白い花火

 冷たい手だ。
 俺の両手の間に収まっている白い手はとても冷たい。
 時折窓が、羽虫のような音を立てて揺れる。

 長い時間手を握っている。
 その手はぴくりともせずただ冷たい。熱が移るようにと指を絡ませているが、むしろ体温は下がっていくようだった。長い指にしては小さめに思える爪を撫で、そこがとりわけ冷たいから口に入れようと思って、やめた。
 窓が鳴る。彼の微かな呼吸音がそれで聞こえなくなる。動かないのは手だけではなく、彼の仄青い瞼もまた、重く閉じたままだ。控えめに上下する彼の胸を覆った白いシーツの厚みは、俺が知っているそれよりも薄いように思う。気のせいではないだろう。
 最後に二人だけで過ごしたのはいつだった? 年を経て彫りが深くなった彼の顔を見つめ、飛び去った月日を数える。と、頬が微かに痙攣した。唇を動かそうとしていると気付いて俺は息を潜めて待った。
「もう、帰って下さい」
 彼は囁いた。
「はい」
 俺は動かなかった。

 時間が過ぎていく。
 彼は眠ってしまったのかもしれない。
 指は相変わらず冷たい。
 とてつもなく遅い点滴の滴りを眺める。透明なその液体は生理食塩水だ。他に入れるべきものはないのだろうか。
「夏祭りに」
 彼の指が動いた。彼の爪が、小さくて半月の浮き出た薬指の爪が、俺の人差し指の関節に引っかかって一瞬だけ藻掻いたのだ。
「行きましたね」
 彼の声に耳を澄ませる。
「花火が綺麗だった」
「覚えています」
 あの花火。
 色の無い、白い花火。
 空に弾けた火の玉が無数の星を散らし、彼はそれに照らされていた。
「綺麗だった」
 彼の瞼が震えた。全身の力をそこに集め、ゆっくりと持ち上げる。黒い瞳が覗き、俺は息を止めた。
「もっと出掛けたら良かった」
 微笑みに近い表情で俺を見つめて彼は囁いた。
「あなたと一緒に、綺麗なものを、たくさん見れば良かった」
 黒い左目が俺を見る。
「あなたと」
 微かに文様が残っているが、炎の消えた左目が俺を見る。
「どこへでも行けば良かった」

 俺の返事を待たずに彼は深く眠ってしまい、消灯の時間が近づいたので俺は病室を出た。扉を開けると、黄色い灯りが照らす廊下の長椅子から一人の女性が立ち上がった。
 俺をここに呼んだ人だ。
 彼女が何かを言う前に俺は腰を折って礼を取った。顔を上げると僅かな時間目が合ったが、互いに言葉は出なかった。



 病院を出て帰り道に踏み込む。月も風も無い夜だ。夜道は氷室のように凍り、どこまでも、どこへでも続いているように細く真っ黒だった。
 家への道を歩く。長く一人で歩いて来た道だ。これからもそうだろう。ひととき、隣を歩く人がいた、その所為で今になって寒い。俺は河原の脇道で立ち止まった。町灯りが途切れる空き地で、彼とそうしたように天を仰いだ。
 空いっぱいの星が、音が聞こえそうなほどに瞬いていた。花火、と思い出す。綺麗だったねと、彼は言った。派手好きのあの人はきっと、色とりどりの目映い空を覚えているのだろう。俺の思い出の中に咲くモノクロの花を知る事はない。

