いた。
二手に分かれようと主張する皆を説き伏せ、ラムザは一人でこの街の奥に入り込むことにした。槍を扱う専門の店があると街の武器屋で教えてもらったからだ。槍は剥き身のまま持ち歩けば否応も無く目立つ。それを恐れてあえて避けてきたが、腕力自慢はラッドだけというこの隊には、固く身を守ってくれる重装備と対になる槍が必要だとラムザは感じ始めていた。「本物の」専門の店なら、槍を楽器や敷物のように見せかける、しかも軽い装飾を扱っているはずだと言うアグリアスの言葉に、ラムザは寄り道を決めた。
道々に店の場所を聞きながら、ラムザはわずかに傾斜する道を下る。見たくもない、と笑って渡されたラヴィアンの真っ赤なドレスと派手な髪飾りを換金すると安物に見えたわりにはそれなりの値段になった。これで足りなければ、当初の予定通りに自分の指輪を売るつもりだ。ベオルブの家紋を溶かし潰した傷のために価値は下がるだろうが、地金が良いから値段はつくだろう。
石の剥げた道を黙々と進めば、耳元を温く吹き抜ける風があの日の会話を真似るようだった。
――そう、骸旅団の親玉さ。
呟いた彼は、足元の死体を直視しないように視線を外しながら、破れ落ちたローブで剣の血を拭っていた。
あれからもう、二年以上の月日が流れている。
ある青年を助け、彼の主を追ってこのスラムをさ迷った時、人を殺すということに慣れる日が来るなどとはラムザは思っていなかった。北の旗の下、雄雄しい獅子に血の責任をなすりつけながら盗賊達を手にかけたあの日々。ディリータでさえ、自分が作った死体と目を合わせられなかった、そんな幼い時代。
道は暗く曲がりくねっている。あと少しで川沿いの店が見えるはず、そう思った時、ラムザは反射的に振り返った。
「誰」
体を覆ったローブの下、剣の柄に指を掛ける。
「ぶっそうなものは出さなくていい。目立ちたくないのはおまえの方だろう」
通り過ぎた時には何も無かった細い路地道に、一人の若い男が立っていた。背の高さを際立たせるかのような余りのない濃い色の衣服を纏っている。
「異端者ラムザだな」
その口調に僅かな違和感を感じながらラムザは男に向き直った。肌の色にゴーグの者かと一瞬思い、同時に違うと判じる。夜を濃縮したような瞳と白目との対比が鮮やかだ。短く刈り込まれた髪も黒く、民家から伸びた影の一部のように立った彼は、距離を測って姿勢を変えるラムザに向かって独り言のように言った。
「探しているものが、あるだろう?」
理解するよりも先に、男の言葉が肌にぴりぴりと染みた。震える音で息を吸う。
「やっと……」
失われた痕跡がやっと、現れた。
「待ってた」
影に向かってラムザは呟いた。
「会えて、嬉しいよ」
自分の声に粘りを感じる。きりきりと胸の中で何かが尖り、これに全身が覆われれば自制は効かないだろうと一層強く柄を握った。
「アルマは、どこだ」
敵意をむき出しにした唸りにも、男は濃いまつげに縁取られた特徴的な目を細めただけだった。
「用件は」
「妹を……返して欲しければリオファネス城まで来い」
逡巡とも余裕ともつかない表情で唇の端を上げ、彼は低く声を流した。アクセントがわずかに異なる単語が混じる。
「リオファネス?」
フォボハムの武器王の居城。アカデミーの授業でその名を学ぶほどに、軍事に才のあるとされる領主だ。武人を良く育て武器にも通じて新しい兵器を開発する人間までが、聖石に関わっているというのか。
「ゲルモニーク聖典を持って来い。それが条件だ」
瞳孔が確認できないほど均一な黒い目を睨みつける。何か、違和感が心を引っ掻いている。
「城の中、まで? バリンテン公が僕に会いたがっていると?」
彼は目を細めたまま、淡々と言葉を継いだ。
「来ればわかる。一人で来いとは言わない」
「本当にあれを、バリンテン公が欲しがっているのか?」
「それを問うのか? 読んでいないとは言わせない」
視線をまともにぶつけ合う二人を温い風が撫でる。
「教会の不正を暴かれたくないのか? 本当に?」
数歩彼に近寄ると同じだけ離れていく。今まで数多くの戦士に会ってきたが、目の前の男はそのどれとも重なるところを持たない。抑制が効き過ぎている身のこなしに鼓動を速めながら、ラムザは無表情を作って言った。
「僕の口を塞ぎたければ、アルマを返して」
「おまえは条件をつける立場に無い。糸を切るのも繋ぐのも、こちらの気分次第だということを忘れるな」
