ごっこ遊び

 居酒屋は込んでおり、どこもかしこも楽しげに浮き立つ酔客で満たされていた。少し煙りがかった空気の中で、イルカはビールジョッキを握って曖昧に笑っている。
「なあ、やっぱ上忍ってあれだよなあ!」
「あー、アレだよ、全くよう」
 ムードだけで構成される意味の無い会話がイルカの回りを流れる。
「ほら、イルカも飲めって」
「飲んでるって」
「おばちゃーん、生三つ追加ね!」
 あいよー、と馴染みのおかみさんが笑い、中忍教師達のひきめく座敷から空いた皿を両手一杯に抱えてキッチンに消える。今日はアカデミーあげての『慰労会』だ。年に二度程度の、参加費無しの飲み会である。アカデミー生の卒業式を終えた一区切りの安堵とタダ酒が、教師達を浮かれさせていた。
「お、きたきた、焼き鳥」
 丁度イルカ達の前に空いた空間に焼き鳥の大皿が乗る。次々と手が伸びてあっという間に半分ほどが消え、イルカはナンコツをばりばりと噛み砕きながら隣の同僚の顔を見る。
「イルカよう」
 彼は赤い顔をして言う。面倒な予感にイルカは僅かに離れるが、彼はぐっと顔を近づけて鼻息荒くイルカを捕まえた。
「なんだよ」
「おまえさ、はたけ上忍ってどー思う?」
 え、とイルカは串を握って固まった。
「色々ウワサのある人だろう、なあ、どう思うよ?」
 いやあ、と誤魔化そうとするが、酒の粘着力によって彼は引き下がらない。
「お互いナルトの担当だろ、ちょっとは知ってるだろ」
「そりゃなあ……。うーん、普通の人、かな」
「ふつう!? な、訳ねーだろが」
「いや、普通の人だよ、働いて飯食って時々笑ったり怒ったりする」
「嘘つけ、口止めされてんだろ、一緒に酒飲んでるとことか何度か見たんだぜ、おまえは絶対、何か知ってるはずだ!」
 イルカは曖昧に笑ってビールのジョッキを握った。なんだかすごく孤独感を覚えた。
「だから、普通の人だなって思ったんだよ」
 それはイルカの極正直な感想だった。初めはイルカも、カカシを上忍という別の生き物だと思っていた。一人の生徒を挟んで対極に立つような立場でもあり、どこか構えてカカシと対峙していた時期がある。その延長上に中忍選抜試験での吹っかけ合いがあったのだ。
「な、ちょっと、ちょっとだけ、はたけ上忍のオイシイ話してくれよ」
 どうしてもカカシを『特別なモノ』にしたい同僚は食い下がり、イルカは呆れて乾いた笑いを漏らす。
「そんな事言われてもなあ……。そうだなあ……」
 オイシイかどうか知らんが、と言い置いてイルカは手元の皿の上に乗った煮つけの魚に箸をつける。
「地味。生活も金遣いも。派手に暮らすって事を知らない感じだな」
「ほー」
 と感心した声を出す同僚はしかし、その程度の話では満足しないらしく、それからそれから? と迫る。
「うー、他って言ってもなあ……。ああ、すごくおしゃべりだな、あの人は。でも、絶対に肝心な事は言わない」
 そう、カカシは言わない。決して言わないのだ。それでいて、染み入るように何かを訴える。ある朝の彼を思い出してイルカは目を伏せた。