 あの夜、彼はいつになくはしゃいでいた。任務服のまま、二人で並んで林檎飴を買った。大きいの、と言う彼を叱って姫林檎を握り、綿菓子を奪い合って食べ、ヨーヨー釣りをしようとしてテキ屋の兄さんに厭がられた。普通の子供には絶対に取ることの出来ない、底に沈んだヨーヨーを狙う事で折り合った。どちらが多く釣れるか賭け、彼が負けた。
 大勢の人が楽しげにそぞろ歩く中、俺達も笑いながら歩いた。出店が並ぶ大通りは暑く、河原に出て花火を待った。やがて子供達が駆け回る中、最初の花火が大きく開く。どおん、どおん、連続で咲く炎の花を仰ぎながら、柳だ、と彼が嬉しそうに呟いた。
 ゆっくりと歩いた。人のまばらな場所に出ると彼はそっと俺の手を触った。表で手を繋いだのはそれが初めてだった。
 俺達は、暮れゆく部屋の中で体を寄せ合い、外に行こうと言い、行きましょうと答え、しかしそれまで決して二人並んで歩く事はしなかった。出来るはずがなかった。彼には帰るべき家があり、そこには待つ人がいたからだ。俺を抱き締め、溶けてしまえればいいのにと囁きながら、彼が時間を気にしていたのを俺は知っている。
 彼の手、俺の好きな長い指と小さな爪。汗ばんだ手のひらを併せて俺達は空を見上げた。次々と上がる花火を一つ一つ目で追い、彼は微笑んで俺を見つめた。
「俺達、別れましょう」
 彼の後ろで一際大きな花火が開いていた。俺は何も言わなかった。
 手を繋いだまま、俺達は川べりの道を歩き続けた。擦れ違う中には、俺達の様子を目に留め、はっと目を反らす人もいた。それでも彼は俺の手を離さなかった。
 どおん
 花火の群れが空に舞う。やけっぱちのように群れなして散っていく。
「さよなら」
 手を離し、彼は言った。その言葉と同時に川向こうで大掛かりな仕掛け花火が弾けた。橋のように光の列が川を渡っていく。俺はそれに目を奪われた振りをした。火薬の臭いと爆ぜる音、人々の歓声、やがて煙が立ち昇る暗い川面が現れ、川原のあちこちで人々が立ち上がる。祭は、終わった。
 顔を戻すと彼はいなかった。分かっていた。
「さようなら」
 俺は呟き、家に向かって歩き出した。暑い夜だった。



 星の瞬きが落ちてくるようだ。家に帰ろう。あの夜と同じに俺は一人で家に帰ろう、そう一歩を踏み出した時だった。
 強い衝撃が背中にきた。全く気配に気付かなかった。さすが、と思って振り返る。あの女性の細い肩とつむじが見えた。
「あの人の願いなの」
 胸に手をやると、忍具の先端が突き出していた。
「そうですか」
 溜息と共に俺は答える。
「我侭でごめんなさい」
 私も、あの人も。そう続ける彼女の声は小さかった。
「いいんですよ」
 急に膝が痺れた。もう、立っていられない。彼女が俺を支えるようにして腕を掴み、それに縋って小石の目立つ道の上に両手を突いた。
「行って下さい」
 彼女の足は僅かに逡巡し、しかし一瞬後には消えた。俺はほっと気を緩めて全身の力を抜き、冷たい道に横たわった。
「さようなら」
 夜空は尾を引いて回る星で埋め尽くされている。天そのものが白く歪むようだ。
「さようなら」
 泣いているのか、俺は。何のために、誰のために。
 さんざめく星の瞬きを瞼に映して俺は目を瞑った。