「……そう」
「伝えるべきことは伝えた。よく考えて賢く振舞うんだな」
ふ、と目の前の姿が歪むと同時に青年は消えた。ラムザは大きく瞬きをし、深い呼吸を繰り返した。
「ゼグラス砂漠の西側を横断して、火山の脇を通ってみる?」
「できるのですか、そんなことが」
「方向を間違えなければ三日でお城が見えてくるって聞いたことがあるわ」
「三日……。水がもつだろうか」
「そんな無理した後に戦えるかってんだ」
「そう、ね……。噴火が頻繁に起こるらしくて、火山の周りは思ったよりも危ないって話す人もいたわね。焼けた岩が落ちてきたりするんだって」
ラムザの持ち帰った槍とハープの装飾は、置き忘れられたようにテントの隅から頭を出している。
「無理をしない経路ならどうなる?」
「砂漠はお城の近くまで広がってるらしいのよね……」
ゼグラス砂漠手前の緑地で火を囲みながらの夕食だった。地域に一番詳しいジャッキーがリオファネス城までの道のりに頭を悩ませる。
「全部を避けるとするならゴルランドから王都を経由することになるわ。グローグの山とユーグォの山を両方回りこんで……。八日はかかるでしょうね」
「かかるな。短縮できないか」
「うーん」
地図を睨んでジャッキーは首を捻る。
「グローグの山はどうしても迂回しないとね。越えた途端に火山にぶつかっちゃう。だったらヤードーからこう南下して……。どう? 半日くらい砂漠を行くことになるだろうけど、二日は短縮できそうじゃない?」
「そうだな。王都に入らず山際を行けば、更に短縮できそうだ」
「待ってよ」
あぐらを組み替えながら、ラムザが顔を上げた。
「速ければいいってもんじゃない。強行軍は避けたい」
「ラムザ」
枯れ枝で火を掻き混ぜているアグネスが俯いたまま言う。
「アルマを取り戻したいのはあんただけじゃないんだよ」
「だから言ってる。戦いながらアルマを取り戻すことになる可能性が高いんだ。落ち着いてよ」
「考えてるから経路に悩んでるんでしょうが」
「だめだ、山は全部迂回する。一般の旅人が使う道を行くんだ」
「ちょっとラムザ、あたし達はそんなヤワじゃないよ」
「だめだ」
「ええと」
薪をアグネスに渡すムスタディオが、控えめに声を上げた。
「俺達、いつだって戦ってきただろ。なんでおまえ、」
ぎっと強い視線を向けられ、肩を竦めながらそれでもムスタディオは最後まで言いきった。
「おまえ、なんで今更そんなに神経質になってるんだよ。いつもなら、おまえの無茶に思える案に付き合うしかなくなるってのが俺達の役だろ」
ほんとにね、とジャッキーが苦笑した。
「ラムザとアグリアスがぎりぎりの線を見極めて、だからこそ今まで無事にやってきたんだと思うわ。変よ、ラムザ」
舌打ちをし、ラムザは横を向いた。向いた先のアグネスが、火の点いた枝の先をふうっと吹き消した。
「何があったのさ。どんな話をしたのか言ってみな」
ぱちりと爆ぜた火の粉を払い、ラムザは一つ大きく息を吐いた。
「確かなことじゃないけど」
「いいから」
「……僕らを待っているのは、バリンテン大公だ。大量の武器を持ち、作り出してもいる人物で、軍事に偏執的なまでに通じている」
「怪しい噂にはことかかない方だな」
アグリアスが頷きながら言う。
「そんな人物がゲルモニーク聖典を欲しがっているんだ」
「なるほどな……」
眉を潜めるアグリアスに、よくわからないわとジャッキーが両手を広げる。
「聖典の内容は覚えている?」
「ええ」
「聖石と十二の使徒のくだりを思い出して欲しい。ゾディアックブレイブが本当に存在するなら、それは世界を滅ぼしかねないほどの魔人でさえ倒すことの出来る最高の武器だ。公が欲しがりそうだとは思わないか」
「……」
「大公は、聖典にゾディアックブレイブを作り出す方法が書かれていると思っているのかもしれない。それはある意味正しい」
「で、でも、アルマをさらっていったのは神殿騎士団でしょ! 大公は彼らと繋がりがあって、ラムザを追っているだけかもしれないじゃない」
ジャッキーは忙しなく視線を動かしている。
「うん」
唇を歪めてラムザはゆるく頷いた。
「大公は、ただ命じられた通りに僕と聖典を追っているだけかもしれない。それとも僕を捕らえ、報酬として聖典をいただくつもりかな。どちらにせよ、向こうに渡ればろくなことにはならないよ。そして僕は、アルマが確実に戻ってくるなら聖典を喜んで差し出すような人間なんだ。だから、そうならないようにしたい。アルマも聖典もこちらにあるように、万全の態勢で当たりたいんだ」