「今日はあなたの家でじっとしていたいのです」
 夏の休日、早朝に思いつめたような表情でやって来たカカシは、居間に入るなり言った。
「へ? いいですよ、別に予定なんてなかったし」
 お茶でも、と台所へ向かおうとしたイルカは上半身をひねってカカシを振り向いた。
「すみません」
 カカシはそう言い、たっぷりと長い溜息を吐いた。その横顔が、痩せたというよりはやつれたように思えてイルカは茶を忘れて隣に座る。そっともたれかかってくる頭を甘やかしながら、イルカは額当てを外してやった。すると白粉の香がイルカの鼻をつく。カカシのような立場の者にはそうしたい時もあるだろう、そう思って知らぬ振りでいつもよりも一層白い額に口付けるとカカシは目を閉じた。
 窓からは、眩しい夏の陽が薄い光の帯となって差し込んでいる。蝉の声が空気を洗うように響き始め、光の中に舞うほこりを眺めながらイルカはカカシの肩を抱いた。
「疲れちゃって」
 ぽとり、とカカシが呟きを落とす。
「そうですか」
 慰めるように答えながらイルカはカカシの情の無さそうな薄い唇に口付けた。ぐったりと体重を預けるカカシは頼りない動きで舌を差し出してくる。彼の体は熱かったがなぜか舌は冷たく、艶事とは違う意味でイルカは熱心にその舌を舐めた。
 結局そのままカカシは寝てしまい、眠る者特有の熱さを増す体を抱いてイルカは長くほこりを眺めていた。



 なんだよ、つまんねえと無責任な事を言う同僚の声にはっとしてイルカは喧騒の中に戻る。彼は反対側の隣に座る同僚に話を向けていた。
「おまえ、なんか知らねーか?」
「あー?」
「だーかーら、はたけ上忍だよ、写輪眼!」
「あの人かあ。ああ、南の河岸で見かけた話はしたっけな」
 お、と機嫌を良くする同僚の隣でイルカは肩を竦めた。そういう話をご所望だったか。
「馴染みでもいるんだろうな、通っているのを何度か見たぜ。猪牙(ちょき)の上で煙草を持って、こう、斜めに座るのさ」
 真似をする彼を見ながらイルカは少しむっとする。この、『河岸通い』は未だに続いてるからだ。イルカ自身がそれを見た事があるから確かだ。
「随分と粋な格好をしてたぜ、渋い色の紬で、袖裏と裾回しが芥子色の小紋だったかな」
「かあっこいいねえ、あの様子の良い人なら女が離さんだろうよ」
 違いねえ、と盛り上がる同僚達の横で、イルカのジョッキから水滴が垂れて膝を叩いた。その冷たさにあの夜を思い出す。



 火影から個人的な届け物を頼まれたイルカは、里外れの川岸にいた。橙色の灯りの群れがちらちらと冬の空気に瞬き、女の嬌声が微かに聞こえる。
 里の中心にもそれなりに繁華街はあるのだが、この街はわざわざ里外れに作られるだけの規模と特別な艶を持っている。川で隔てられた場所であるのも、決して子供が立ち入らないようにという配慮からだった。
 もう少し若い頃、イルカは何度もこの街に通った。アカデミー教師となってからは足を向けてはいないから同僚達は知らないが、イルカはかなり芸妓に世話になった口だ。その頃の仲間達とは、忍としての連帯感よりも、にやりと笑い交わすようなやんちゃの縁で繋がっている。今でも互いに覚えているような馴染みの女もいない訳ではなかったが、届け物を済ませると真っ直ぐ船着場に戻って来た。
 川岸の船着場にはイルカ一人だった。この時間に街から帰ろうと思う者などいないのだ。遠くなった灯りを見つめてイルカは苦笑した。カカシという存在が無ければ、おそらく寄り道をしただろう。自分は随分と変わった。
 風が煽り飛ばしたしぶきが時折降りかかって足元を濡らす。やがて波間にぽうっと光が見えた。白いような薄桃のようなその灯りにほっと息を吐いたイルカは、次の瞬間すっと立ち木に身を隠して気配を断った。控えめだが飾り色を塗った小さな舟の上に、見知った男を認めたからだった。
 煙管を片手に着流し姿のカカシであった。そんな姿を見るのは初めてで、イルカの胸は奇妙に高鳴った。惚れ直すような、そして、酷く不快であるような、色町によく似合うカカシを見ながらイルカは息を殺した。カカシは舟から降りると、かろんかろんと下駄を鳴らして歩き去った。
 ほんの、一月ばかり前の出来事である。