 ナルトが俯いている。一歩後ろにサスケが横顔を見せ、サクラが両手を顔に当てている。
「おまえら、来ていたのか」
 アスマの声にサスケが会釈する。
「どうも」
「おう」
 無口な者同士の簡素なやり取りにナルトが振り返った。
「お久しぶりだってばよ」
「そうだな」
 苦い笑顔のナルトと目を合わせられず、アスマは新しい煙草を探して胸に手を突っ込む。
「間に合ったわね」
 参列者の間からするりと抜け出し、紅が手を上げながら寄って来た。
「なんとかな。ガイは?」
 助かった、と書いてある男の顔に苦笑して紅は肩を竦めた。
「『俺は生きたあいつを覚えている、それでいい』って。任務に行っちゃったわ」
「あいつらしいな」
 葬儀の終わりを告げる太鼓の音が、遠雷のようにどろどろと辺りに轟き始めた。動かないナルトにサスケが何かを言っている。
「送り太鼓だわ」
 紅が空を仰いで呟く。
「行くか」
「ああ待って」
 太鼓が一旦鳴り止む。紅は、慰霊碑の前で帰って行く人々に頭を下げている女性に手を振り、近寄った。
「歩ける?」
「ええ」
 やつれた顔で女は頷く。再び太鼓の音が響き始める。今度はゆっくりと、刻むように。故人の年齢と同じ数だけ鳴らすのだ。幼いならば月数、もっと幼ければ生きた日の数、故人を偲ぶ音が続く間に参列者は解散するのがしきたりだった。私達も行きましょう、と紅は女の肩に手を乗せた。
 人々は慰霊碑を振り返らず里に戻って行く。新しい名も、風雪に晒されじきに古い石に馴染む事を知っているのだ。
 と、流れる人々に逆らって駆けてきた人影が三人に向かって手を上げた。その顔を認めて紅が僅かに唇を開き、アスマの視線が遠くに泳いだ。
「お久しぶりです」
 駆け寄って来た男は丁寧に頭を下げた。
「お久しぶり……」
「ああ」
 男は二人に挟まれた女に向き直って、労わるように会釈した。
「ええと、あなたが……」
 静かな眼差しを彼に向け、紅に支えられた女が微笑む。
「イルカ先生ね。あの人がお世話になりました」
「いいえ、俺はなんにも……。俺の教え子がナルトなんですよ。あいつを立派に育ててもらって、俺こそがお礼を言わないと」
 ナルトの親父みてぇですね、俺、と頭を掻くイルカに女はだた頷くだけだった。隣の紅が物言いたげな視線を女に向け、アスマは口の中でぶつぶつと何事かを呟いている。
「どうぞお疲れが出ませんように」
「ありがとうございます」
 女と型通りの挨拶を交わし、イルカは慰霊碑に向かって走って行った。
「……おい」
 女に問い掛けるアスマに紅が手首を返す。
「やめなさいよ」
「あの人の願いだったの」
 女は俯き、唇を柔らかく曲げる。