そうか、とジャッキーの呟きにムスタディオも深く溜息を吐いた。
「そしてもう一つ気がかりがある。僕が会ったのは、奇妙な人物だったんだ」
「奇妙?」
「異国の者だ。始めはゴーグの人間かと思ったけど、顔付きが明らかに違った。発音もところどころ珍しいものだったしね」
「ロマンダの人じゃないの? 北の方には亡命者が結構いるって聞いてるわよ」
いいや違う、とラムザはジャッキーに首を振って見せた。
「ロマンダ人なら僕も何人か見たことがある。全然違うよ。それに問題は異国の者だということじゃない。……説明は難しいんだ。あの男が戦うことを生業にしている者だというのはすぐにわかった。でも単に戦士だからじゃなく、何か、僕には想像もできないような何かを持っている……そういう質だって思ったんだ。危険だ、と」
火を見つめるラムザは首を振り続けている。あの青年に付随していた独特の気配は言葉にしたくても出来ない。ひどく暗い、何か。
「僕は今、ああいう得体のしれないもの、が、怖いのかもしれないな……」
砂漠に吸われていく海風が、きつく巻きながら上空で高い音を立てている。静まった輪の中でアグリアスが上空を見上げた。
「ウィーグラフやドラクロワのようなもの、だったのか?」
ラムザに複数の視線が注がれる。
「いや……違うと思う。あれは『人』だ。ひどく抑制が効いていて音も立てなかったけど、『人』という枠を外れてはいなかったと思う」
「音を立てない、か」
「うん」
口元を押さえながらラムザは考え、ふっと目を上げた。
「そう、一番の違和感は、バリンテン大公がああいう人間を寄越したってことだ。武器を集め戦士を育てることが生きがいだって人間が、ああいう変わった人材をわざわざ僕に差し向けた。彼もまた、バリンテン大公の『武器』の一つだと考えられないか? それも、戦いの前に見せびらかしたくなるほどの」
「気にしすぎ、で済めばいいが、確かに何もかもが得体が知れないな」
だが、とアグリアスは編んで紐で留付けた髪束を背中に払う。
「そういう相手にあまり時間を与えたくない、というのが私の意見だ。もちろん慌てる必要はないが、予想よりも速く来た、と思わせられれば穴も見つけやすいと思う。そういう方向に努力するのは悪くない」
「でも」
「やってみようぜ、隊長」
膝を叩いてラッドが皆を見回した。
「いいじゃねえか、安全策を取って遠回りして、でもそん中で一番速い道選んでさっさと行ってさくっと戦う。いい案だ、隊長」
「ラッド、」
「そーいうのが俺達の身上だしよ、なあ」
長く旅を共にした女達に彼は歯を見せる。
「バケモンが出てきたときゃあ、そん時だ。修道院を思い出せよ、あれだけ打ち合わせしたって何一つ計画通りにならなかったじゃねえか。……アルマちゃんのことはアレだったけどな、俺らはそういう道を行くように出来てんだと思うぜ? そもそも、それくらいじゃねえと腕がなまって仕方ねえ」
口を開けて見上げるラムザに、なんだよとラッドは顔を傾け、ジャッキーが喉を震わせた。
「に、似てきた……! すごいわよ、ラッド!」
「はあん?」
「今の、そっくりだったよ」
「だからなんだよ」
「前隊長殿、か。確かに」
アグリアスが彼女らしい気遣いで懐かしい人物を呼び、ラッドは瞬きを繰り返した。
「あー、そっか」
そうかもなあとラッドは頭を掻いた。仕方ないね、とラムザは肩を上げた。
「そこまで言うならそうさせてもらう。きつかったら泣いてもいいよ。必ず勝ってもらうけど」
「決まりね」
「ああ決まりだな!」
「……みんな」
ラムザは強く目を瞑り、一度唇を噛んでから笑った。
「ありがとう。いや、ごめんって言った方がいいかな」
「よして」
いつの間にか胸元を掴んでいた手にアグネスが触った。彼女は笑おうとして失敗したらしく、いつもよりずっと不機嫌そうに見えた。
「みんな怖いよ。あんただけじゃないから」
そうだねと呟き、促されるまま手を預ける。抑えつけていた分、心の波立ちは荒く静まる気配は無い。放たれた感情を持て余しているという強い自覚に意識が揺れそうになる。
「そう、だね……」
それでもラムザは頷いた。
祈るように縋るように、何度も頷くラムザの手に、仲間達の手のひらが重なった。
FFT TOP