「俺らが行くようなのとはケタ違いの店に行くんだろうなあ」
「美味い飯と酒、錦の布団に極上の女、か」
「なんかむずむずすんなあ。よう、上忍並とはいかねえけどよ、ちょっと張り込んで遊びに行くか!」
「行ってみっか! イルカもどうだよ」
「行かねえよ!」
 むかむかした気持ちのまま返事をした。
「お、おい、何怒ってんだよ」
「あ……や、すまん、ちょっと今は……」
 イルカが頭を掻いて笑ってみせると仲間は首を傾げながらも話を流す。
「なんだ、金が無いのか」
「ちっとは小銭を貯めとけって言ってるだろーが」
 ははは、と笑って場が収まる。
「に、してもよ。はたけ上忍、決まった相手はいないって事か」
「どうだろうな、居ても居なくても、色町には行くさ」
「だな」
「みんなそうなのかなあ……」
 やけにしみじみとイルカが言い、同僚達は噴出して笑った。
「どうしたよ、ナニか、おまえは貞操を守るタイプってか」
 いやあ、どうかなあと答えながら今夜のカカシの居所を疑っている自分が嫌になる。
「まあ、イルカは良き家庭人ってのが似合ってるな」
 そこで、妙な間があった。
「うーん、そろそろそういう事も考えないと、だな……」
 イルカも少しばかり、しん、とした面持ちになる。この三人はいずれも家族を九尾の件で失っており、彼らが早く家庭を持ちたいと思っている事をイルカは知っていた。
「なんかこうさ、にこっと笑って味噌汁作って待ってるよーな嫁さんがいいな、俺」
「あははは、ガキが煩くまとわりついてさ、休日は家族サービスに忙しいふつーの家、な」
 あーいいなあ、といきなり子供のようににこにこしだした二人と共にイルカも笑った。自分にはおそらく実現出来ないだろう彼らの平凡な夢に笑った。そして、その代わりに手に入れたものを思う。