「ナルト!」
 イルカの声にナルトが跳ねるように振り返った。
「イルカ先生、遅いってばよ」
「すまん、ごたごたしちまった」
 先生はいつもごたごたしてるな、と苦笑するサスケの肩を叩いてイルカは慰霊碑の前に進む。頭を垂れてしばしの黙祷を捧げ、そして腰を屈めると新しい文字を指先で触った。
「お疲れ様でした……」
 う、と背後のサクラが息を詰める。
「おまえに責任は無いよ」
 しゃがんだままイルカが静かに言い、ナルトも小さく頷く。
「五代目もシズネさんも手を尽くしたんだろう?」
「でも……でも、もっと私が……」
 震えるサクラにサスケが呟く。
「言い始めればキリが無い」
「……」
「キリが無いんだ」
 ぶっきらぼうながらも、労わりの響きを持つサスケの言葉にイルカは目を細める。かつての『子供達』は、時に寒さに身を寄せ合う事はあっても、それぞれが立つ場所を知る大人になった。彼らが成長する礎の一つとなった男へもう一度感謝の黙祷を贈り、イルカは立ち上がった。
「なあなあ、みんなで一楽行こう。精進上げだってばよ」
 ナルトが明るく言い、サスケとサクラの腕を引く。
「そういう言葉も覚えたのか。なるほどなあ。成長したなあ」
「ラーメンだぞ。どういう精進上げだ」
「いいじゃんいいじゃん! サスケも覚えてるだろ、七班みんなで行った店だしさ!」
「へー、そういう事もしてたのか」
 あったりまえ、俺達カワイイ部下だったもんな、とナルトはサクラを覗き込む。彼女は少し躊躇したが、結局頷いた。よし! とナルトは拳を握り、そしてふっと空を見上げた。
「先生、案外トシ食ってたんだなー」
 重々しく太鼓の音が続いている。
「……数えてたのか」
「サスケも数えてるくせに。結局顔も見られなかったし、年くらい知ってもいいじゃん」
「顔……」
 何だよ、とナルトが振り返るとイルカが首を傾げている。
「おまえら、顔見ないままだったのか?」
「ぜーったい見せてくれなかったってばよ!」
「そう、なのか……」
「どうした、イルカ先生」
「いや……。知っているような気がしたんだ……?」
 こめかみを押さえ、イルカは目を閉じた。しかしすぐに頭を振り、笑った。
「おまえらが知らんものを、俺が知ってる訳ないな。勘違いだろう」
「割とカッコ良かったみたいよ」
 にこり、と笑顔を作ってサクラがイルカを見上げる。
「思いだしたっ!」
 いきなり大声を上げるナルトにサクラが飛び上がった。
「なんなの、もう! いくつになっても騒がしいんだから!」
「思い出したんだってばよ! 一楽のおやじさん、顔見てる!」
「……そう言えばそうだな」
 記憶を探るサスケに、な、な、とナルトが踊るように足を大きく踏み出した。
「似顔絵とか描いてもらおうぜ!」
「ちょっと面白そうかも」
 賑やかに相談するサクラとナルトの後ろで、参加しない振りでサスケが耳を澄ましている。不意に、夕闇の中、賑やかしく受付所を目指す七班を見た記憶がイルカの中に蘇った。
 少しふくれた様子のサクラが無駄に元気なナルトを小突き、一歩遅れるサスケが溜息を吐き、先導する男は呆れながらも楽しげだった。赤い山際は僅かに青みを帯びて、すすきがさらさらと、影のように密やかな音で辺りを満たしていた。
 どおおおん
 太鼓の響きが空を渡る。
「イルカ先生?」
 三人が、立ち止まったイルカを呼ぶ。
 夕焼けはやがて青い闇となる。青い時間は二度、日没後と日の出前にやってきた。
「イルカ先生、どうしたってばよ?」
 白く浮かぶ人。青い時間の中で彼を見るのが好きだった。緩慢で、それでいて全てに無駄が無く寂しく、溶けそうになっている彼を引き止めた。ずるい、酷い、どうしてと、幾度となく頭の中で繰り返しながら、同じ自分を知っていた。

 どおおん

 頬から首へ、白い指が。遊ぶように殺すように。長い指の先の小さな爪。冷たいそれを唇で挟むと微かに笑う、あの、

 どおおん

「花火が……」

 白い花火。綺麗だったのは。

「イルカ先生」
 ナルトに腕を掴まれ、イルカは顔を上げた。胸の辺りに痒みを感じて手を置くと、青白い影は柱に隠れる猫のようにするりとどこかへ消えた。目の前には金髪が揺れている。
「おまえ、大きくなったなあ……」
「変だよイルカ先生、胸がどうかしたのかよ」
「ん? ああ、一昨日かな、虫に刺されて痒くてな」
「え、二個並んでたらダニよ!」
「はは、一個だけだ。千本の先で突いたみたいな小さな痕。大丈夫だよ」
「……どうだか」
 先生の家はそんな不潔じゃないぞー、と笑ってイルカは歩き出した。いつになく心配そうなナルトの肩を抱いて促す。
「今日は奢ってもらうからな。おまえらには散々投資したもんな!」
「任せろってばよ。でも野菜ラーメンにしなよ」
「なんだ、景気悪いな、おまえ」
「イルカ先生、いい年なんだから野菜食べなきゃだめだってばよ!」
「先生は老人じゃないぞー。チャーシュー麺大盛りで食うぞー」
 長い影を絡ませながら、四人は里へ降りる道を下って行った。





 人の姿の絶えた慰霊碑の上、最後の太鼓が一際深く響いて空気に溶ける。
 一欠けらの雪が石の上に舞い降り、小さな染みを残して消えた。
 今夜里は、真白に姿を変える事だろう。






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