「おかえり」
 その日家に帰ると、カカシが台所からひょいと頭だけを出した。そしてすぐにひっこむ。台所に向かうとカカシは料理と格闘中で、広げた料理本の横でフライパンをかき混ぜている。
「どうですか、上手くいってます?」
「もちろんです。上忍ですから!」
 さすがですと笑うイルカにカカシは弾んだ声を聞かせる。
「ビール飲みましょうよ、イルカ先生」
「ビール? この間、全部飲んじゃったじゃないですか」
 いやいやいや、あるんですよとカカシは冷蔵庫を開け缶ビールを取り出す。
「あれ、本物のビールだ」
「補給しておきました」
 常には発泡酒がメインである冷蔵庫には、一ダースほどの缶ビールが並んでいる。ありがとうございます、いえいえお疲れ様ですと、二人はぼよんと缶を打ち合わせた。そして久しぶりの苦味に目を細めながらイルカはぼこぼこと煮えている鍋を覗いた。
「シチューですか?」
 金色のスープと山盛りの野菜が入った大きな鍋は、考えてみればイルカの持ち物ではない。確かカカシの台所にぽつねんと光っていた記憶があった。カカシ流の見栄で置いてあるものだと思っていたが、ちゃんと使えるのだと知って密かに感心する。
「そうでーす。ほら、ルーも自分で作ったんですよ」
 フライパンにはホワイトソースがたっぷりと入っている。
「……すごいですね」
「小麦粉と牛乳でちょちょいとね」
 後は煮込むだけ、と鼻歌交じりで言いながらカカシはスープをフライパンに移してソースをのばす。何度かそれを繰り返してから、薄まったソースをぼちゃぼちゃと鍋に入れる。味をみながら塩と胡椒を振り入れるカカシの顔には、機嫌の良い時特有の涙袋がふっくりと盛り上がっていた。ぼんやり見とれるイルカを赤い瞳がちらりと伺い、二人の目が合った。
「え、えと、俺は何を……」
 変に照れてしまって横を向きながらイルカは言い、カカシは唇の先で笑う。
「机拭いて、スプーン出して、後は座ってて下さい。前菜もサラダも出来てるし、パンも温めてありますから」
 もちろん、アイスクリームケーキもありまーす、とカカシは自慢げに冷凍庫を開けて見せる。
「……す、すみません、何から何まで」
「いーえ」
 参ったなあと苦笑するイルカを余所に、カカシはビールを一気に空けた。
「煮込む間、ちょっと休憩」
 するっとカカシに抱きつかれ、イルカのビールが零れる。もったいない、と言いながら手の甲を舐められてイルカは少し顔を赤くした。その色づいた頬にキスを一つ贈りつつ、カカシはビールを奪って流しに置いた。そしてするする滑るように移動すると、居間の真ん中にイルカを転がし犬のように被さった。
「ちょ、ちょっとカカシさん、」
「あー、イルカ先生だぁ」
 感慨深くカカシは言ってきつく抱き締める。頬にかかる銀髪を撫で白い首筋に顔を埋めたイルカの鼻腔を、覚えの有る匂いがからかうように過ぎった。
「……ナルトが来ますから」
「分かってます。ホワイトソースは焦げやすいしね」
 ちょっとだけ、ちょっとだけとカカシはイルカの胸に頬を寄せた。特に色めいた仕草は無く、じっと抱き合って時計の音を聞く。と、がばっとカカシが起き上がった。えへへ、たっちゃった、と子供じみた声で言って台所に入って行く。ぐるぐると鍋を描き回す背を見ながらイルカはしばらく大の字に寝転んでいた。
「来たってばよー、イルカ先生!」
 大きな声が聞こえ、イルカは身を起こした。

 その日はナルトの誕生日だった。その少し前、何が欲しいかと問うたイルカに、ナルトは目を輝かせて言ったのだ。『おうちごはん』と。
 そんな言葉をどこで覚えて来たものか、ナルトは手料理というものを食べたがった。それはイルカには予想外の要望だった。イルカの料理の腕前は、適当な具をぶっこんだカレーを煮込む事が出来るという程度のもので、誕生日を祝ってやれるようなご馳走などは到底無理、第一大した料理道具も無い。勘弁してくれと何度も言いかけ、しかし、イルカは結局、きらきらする目に負けた。
 始めはもちろんイルカ自身がなんとかするつもりであった。しかし何パターンかの試作品を作ってみて途方に暮れた。カカシはそれらの『処理』を手伝ってくれていたが、とうとう自分が作りましょうか、と控えめに提案し、イルカがそれに飛びついて今に至るのだった。

「うおー、すごいってばよ!」
 並べられていく料理にナルトは飛び上がらんばかりに喜ぶ。
「言っとくけど、俺が作ったのよ、俺がね!」
 カカシが強調するがナルトは聞いてはいない。
「ナニ、ナニこれ、白いスープって初めてみた!」
「それはホワイトシチュー、」
「うっわー、このパンすっげーイイ匂いがするってば!」
「ガーリックフランスって言ってね、」
「いいから食わせてくれってばよー!」
 早くも座ったナルトがスプーンの尻をちゃぶ台に打ち付けて呼ぶ。肩を竦めてイルカとカカシはナルトを挟んで向かい合い、三人で、いただきます、と声を合わせて食事が始まった。
 ナルトはかつて無いほどに嬉しそうで、そして凄まじく食べた。聞けば、夕食のために朝から何も食べていないと言う。そんなに楽しみにしていたのか、こんな事ならもっと早くに、とイルカが目頭を熱くすれば、違うって、絶対イルカ先生ってば料理ヘタだろ、ナニ出されても美味くなるよーに腹減らしてたんだって、とナルトは真顔で言い、カカシが声を上げて笑った。
 ナルトは遅くまで他愛の無い話をし続け、ふっと降りた切れ目にぽつりと、泊まって行ってもいいかなと言った。その時イルカはやっと、ナルトが何をしたかったのかを理解した。イルカの作る飯が美味くないだろうと予想して尚望んだ食卓は、『団欒』であり『居場所』であったのだ。
 イルカとカカシでナルトを挟んで寝床についた。満足そうな笑みじみた寝顔のナルトを見ながらイルカが眉を下げていると、カカシが小さく『家族ごっご』ですね、と言った。そういえば、人数が多い方がいいかとサスケやサクラを誘おうかとイルカが言った時、ナルトは妙にきっぱりと、それはダメだと答えた。そうカカシに語ると、ひと時でも嘘でも、自分だけの家族が欲しかったんでしょうと穏やかに返事があった。
 翌日、並んで任務に向かうカカシとナルトにイルカは「行ってらっしゃい」と声を掛けた。「じゃあな」でもなく「また来いよ」でもなく。ナルトに言うには若干照れる台詞ではあったが、これがあって完成する『ごっこ』だと思ったからだ。そしてそれは正解だった。振り返り、「いってきまーす!」と答えたナルトの笑顔は、思い出す度にイルカの胸を締め付け暖かく満たした。



 こういう人生もいいかもしれない。
 そうイルカは思っている。本当の家族にはなれないが、それに似た何かを手に入れて自分は充分に幸せだ。引き止める二人を置いての帰り道、イルカはそっと微笑んだ。視線の先、自分の部屋に灯りが点いている。それが嬉しくて仕方が無い。
 扉を開けるといつも通りにカカシが居間から顔を出す。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「飯、食います?」
「や、もういっぱいです」
「じゃあ風呂?」
「……なんだかお母さんみたいですね、カカシさん」
 せめてツマと言って、と笑いながらカカシは寄って来た。
「あー、イルカ先生だぁ」
 最近よく耳にする台詞をまた吐いてカカシはうっとりイルカを抱いた。ああ、またあの匂いが、そう思いながらそっとカカシを剥がしてサンダルを脱ぐ。
「埃っぽいからちゃっちゃと風呂入ってきますね」
 はーい、とカカシは居間に消えた。

 シャワーの下でイルカは項垂れた。さっきまで、浮き立っていた気持ちがぺちゃんと萎んでいる。
 ――よく、分からない。
 自分がどうしたいのか、カカシがどうしたいのか。とうとうと降り注ぐ湯に打たれていると、ぎしっと風呂場の前の床が鳴った。
「入るよ」
 え、と思う前にカカシが侵入して来た。
「……カカシさん」
「いーじゃない、いーじゃない」
 外へ出そうとする手を捕まえられ抱きこまれてイルカは溜息を吐いた。カカシの首筋から立ち昇る白粉の甘い香りが、シャワーに暖められ一瞬強く輝き、そして同時に水と共に流れて消えていく。
「ね、いいよね」
 違う意味になってきた。イルカは特に抵抗もせずにカカシの好きにさせた。深く合わせた口付けで知るカカシの舌は冷たくしかし肌は熱く、その感触に既視感がくらくらとイルカを覆う。それもすぐに、大きな熱波に奪われて消えた。

 湯船に浸かってぼんやりしていると、体を洗い終わったカカシがぎゅっと背後に填まり込んで来た。
「ちょ、ちょっと、狭いんだから!」
「だいじょぶ、こうして乗って、」
「ヘンなところ触らない!」
「仕方ないでしょ、狭いんだから」
 だから出ろと言ってるんだろーが、と抱き締めてくるカカシの腕を思い切りつねった。しかしへらっと笑う上忍は、濡れた髪を摺り寄せて離すもんかと腕の合わせを深めるだけだ。
「今日はねえ、見逃して下さいよ」
「今日も、でしょう」
 真面目に会話するのが馬鹿らしくなって、イルカはぐったりカカシにもたれて目を閉じた。
「今日は、特別なの!」
 カカシは妙に強く言い張ってイルカの耳をぱくりと食んだ。
「はいはい……」
 温い溜息を落とす。湯気の充満した風呂場に、二人が静かに立てる水音が響いては途切れる。今のカカシからは彼以外の何の匂いもせず、イルカの肌は緊張せずにカカシのそれに馴染む。
「のぼせた?」
 ぐにゃぐにゃと脱力したイルカの体を掻き抱いてカカシは囁く。遠く近くに浮き沈みする、理解出来ない訳ではない男の不実というものが、イルカを複雑に微笑ませる。
「いいえ……」
「さっきはかちかちだった。緊張してたの?」
「だって、おしろいが……」
 うっかり本音が滑り出た。なんでもないです、と急いで言ったが、カカシは少し腕の力を強めた。
「イルカ先生」
「いや、いいんです、いっそ何も言わんで下さい」
 イルカは覗き込んでくるカカシの視線を嫌がって横を向いた。カカシは無理強いはせず、頬に軽く唇で触れた。そうして随分と長く湯にたゆたい本当にのぼせると思い始めた頃、触れていた唇がそっと動いた。
「イルカ先生、不思議だと、思った事はありませんか」
 何が、と聞く前にカカシは続ける。
「アカデミーの生徒に、二親とも不明の子が多すぎると」
 素直にイルカは受け持ちの生徒の顔を思い出す。三十人ほどのクラスの中、親が居ない子供は意外と多い。普段は一纏めに考えていたが、よくよく思い出せば親が死んだという訳ではなく、はじめから『いない』という子供が何人もいる。大概は養父母やそれに準ずる者の元で幸せに育っていたし、親がいない、不明である、という不自然さは忍里の性質故と理解していたから気付かなかった。
「それが何か、」
「そういう子は大概優秀でしょう? 努力に関わらない素質の面で、だけど」
 少し考え、確かにそうだとイルカは思った。思った途端、イルカの心臓が一つ大きく跳ねた。
「そういう子を作るための場所が、あるんですよ」
 ひときわ派手に遊ばせる宿がある。禁制の阿片が薄く漂い、意識を現実から完全に切り離す趣向を凝らした華美な宿が。実は芸妓も客も全て高位の忍、『遊び』という仮装で心を誤魔化し互いに知らぬ顔をして繁殖するために集まる場所、そんな噂とも伝説ともつかない宿の話をイルカは若い時代に仲間から聞かされた事があった。
「ある種の忍は、そこに行く事を義務付けらています。死んでしまう前に、必ずそこに行かねばなりません」
 ぶる、とイルカは震えた。それはずっと、繰り返されてきた事なのか、里のためという大儀を掲げて。
「でも俺はもう、行かなくていいそうです。これであなたとずっと一緒に居てもいいんです」
「カカシさん、」
「あなたはずっと先生をやっててね」
 カカシは歌うように言う。その顔を見られず、イルカはきつく目を閉じ絡まる腕をしっかり抱いた。
「五年後も十年後も。そして親を知らない子が来たら、きっと正しく育ててやって」



 銀木犀の散る生暖かい夜に、二人はぴったり体を寄り添わせてベッドに入る。
「また、ナルトを呼んでやりましょう」
 眠っていると思ったカカシが寝ぼけた声でそう言った。伸ばしてくる手を握ってイルカは微笑む。
「……料理はお任せします」
 お任せされました、と声が小さくなる。

 ナルトの望み、里が行っている事、そして自分達のしているもの。それらは等しく何かの『ごっこ』だ。何かを手に入れるためではなく、先に進むための白々しくしかし、真剣な。

「いっしょにいようね」
 眠りに引き込まれながらカカシはそう言い、イルカは、はいと笑う。それでも、手に触れる暖かさが確かにここにあると、笑う。







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